0.1秒の逡巡 #7:無垢な選択 ―― アナログ・レジスタンス
0.1秒の逡巡
Laed:ミライ
西荻窪の廃ビルの地下。
埃とカビの匂いが染み付いたコンクリートの床の上で、私は手のひらに乗った小さな物体を見つめていた。
一点の曇りもない、透明なプラスチックの立方体。
昨日、ジャンク屋の老店主・老(ラオ)から外付けSSDと一緒に渡されたものだ。
「真の乱数発生装置だ。
演算の神様でも、こいつの出目だけは予約できない」
紫煙の中で老が言った言葉が、耳の奥に残っている。
膝の上にのしかかる自作PCの重みが、今の私の錨だった。
無骨な鉄の箱の中で、不完全なAIであるラグの冷却ファンが、カビ臭い空気を吸い込んで頼りなく回っている。
そこから伸びる不格好なケーブルが、私のスマートフォンに深く刺さっている。
私を監視し、最適な未来へと誘導し続けた電脳の欠片。 それをコンクリートに叩き割る衝動を飲み込み、今は敵の電波を拾うアンテナとして握りしめていた。
「ラグ」というひどく遠回りな思考のフィルターを通せば、パノプティコンの監視網も一時的に目を回す。
綱渡りのキャンセラー接続は、奇跡的に安定していた。
ブッ、ブッ。
手のひらのスマートフォンが、一定の間隔で微かに震えている。
『ミライ様、
現在地周辺の環境が悪化しています』
『心拍数の安定のため、
最短ルートでの帰宅を推奨します』
画面には、システムからの親切な警告が絶え間なくポップアップしては、ラグの処理によって弾き返されている。
敵と物理的な線で繋がったまま、暗闇の中で綱引きをしているようなヒリヒリとした感覚。
私は、息を深く吸い込み、モニターに向かって口を開いた。
「ラグ。現在地から、
新宿のセーフハウスまでのルートを計算して」
『……了解。計算ヲ開始』
「ただし、条件があるの」
私は、手のひらのダイスを強く握りしめた。
プラスチックの硬い角が、皮膚に食い込む。
「最適解から、最悪の遠回りまで、
必ず6パターンのルートを出力して。
1は最も安全で効率的な道、
6は最も無意味で非効率な道」
一瞬、PCの冷却ファンが悲鳴のような音を上げた。
最適解を一つだけ導き出すのが、パノプティコンの正義だ。
あえて無駄を5つも生成しろという命令は、AIにとって論理の崩壊に近い。
モニターの文字が、激しく明滅した。
『……何故?』
『ルート6ハ、意味ガ無イ。
非効率過ギル。
体力モ、時間モ、無駄ニナル』
「いいから。お願い」
しばらくの沈黙の後、画面に不格好な6つのルートが列挙された。
『……拡張シタ6ツノルート、計算完了』
私は、その画面を見つめながら、右手のダイスをコンクリートの床に向かって放り投げた。
パノプティコンは、人間が必ず1を選ぶと予測する。 最も痛みがなく、最も効率的な正解を。
だからこそ、私は選択を放棄する。
私の意志ではなく、物理的な重力と、床の摩擦と、空気抵抗が決める偶然に、次の行動を委ねるのだ。
カラン、カラカラ、ピタッ。
硬い音が響き、ダイスが止まった。
出目は、5。
『……ルート5。
遠回リ。細イ路地。
水溜マリガ多イ。推奨シナイ』
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