EP0-3:正解という暴力と、さまよう祈り ―― ローマ・イントロダクション ft.サエコ
音のある方へ
MC:サエコ
「彼らが黙れば、石が叫ぶであろう。」
テルミニ駅の喧騒の中で、私はローマの冷たい空気を深く吸い込みました。
振り返ると、遠くにバチカンの巨大なクーポラ(円蓋)が、鉛色の空を押し上げるようにそびえ立っています。
それは、二千年という途方もない時間をかけて、人間の祈りが積み上げてきた「最も巨大で、最も重い石」でした。
この街に辿り着くまで、彼らの声は常に震えていました。
ウルを離れたアブラハムの孤独な足音から始まり、カナンの乾いた風に吹かれ、エジプトの巨大な円環構造の中で押し潰されそうになりながらも、決して手放さなかった個人的な契約。
そのかすかな声は、帝国の舗装された真っ直ぐな道を伝い、ついにこの世界の中心へと流れ着いたのです。
地下の暗いカタコンベで、蝋燭の火を頼りに囁き合っていた祈り。
互いの体温だけを頼りに紡がれたその水平のネットワークは、いつしか地上へと這い上がり、やがて帝国そのものを飲み込みました。
願いと物語は、国家の祈りの対象となりました。
国教として確立したその瞬間、民の祈りの対象は「国家の政治の礎」へと変質したのです。
大聖堂に響き渡るパイプオルガンの重低音は、確かに美しい。
一糸乱れぬ聖歌隊のコーラスは、聴く者の魂を天上へと引き上げるような圧倒的な力を持っています。
けれど、その完璧に計算された和音を聞きながら、私の耳の奥には、奇妙な耳鳴りが残っていました。
あまりにも巨大な建物の中で、個人の小さなつぶやきは、どこへ行ってしまったのだろう。
宗教、国、正義という、絶対的な強制力をまとった祈り。
それは、すべての人を救うものにはなり得ませんでした。
巨大な塔が空高くそびえ立てば立つほど、その足元の暗がりには、無数の「声にならない声」が吹き溜まっていくはずです。
祈りは民衆から距離を取り始め、やがて争いの火種となり、対立の言い訳として使われるようになります。
正解という名の、暴力。
いずれかの音が世界中で響く事だけを「正義」とする、ひどく排外的な考えの実体化。 共鳴を拒み、ただ一つの音で世界を塗り潰そうとする巨大な石の意志。
そのシステムに馴染めず、弾き出された人々はどうなったのでしょうか。
彼らの祈りは行き場を失い、さまよい始めました。
そして、そのさまよう祈りは、自分たちの声を代弁してくれる「新たな指導者」を求め、祭り上げ、再びそれを祈りの対象としていくのです。
列車の出発を知らせるベルが、鋭く駅構内に響きます。
私は、もう一度靴紐を締め直しました。
そして、あの巨大な石の塔に、静かに背を向けました。
神の言葉がラテン語という一部のエリートたちの言語に縛り付けられ、荘厳な儀式の中に閉じ込められている間にも、街の路地裏では、人々が笑い、泣き、怒り、そして泥臭く祈っている。
システムからこぼれ落ちた、さまよう祈りたち。
私は次なる旅で、その祈りたちが爆発する瞬間を見に行こうと思います。
南の陽気な港町で、権威など笑い飛ばすような土着の祈りを聞くために。
花の都で、神ではなく「人間」そのものの美しさに気づいてしまった芸術家たちの槌音を聞くために。
そして、アルプスを越えた先の冷たい森で、巨大な石の塔にたった一人でヒビを入れた修道士の震える声を聞くために。
ここで、垂直の支配は終わります。
これから始まるのは、石が崩れ、さまよう祈りが新たな音を探し求める、痛みに満ちた不協和音の時代です。
音のある方へ…
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