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秦の中華統一、最大の功労者「王翦」

【王翦】

 王翦は、戦国四大名将の一人とされています。他の3人は、李牧、廉頗、白起です。王翦は、秦軍最強の武将とされています。司馬遷も、秦の中華統一の最大の功労者だと評価しました。王翦の人物評は、この司馬遷の史記をもとにしています。司馬遷は、儒教的な理想を持っていました。そのため、秦の覇道的な統治には、やや批判的です。司馬遷は、秦に徳がなかったので、短命に終わったとしています。
 当時、秦では、実力があれば、出身国を問わずに重用されていました。王翦は、生粋の秦人とされています。活躍したのは始皇帝の時代になってからです。始皇帝には、かなり信頼されていたとされています。王翦の一族は、息子の王賁、孫の王離と3代に渡って軍事的に活躍しました。

【その戦術】

 戦国時代、中国は、7つの国に分かれていました。それを統一したのが秦です。その7つの国は、力が拮抗していたわけではありません。始皇帝が即位した頃は、すでに秦の一強時代でした。他の6カ国のうち、秦に対抗できたのは趙と楚だけです。その趙と楚には、それぞれ名将がいました。それが趙の李牧と楚の項燕です。王翦は、その趙と楚を滅ぼしました。それ以外の国は、ほとんど息子の王賁が滅ぼしています。
 王翦が強かったのは、統率力があり、補給と兵士の士気を管理する能力に長けていたたからです。また、確実に勝てる戦いだけを選び、勝てる時だけ戦いました。そのため、派手さないとされています。
 王翦は、謀略にも長けていました。趙を攻略する時に使ったのが、反間計「はんかんけい」です。王翦は、趙王の佞臣「郭開」を買収しました。佞臣とは、自分の利益のために、王に媚びへつらう人のことです。秦にとって、最大の障害だったのが李牧でした。なぜなら、李牧が、何度も秦軍を撃退していたからです。郭開は、趙王に李牧が秦と内通してると讒言しました。讒言とは、人を陥れるために嘘を告げ口することです。その結果、李牧は斬首されました。

【楚攻め】
 秦が、楚を攻めるにあたって意見が分かれました。王翦は、60万人必要だとしたが、若い李信は、20万人でよいとしたからです。始皇帝は、李信の意見を採用しました。その李信を迎え撃ったのが楚の項燕です。結果、李信は大敗しました。これが、秦の中華統一戦における最大の敗北だとされています。今度は、王翦が、60万の大軍で楚に侵攻することになりました。それは、秦のほぼ全軍だったとされています。
 王翦は、処世術にも長けていました。始皇帝の猜疑心を避けるため、繰り返し莫大な褒美を要求したからです。それは、裏切るつもりがないことのアピールだったとされています。
 王翦は、守りを固め、敵を誘い出す作戦に出ました。それを「不出の策」と言います。その狙いは、戦わずして、敵を疲労させ、士気を低下させることです。楚は、長期戦には向かなかったとされています。補給路が長く、うまく国内も統治出来ていなかったからです。膠着状態になった楚軍は、仕方なく退却しました。そこを追撃したのが王翦です。結果、楚軍は壊滅しました。
 司馬遷は、王翦を軍事だけ優秀だったとしています。始皇帝に迎合して、自分の身を守っただけだからです。王翦は、政治、道徳面で無責任だったとしています。臣下として、焚書坑儒などの残虐行為を諌めなかったからです。



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