0.1秒の逡巡 #6:監視からの脱獄 ―― Project Echo
0.1秒の逡巡
Laed:ミライ
ミライは、自分の手が小刻みに震えているのを見つめていた。
目の前に立つ玖珂は、完璧な微笑みを崩さない。
狂いも、迷いも、ノイズもない。完全同期されたパノプティコンの恩恵そのものが、仕立ての良いスーツを着てそこに立っている。
「……来ないで」
彼女は後ずさりし、上着のポケットから自分のスマートフォンを掴み出した。
手の中で、短い振動。
画面が明るくなり、『心拍数の急上昇を検知。最適な避難ルートを案内します』というポップアップが浮かぶ。
相変わらずだ。便利と親切の皮を被った監視システムが、今日も私を安全な檻へと誘導しようと、優しく通知を鳴らし続けている。
ミライはスマホを振り上げた。 路上の冷たいコンクリートに叩きつけて、この気味の悪い「優しさ」を粉々に砕いてやりたかった。
けれど。
振り下ろそうとした腕は、空中でピタリと止まる。 歯を食いしばり、震える手を必死に抑え込んだ。
この端末を壊したところで、何になる?
自分がネットから消えるわけではない。
頭上の街灯も、すれ違う他人のカメラも、この街のすべてがすでにパノプティコン・ボードという巨大な「目」なのだ。
スマホを壊すのは、自分が世界を見るための視力を捨てるだけの、無意味な自傷行為でしかない。
ミライの逡巡を見透かしたように、玖珂が薄い手袋に包まれた指を小さく鳴らした。
途端に、街角のスマートポールや、駐車中の自動運転車両のセンサーが、微かな駆動音を立てて一斉にミライの方を向いた。
「賢明な判断だ。
端末を壊せば自由になれるなどという幻想は、
捨てるべきだよ。
君が繋がらなくても、
この街が君を定義し続けるのだから」
玖珂の静かな声が、冬の空気に溶ける。
ミライは言葉を飲み込み、スマートフォンを強く握りしめたまま、踵を返して路地へと駆け出した。
西荻窪の入り組んだ路地。
暗い影が落ちる、狭い隙間へ。 息を切らして走る彼女の足元を、街灯が先回りするように次々と照らし出す。
角を曲がる「0.1秒前」に、自販機が不自然に明るさを増す。
逃げられない。 けれど、走るうちにミライは気づく。
光の「先回り」が、新宿のメインストリートにいた時よりも、ほんのわずかにぎこちなくなっている。
古いビルの隙間。HDマップの更新が止まったままの、灰色の空白地帯。
そこに飛び込んだ瞬間、視界にへばりついていた予測ルートのノイズが、ふっと消えた。
監視はされている。
だが、システムはミライが次に右へ行くか左へ行くか、その「確信」を失っている。
そこは、自由という名の、猛烈な孤独だった。
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