母と白湯とビワ
2年前、母が亡くなりました。
正直なところ、母のことが嫌いでした。不平不満を容赦なく周囲にぶつける人で、こんな大人にはなりたくないと、子供なりにいつも思っていました。
そんな母も晩年はすっかり衰えて、近所に住む私の姉が世話を一手に引き受けていました。私は長く実家と疎遠だったのですが、さすがに責任や申し訳なさを感じ、時々は2週間程度帰省するようになりました。
家事は膨大でしたが、できることを丁寧にやり続けました。母が食べられそうな献立を考え、室内や水回りの清掃、往診や介護の対応などにテキパキと動き回りました。時には母に、新聞や小説を読み聞かせたりもしました。母は毎晩「ありがとう」と私の手を握り、私は生まれて初めて、親孝行の充実感を味わうことができました。
ある朝ふと、食卓テーブルの上の紙きれに気付きました。そこには【今日も一日ありがとう】と走り書きのような文字。昨夜、私の入浴中に母は就寝し、握手できなかったためか、置き手紙を残していたのでした。
恐らくは何十年ぶりかで目にした、頼りなく弱々しい母の字が、私の眼の中でうっすらと滲んでいきました。
母の葬儀後のお斎の際、大失態をしでかした苦い思い出があります。
具の入った吸い物のお椀に、お湯を注ぐ役目を仰せつかりました。サイドテーブルには吸い物のお椀の他にお茶の用意があり、それぞれにポットが並べてあったのですが、何の気なしに私は、わざわざお茶の横にあったポットからお湯を注いでしまいました。
会食が始まり程なくして、吸い物に味がないとの声が相次ぎました。仕出し業者が出汁を入れ忘れた等の文句が飛び交ったのですが、試しにもう一つのポットのお湯を注いでみたところ、そちらに入っていたのは正真正銘の出し汁だったのです。
二つのポットは吸い物用とお茶用に分けて並べてあったのに、焦っていた私はその用途に思い至らないままお湯を注いでいたのでした。いい歳をして、こうした場面で頭が真っ白になる自分に、ほとほと呆れて情けなくなりました。
意気消沈していた後日、姉が電話で耳寄りな話を聞かせてくれました。姉の娘である私の姪が、こう言ったというのです。
「おばあちゃん、最後の頃よく白湯を飲んでたよね。きっとおばあちゃんが、みんなにお湯を飲ませたんだよ」
姪の優しい言葉で萎れていた心がほぐれ、救われた思いがしました。
「煮え湯ならぬ白湯を飲ませる」は母の最期の御礼メッセージか、あるいは少し偏屈ないたずらだったのかもしれません。それならば、いい供養になったのだろうと、気持ちの整理がつきました。
母が亡くなった翌年のことです。姉の夫である義兄がある日、自宅にビワを持ち帰りました。義兄は職場の敷地内にあるビワの木を大切に世話していて、実を収穫してきてくれたのでした。
たまたま遊びに行っていた私もお相伴に預かりました。まずはその丸々した実のふくよかさに見入り、さっそく一口ガブリついて思わずうなったものです。瑞々しい甘さが口中に広がって、ビワならではの歯ごたえと香りに感嘆しました。
ビワには懐かしい思い出があります。小学生だったある夜、トイレに起きた際に目撃したのは、ひっそり一人でビワを食する母の姿。一瞬、見てはいけないものを見てしまったような緊張感で固まりました。
「怒られるかも」という警報が頭を巡り、さっさとその場を離れようと思いながらも足が動きません。気配に気づいた母と目が合いました。母はすぐに手招きして横に座らせ、ビワの剥き方を指南してくれました。母と二人、夢中で食べたビワの美味しかったこと。その時からビワは、私の大好物になったのでした。
とはいえビワの出回る季節は短く、安価な品は見た目もイマイチで手が伸びません。私が結婚した当初は、よく母が送ってくれたものでしたが、自分ではあえて購入することもなくなり、すっかりご無沙汰になっていた果物でした。
丹精込めて育ててくれた義兄のお手柄です。おかげで本当に久しぶりに、ビワらしいビワを心ゆくまで味わうことができました。優しいオレンジ色が、遠い日の甘酸っぱい記憶の中で、母の面影と重なりました。
