見出し画像

世界の中心で、かゆいと叫ぶ。

この文章は世界の街を切り取った旅エッセイです。
題して「見知らぬ異国で、ひとりごつ」


日本を出て、もう一年になろうとしていた。
インドネシアのビンタン島から、フェリーに乗る。船は、まるで秒針の音を立てるかのように、カチャン、カチャンと正確にシンガポールの港に着いた。
これまで旅してきた東南アジアの、一時間は平気で遅れるのんびりとした空気とはまるで違う。ここには、すべてが定められたレールの上を、精密に動いているような緊張感があった。

街に出ると、その空気はさらに強く、冷たいものになった。ガラスと鉄骨でできた高層ビル群が、空に向かってすっすっと伸びている。まるでSFの世界に迷い込んだようだ。どこを見てもピカピカで、地面にゴミ一つ落ちていない。無機質な冷たさが、肌をひりひりと刺す。

そんな非現実的な空間で、わたしは「日本の匂い」を探した。

まず、デパートの地下へ向かった。そして、そこにあった吉野家で、牛丼を注文した。値段は日本よりずいぶん高かったけれど、一口食べると、その味は、遠い故郷のそれとまったく同じだった。なつかしい薫りが、鼻の奥にじーんと広がる。

食事が終わり、デパートを歩いていると、タワーレコードの看板が目に飛び込んできた。さらに、紀伊國屋書店の広々とした店内には、日本のマンガや雑誌がずらりと並んでいる。
日本食と、日本の本と、日本の音楽。この一角は、まるで日本の文化をぎゅっと濃縮したかのような、不思議な魅力を持っていた。そして何より、トイレはどこも無料で清潔で、その水の流れる音は、カシャーと軽やかに響いた。

シンガポールの完璧なインフラと、日本の文化の快適さに、わたしは安心感を覚えた。しかし、その時、ふと気づいた。これは旅ではない。観光でもない。ただの見物だ。与えられたものを、ただ消費しているだけだ。旅には、もっとざらついた肌触りや、思いがけない響きがあったはずなのに。

安宿のドミトリーに戻ると、その安心感は一瞬にして崩れ去った。一泊10シンガポールドル(約800円)という安さに惹かれて泊まったけれど、ベッドに横になると、なんだかかゆい。寝返りを打つたびに、むずむずと体がうごめく。ダニか、それとも南京虫か。

翌朝、わたしはカバンを広げ、散らかった荷物をひとつずつ丁寧に詰めていった。パッキングの作業は、いつも次の場所へ向かう高揚感をもたらすものだった。だが、この日は違った。丁寧に、けれど、どこか心ここにあらず、ただただ手を動かした。
そう、この旅で、わたしが見つけたものは、完璧な街の裏側にある、もう一つの顔だった。ただもう繰り返す移動には疲れてしまっていた。

―ああ、またひとつ、見知らぬ異国で、ひとりごつ。

Google Geminiと相談しながら創作しました。
カバーイラストは「宮崎駿」風のアニメイラストでお願いしました。


いいなと思ったら応援しよう!

ぶるうす恩田 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!