ボスラ大劇場。シリア内戦前夜。
この文章は世界の街を切り取った旅エッセイです。
題して「見知らぬ異国で、ひとりごつ」
これは、まだ銃声のないシリアの話だ。
ダマスカスの街は穏やかだった。
石畳を歩く人々の顔に、柔らかな光が差していた。
道を尋ねれば、誰もが笑って教えてくれた。
困っていれば、すぐに手を差しのべてくれた。
午後のカフェでは、ミントティーの香りが漂い、
誰もが、今日という日を、何気なく生きていた。
平和な町だった。
本当に、ただの“日常”が、そこにあった。
ボスラへ向かった。
ダマスカスから南へ。
乾いた風を受けながら走る。
その果てに、それは現れた。
ローマ時代の大劇場。
黒い玄武岩で組まれた、荘厳な円形の建造物。
時を超えて立ち尽くす、静かな巨人だった。
舞台。
客席。
空へ向かってゆるやかに重なる石段。
座ってみる。
風が通り抜けていく。
千年以上も前、この場所で人々が笑い、拍手を送っていたのだろう。
彼らの声が、石の奥にまだ眠っているような気がした。
そして、内戦が始まった。
二〇一一年。
シリアは戦場になった。
ダマスカスも、ボスラも。
最近ニュースで「終結」という言葉を聞いた。
けれど、いまもシリアには入れない。
あの街並みは、あの人々の笑顔は、あの劇場は——
いまも、そこにあるのだろうか。
平和だったダマスカス。
優しかった人々。
風が吹き抜けたボスラの劇場。
わからない。
ただ、願う。
どうか、残っていてほしいと。
―ああ、またひとつ、見知らぬ異国で、ひとりごつ。
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