時空を超えて‥‥応募作(溟海の産物)
(タイトル) 溟海の産物
(梗概)
徳永啓一朗はバーで浦野克隆という男と出会い、所有する船に招待する。船中で二人は互いに人生について語り合うが、克隆の本来の目的は啓一朗を抹殺することだった。
二十数年前、啓一朗は新宿にある会社の総務部長兼総務課長だった。啓一朗には妻の恵理、娘二人がいて、実弟に医者の静二朗がいた。
ある日、啓一朗は部下の田中伸之に秘密を知られてしまい、課長の椅子を要求される。同じ頃、社内で発注ミスが起こる。伸之の同僚、真田浩介が叱責されるが、本人はそのことに不満を抱く。
秘密を握られた啓一朗は証拠隠滅を図ろうと、伸之のアパートへ行くが、そこで窃盗男に伸之が襲われるのを目撃する。襲った男は啓一朗が知る人物だった。
(本編)
昼下がりを柔らかな陽射しが覆っていた。 爽やかな風が海面に心地よい波をもたらしている。
大海原に中型クルーザーが一艘、眩く光輝き浮かんでいた。
「如何ですか、克隆(かつたか)さん」
長身で肩幅が広く大きな目をした男が訊ねた。六十九歳、独身。この船のオーナーだ。出港時に風邪気味だと話した声は、確かに掠れていた。
オーナーはテーブルの二脚のグラスに赤ワインを注ぐ。
「いやー、啓一朗(けいいちろう)オーナー、最高ですね」
克隆さんと、さん付けで呼ばれた男は嬉しそうに声を上げながら、鳥の子色の綿パンを穿く両膝を跳ね上げソファにもたれた。元々声が大きい。男の左脇には持参した青い縦長の紙袋が見えた。
――先に渡せば良かったかな――
左手で紙袋の存在をそっと確かめた。
「それにしても広いなぁ。こんな贅沢な時間を頂いて申し訳ありません」
改めてソファから身を起こすと、目の前の料理を起点に左右に素早く頭を振った。ホテルの一室を思わせる船室(キャビン)を見回す。
そんな子供のような動作で恐縮する招待客に、オーナーは右顎の近くで乾杯を表現し微笑む。
「静かな波ですね、ここはどの辺りになるんですか?」
男は尋ねながら、礼儀を表すようにオーナーに遅れてグラスの細い部位、ステムを傾ける。ワインをゴクリとやり船窓から差し込む陽に負けじと視線を海に送った。
「現在地は、横浜からおよそ百海里というところでしょう」
「すごいですね、そんな遠くまで。じゃ、ここには私たちと操縦士さんの三人だけということですね」
視線を船室に戻した男に、オーナーは黙って頷いた。
二人より少し高い位置に操舵室(ブリッジ)のドアがある。ドアには丸い窓があり、窓越しに木製のネームプレートが下がっていた。
ネームプレートは洒落た作りで、一文字ずつバラバラの名前を銀色のチェーンで繋いであった。黒文字で大宗林平(おおむねりんぺい)と読めた。
二人からも窓を通して操縦士の上半身が見える。オーナーは彼も自分と同じく、一級小型船舶と六級海技士(機関)の資格者でもあると言う。日焼けした肌に白いTシャツが眩しい。特に右手首は極端に焼けてるように見えた。室内で舵を握り海を注視する立場だが、食事もこの操縦士が準備していると聞く。特に自己流ながら魚料理は絶品らしい。オーナーと歳も近く雰囲気も似ていた。
「そう言えばこの前お会いした時、克隆さんもまだ独身と言ってましたが、年齢(とし)は聞いてなかったですな。お見受けすると、おそらく四十代でしょ。一番ストレスの溜まる頃だ。日頃の人間関係を忘れて、今夜は隣の小部屋で一晩ゆっくりされるといい」
そう言ってナイフで切り離したステーキを頬張った。唇が八の字に動く。
「有難うございます。もう四十五になります。どうにか今日まで生きて来ました」
上目使いで応じ、ステーキにフォークを強く刺した。
「四十五? ですか……」
ポツリと呟く。
「見えません? 老けて見えます?」
「あ、いえいえ。これはこれは、どうにか生きて来たなんて、七十になる私が言いそうな言葉ですな、アハハハ」
オーナーは笑いながら白髪混じりの顎鬚(あごひげ)を抓んだ。
「可笑しいですか……」
無意識に左手が紙袋に触れ、オーナーが笑い終えるのを待って、一片の肉を口に入れた。犬の食事のように激しく噛んだ。
「いえいえ、わかりますよ。私も今はこんな生活をしてますが、四十代、色々ありましたからね」
オーナーは食事よりワインが進んだ。
いつしか陽射しはより柔らかく、次第に波に近くなっていた。呼吸とシンクロするように心地よく船室を揺らしている。
「えーぇ、何があったんです? 聞きたいですね、その頃の話し」
と言い終えてすぐに男は、しまった、と目を伏せた。自分は年上の方に招待を頂いた立場である。にもかかわらず、少しばかり不躾な物言いだったのではと後悔したように見えた。
案の定、オーナーはその質問に応えなかった。コーナーにある狭い厨房(ギァレー)へと立ち上がり、飲み物をウイスキーに変えて戻った。
「ところで、啓一朗さん、なんで私なんかを誘ってくださったんですか?」
男がオーナーと顔を合わせたのは五ヶ月前、横浜市内のバーで自ら声をかけたのが最初だった。
そこは横浜市の長昌寺(ちょうしょうじ)に近い、海の男たちが集まる古くから名の知れたバーだった。静かな雨が客を選ぶようにバーを濡らすその日も、店内に細身の男が座っていた。バーデンダーの背後、壁一面に国内外産(う)まれの酒がずらりと並んでいた。目移りさせるボトルラベルが、客の好奇心を擽る。
男は今日で五日目だった。薄手の濃紺色ジャンバーを着ていた。今夜も変わらずL字を成したカウンターの端から入口のドアを見つめ、グラスビールを傾ける。店内には音楽が流れ、気のせいだが潮風を感じさせた。
「いい曲だなぁ」
男がふと呟く。
「《Brasil》(ブラジル)というアルバムの一曲です。邦題は確か、〝海の奇蹟〟でしたか……」
カウンターを挟んでマスターが男の呟きに応えた。
「ふう~ん」
会話を邪魔しない、程良いBGMだった。
「そう言えばマスター、あの人どうしたの?」
店内を映す防犯用のカメラの下に貼られた、ポスターを人差し指で訊いた。薄明りの中で何となく浮いた存在に見えて、初めてこの店を訪れた時から気になっていた。
「あー、あちらですか。もう随分前から行方不明らしくて」
マスターがグラスをキュキュッと拭き上げながら応える。
――行方不明――
「そう……。何処行っちゃったんだろうね?」
「写真の身内の方にお願いされて定期的に貼り替えてますけど、見つかったという話は来てません」
「そうなんだ……」
男は呟いて、今度は写真を少し遠くに見た。
「常連さんからは、この辺りで見かけたことがあるという話を何度か耳にしましたけど」
手際良く大小のグラスをスタンドに掛けながら、
「以前この店にもいらっしゃてたのかも……」
とマスターが続けた。
「皆(みんな)に心配されてるんだね」
男はしばらくの間、解決には至らない会話を時に乗せた。
夜十時を過ぎ、店内の照明が淡く見える頃、勢いよく入口のドアが開いた。男がほろ酔いの目を向ける。会いたかった人物が傘を片手に入ってきた。傘を店員に預け、ハンカチでラルフローレンのスーツから雨の滴を掃う。機嫌良く真っ直ぐカウンター席に向かい、お尻を乗せた。
カウンターの端から視線で捉えた男はすぐに近寄った。
「こちらよろしいですか」
「えっ、何でしょう?」
啓一朗は伸びた顎鬚を男に向け訝った。いきなり大きな声が間近で聞こえたからだ。穏やかな呼吸が一瞬乱れた。
「今日は一人なもので。もし良かったら楽しい海の話でもできればと思いまして。私、浦野克隆(うらのかつたか)と申します……。お邪魔ですか?」
男は声をかけた理由を述べ、氏名を添えた。
「そうですか、それなら一向に構いませんよ。私は徳永啓一朗(とくながけいいちろう)と言います。静かな時間を楽しみましょう」
啓一朗はゆったりとした口調で返し、高校の同窓会を終えた帰りだと応えた。
「すみません、ようやくお一人になられたところに」
「いやいや、大丈夫ですよ。ところで……何処かで以前お会いしたことは?」
そう言って啓一朗は記憶を探りながら、名刺を差し出そうと内ポケットに右手を入れた。
「いえ、初めまして、です。あ、それはここでは無しにしませんか? その方が楽しめます」
そう応えて男は、啓一朗の左に回り席に着いた。
その後二人はカクテル、ワイン、ウィスキーの水割りとグラスを幾度も取り換えながら、しばらく互いに海の美しさや雄大さを語り合った。あっという間に時間は過ぎていった。
その間、マスターは二人から着かず離れずの対応する。一度だけカウンターの奥から声が掛かりその場を離れたが、すぐに戻って来て二人の前に小さな観葉植物を添えた。それは高さが二十センチ程のテーブルヤシだった。正式な学名はチャメドレア(属)といい、〝小さなプレゼント〟という意味を持つ。南国の雰囲気を漂わせるアイテムは、目の前の二人にはぴったりだった。
店の常連客はよく顔見知りの客を捕まえては、酒の肴に自らが経験した海の話をする。時にはその自慢話しに火が着くこともあった。だがバーテンダーは余程なことがない限り、極力口を挟んだりしない。お冷の取り換えやBGMの変更などで客へサインを送る。それで充分だった。常連客ほどサインの意味は心得ているから。対して新規の客には、カウンターを挟んでバーテンダーが程よく相手をすることが多かった。
「……実はその頃に、十代の頃から好きでやっていたスキューバダイビングから、だんだんとスキンダイビングをやるようになったんですよ」
男は、啓一朗に何かを告白するように伝えた。
「海に魅了されましたね」
スキンダイビングという言葉をしんみりと受け、啓一朗は軽くホットカクテルを口に含んだ。
「えー、麻薬のようにのめり込みました。あ、麻薬はやってませんよ、フフ。ただそのせいで全く器具を使わずに素潜りまでやっちゃってッ」
熱い酔いに冒された男は、自分への理解を求め見据えた。
…………
「そしたらその後どうなったか判りますゥ? 啓一朗さん」
「いや。どうなりました?」
上目遣いに見る男の意識が、アルコールの波に呑まれていくのを啓一朗は感じていた。
「十メートル、二十メートル、三十メートル超えですよ」
「それは、ちょっと」
「そう、危険ですよねェ、素人の素潜りですからねえぇ」
酔いが話し声を一段と大きくした。
啓一朗は、カウンターに細い体を預けるようになったこの男に何か恐怖心を覚える。一瞬の横顔や目つきに、啓一朗の胸はぎゅっと締め付けられた。すぐに、
――そんなはずはないよな――
と思い直す。目の前のカラフルな鉱物に似たドライフルーツを、三本指で抓み口に入れ、カクテルのおかわりを求めた。
二十二年前、新宿西口のオフィスビル一階と二階に、水中ドローンの製品開発を密かに目指す会社があった。スカイシービュー株式会社。海外のドローンメーカーから実機を仕入れ農家や建設会社、さらには国や自治体の環境機関へと取引きの拡大を進めている。ただ現在の納入実績は殆ど農業散布用だった。従業員はパートを含め十四人、啓一朗はそこで総務部長兼総務課長として働いていた。
この年、季節は緑の春から紫の梅雨に変わり行く頃、啓一朗はその日大きな過ちを犯す。月曜日、いつものように誰よりも早く出社した。四十歳を過ぎた頃から小型のヨットを所持し、休暇の度に海釣りを思う存分満喫していた。そのせいで休暇明けは海からそのまま出社することも少なくなかった。ただ啓一朗にとって、一番乗りの出社には誰にも知られたくない理由があった。
当時、啓一朗の部下である総務課在庫管理班に、田中伸之(たなかのぶゆき)というドローンの在庫管理担当者がいた。年齢は二十五歳。社内では旅好きで知られている社員だった。
「お早うございま~す」
それは珍しく早い伸之の出社だった。この日海外メーカーによるドローンの新商品紹介セミナーに出席するため、置き忘れた資料を取りに立ち寄っていた。伸之はロッカー室のドアを開け、人影に反射的に挨拶をした。
中にいた啓一朗は驚いた。慌てて両腕で体の上下を隠す。釣りの服装からスーツへの着替え中だったからだ。通常なら男同士さほど気にする状況ではない。しかし啓一朗にとって人生最悪な瞬間だった。両腕で隠した体には女性用の下着が張り付いていたからだ。選りに選って目が痛くなる程のピンクの下着。上司と言えど、隠せるはずも言い訳も効かない。啓一朗の頭の中は真っ白だった。
――徳永部長――
「す、すまん」
思わず啓一朗は謝った。
「これは私の単なる趣味なんだ……。だけど、すまん、ちょっと恥ずかしいから誰にも言わないでくれないか」
伸之は何も言えず、ただ目を見開いたままだった。この時記憶を失くしていたかも知れない。
現実を認め驚愕から立ち直ると次第に口元だけ笑みに変わった。もちろん心からの笑みではない。苦笑いの作り笑いである。そしてその時、心の中で一つの楽しみを手にした気がした。
その日から数ヶ月が過ぎ青い夏が終わる頃、総務課仕入班の真田浩介(さなだこうすけ)がドローンの発注ミスを犯した。しかしそのミスは、元はと言えば在庫管理班のミスが原因だった。
「参ったよ、いつもより極端に在庫数が少ないなぁと思って、慌てて七機発注したら在庫管理の入力ミスでさ……」
真田が一旦言葉を切って、一気に焼酎のロックを飲み干した。いつもの居酒屋でいつものメンバーが真田を囲んでいた。周囲は乾杯からまだ生ビール数杯だが、真田だけおかわりが速い。
「おかげで一階の倉庫は海外からのドローンの山。なんで俺が始末書を書かなきゃいけないんだよ」
「お前はパソコンの数字しか見ないからな」
営業部の課長、茂田昭雄(しげたあきお)が言う。皆が様々に笑った。店内は焼き鳥の煙とサラリーマンの愚痴で充満していた。
「ちゃんと言ったのか、総務部長に」
茂田が空中にパンチを繰り出すように、ジョッキーを突き出して訊いた。茂田は真田の二歳上だ。
「言いましたよ、言った。何度も言った。だけど徳永部長も俺が確認をしなかったからだ、って。ならですよ、ならね、入力した新人の社員が間違ったのを、在庫の主任は確認しないでいいのかって。責任ないのかって言う話しでしょ」
真田は焼き鳥を串ごと噛みちぎる勢いで口に入れる。
「在庫管理の田中主任のことでしょ。確か真田さんと同期でしたよね?」
真田より一つ若い経理課の大沢翔(おおさわしょう)が、落ち着いた口調で返した。
「あー、あいつとは時々飲みに行ったりするけどね。そう言やぁ最近はあんまり上司の愚痴言わなくなったなぁ。徳永部長と上手くいってるみたいだぜ」
いまだ平社員の真田が言うと、
「旅行に行ったたんびに、手土産でも渡してんじゃないですか」
大沢が適当に応え、真田の焼酎の追加を店員に頼んだ。
「だろうな。そうに決まってるよ。でなきゃ急に主任になれるわけないだろ。もう二度とあいつとは飲みに行かねぇ」
伸之が主任になったのは、あの朝の出来事の直後だった。
「たださ、最近あいつ、俺の前では部長のこと、あだ名で呼ぶけどね……」
真田は含みを持たせ箸を置くと、濃い茶色のホッケに醤油を降らした。
皆が動きを止めて次の言葉を待った。
「メヒカリ、メヒカリってね」
「メヒカリって、あれですか?」
正解を松岡丈一(まつおかじょういち)が確かめる。松岡は仕入班の新人だった。酒の場になるといつもより喋る。
「魚、魚、いるだろ、海に。大きな目して青く光ってるやつ」
横から茂田が応え、啓一朗をイメージして両目を指で上下に大きく広げて見せた。
「とにかく納得できないすよ、部長は在庫の連中には何も言わないんですから。選手のミスはコーチのミス。育てるのもコーチ。試合の負けは監督責任だぁ」
酔いが真田を高校の頃に引き戻す。酒が進むと必ず野球選手に変身した。キャプテンだったらしい。周りは飲み会の後半に必ず耳にするフレーズだったが、いまだによく意味は解らないでいる。ただ怒っていることだけは伝わった。すでに真田の口に運ばれるのは、焼酎から日本酒に変わっていた。
何杯飲んでも真田の怒りは治まらずその後も延々と続いた。空(から)の徳利が何本もテーブルに転がるようになって、ようやく放つ言葉も下りを迎える。
「いや、ほんと、すんません、茂田課長。ほんとに迷惑かけます、
けどよろしくお願いします」
真田は深々とテーブルに額を付けた。
「わかった、わかった。今度さ、厚木(あつぎ)にある農園が数年前に生産者が代わったらしくてさ、そこ結構広いらしいんだよ。部長と挨拶に行くことにしてるから。ま、とにかく俺らがなんとか、取り敢えず二機ばかり注文取ってくっから」
その後も幾度か仕入班と伸之の絡むトラブルやミスが起こったが、啓一朗は真田を注意することがあっても、一度も伸之を叱責することはなかった。当然のように、そのことで理不尽だという思いが社員たちの共通認識となっていく。啓一朗は自分の行いが招いたこととはいえが、この状況を危惧し伸之と一度話をしたかった。だが、実行に移すことはできないでいた。もう二度とあの一件に触れられたくなかったからだ。
茶色の秋が過ぎ、白い冬にイルミネーションの光が眩しくなる頃、ついに啓一朗は社内トイレの個室で、自分のあだ名を聞くことになる。血の気が引き、目の前が真っ暗になった。
――メヒカリ――
――私のことを言ってる――
啓一朗は、まずいと思った。間違いなく伸之が自分に付けたあだ名だ。
――あいつ、裏切りやがった――
自分の趣味がばれてしまう。啓一朗は焦った。釣りをする者に限らず、魚に少しだけ知識があれば、なぜ伸之がこのあだ名を付けたのか、必ず噂になる。今はまだ社内の連中は、俺が釣り好きで目が大きいことで付いたあだ名だと思っているだろうが、それも時間の問題だ。周囲の俺への不信感がその真意まで必ず後押しするはず。
メヒカリはヒメ目アオメエソ科の魚である。深海性で水深二百メートルから六百メートルに生息する。それで目が大きく青い。
だが、啓一朗が危惧するのは、メヒカリの目が大きいとかいう外見の話しではない。問題はその性質にある。メヒカリは成長し性転換を行う。性転換については魚だけではなく植物にもあるが、通常はメスからオスに変わる場合が多い。メヒカリはその逆で雄性先(ゆうせいせん)熟(じゅく)と呼ばれるオスからメスに転換する。
伸之がこのことを知っていて自分にあんなあだ名を付け、周囲に言いふらしているに違いない。陰できっとほくそ笑んでいるだろう。間違いなく俺への脅迫だ。そう考えた。
トイレの中で真綿で絞められるような息苦しさを覚え、啓一朗は強く唾を呑みこんだ。
――なんとかしなければ――
啓一朗は意を決して伸之と会うことにした。
週末の夜、啓一朗は横浜のヨットハーバーに隣接するレストランに伸之を誘う。窓越しに啓一朗所有のヨットが見えた。辺りはクリスマスを前に煌めいていた。
「どうだね、田中くん、在庫の業務は?」
「いやぁ、忙しいですね。すみません、仕事捗らなくて」
二人の前で白いワインが注がれた。
「そういや確か田中くん、旅行が好きみたいだね」
「えぇ、全国色々なとこに行って、写真を撮るのが好きで」
「自宅は私と同じ川崎市だったよね、何処なの?」
「武蔵小杉(むさしこすぎ)です」
「いい所に住んでるね」
「そうでもないですよ。私の所は最近治安が悪くて」
「そうなの。私は二子新地(ふたこしんち)だよ、近いね」
「アパートから海も近いし空港も近いので」
「羨ましいねぇ」
「学生の頃からバイト代はほとんど旅行に消えてました。いや、旅行するためのバイトだったかも。どちらかと言えば海が好きで、写真も海の風景が多いです。」
しばらくは小麦色のワインを口にし、オニオンスープにハム、海老、アボガドが入った前菜を交互に味わいながら、お互い当たり触りのない話を続けた。その間伸之は、いつ啓一朗が今夜の目的を切り出すのかと考えていた。理由は容易に想像できた。
「徳永部長、いつも私のミスを庇って頂いて有難うございます。それに主任になれるなんて」
「それは気にしなくていいよ」
「でも主任になっても役職手当とかは無いんすね?」
「それは申し訳ない。本来主任というのは社内規定には無いんだよ。
だけどなんとか田中くんを一つ上に取り上げたくてね、社長に許可を貰って」
「でもそのせいで、周りからちょっと陰口を叩かれていますけど」
「そうなのか、それは本当にすまないな。だけどさ、あんなことがあったからな」
啓一朗は少し本題に触れて、伸之の目を見た。
「えっ、あー、あれですか。部長気にしなくいいですよ」
「すまん、今はそれぐらいしかできなくて」
「じゃ、来年くらい私、課長になれるかな……」
伸之の顔が一瞬無表情になり、すぐに頬の筋肉が緩んだ。
「私が誰かに話すとでも思ってるんですか、大丈夫ですよ」
「有難う」
「何も要求しませんよ、今までも現にしてないでしょ。部長にはミスする度に助けてもらってんですから」
「有難う……」
啓一朗は手にしたワイングラスをほんの少し掲げ応じたが、伸之の言葉を信じてはいなかった。確かに直接の要求は無い。ただ恐怖心は消えなかった。
「それにしてもあの時は正直驚きました」
伸之は周囲に気を配り顔を近づけ声を細めた。
「いや、恥ずかしい」
「盗んだ物ではないですよね」
「違う」
「なら通販か……」
厭(いや)らしい目で見た。
「今日も、ですか」
伸之は目線を上下に動かして、口元が笑った。
啓一朗は言葉に詰まる。
「そうなんですね……。大丈夫、これからも誰にも言いません」
「頼むよ」
「もちろんです。ご家族にもね」
啓一朗は社内では紳士的に仕事のできる男として振る舞い、家庭では良き夫や父親を通してきた。伸之は、そんな部長のことだ、当然妻子にさえ秘密の趣味に違いないと読んでいた。
その後互いに意識して、ワイン片手に次々と話題を変え、聖夜が近づく空と海の静けさの中で気を逸らした。二人が次の話題を探り出した丁度いいタイミングで、本日のメインディシュが差し置かれた後、啓一朗は意を決して切り出す。
「ところで伸之くん。言いにくいんだが、私のことを皆(みんな)がメヒカリと呼んでるみたいだね。君も耳にしたことがあるかな」
「あーなんとなく、どこかで」
「誰が言い出したのかな?」
啓一朗は、たらのムニエルに手を付けながら訊く。醤油の香ばしい香りに混ざり、仄かにバターの香りがしている。
「たぶん、真田かも知れないですね。時期から考えて」
「真田? 仕入れの? なんで真田くんが?」
「少し前にありましたでしょ、ドローンの発注ミスが。あれ、部長に相当不満を持っているみたいでしたよ。あいつとは同期で、時々会えば話しをするんですが、いつもあの件をネチネチ言ってましたから。かなり恨んでましたね、あれは。もちろん私のことも良く思ってなかったでしょうね」
「だけど、あのあだ名は……」
「皆(みんな)、上司には思いつきで適当なこと言いますから」
「思いつき……」
――確かに真田は根に持っているかも知れない。本来ならあの一件は在庫管理班にも責任があった。それを真田だけに責任を押し付けて終わらせた。その姿勢を以降も変えることはできずに、物流ミスがあっても伸之の班に責任を問うことはしていない。真田が良く思ってないのは無理もない。それにしてもあだ名は本当に思いつきだけで付けられたのだろうか? メヒカリのもう一つの意味は考え過ぎか? 伸之が付けたのではないのか? この男の言葉を信用していいのか――
この先も伸之の言動を目で追う日々が続いた。
年明けの仕事始まり初日。昼休みに伸之が大きな声を上げた。ロッカーにあるはずのカメラが無いと言うのだ。高価な一眼レフカメラと聞くと、社員数人が仕事の手を止めロッカー室をくまなく探した。ロッカー室と聞いた啓一朗は心配になり、慌ててそこに加わった。だがカメラは見つからなかった。
「部長、警察を呼んでください」
伸之がいきなり強い口調で求めた。
啓一朗は戸惑った。
――すぐには駄目だ。ロッカーには――
「少し待ってくれ。もう少し社内を探してからにしよう。もしかしたら誰かが拾ってくれてるかもしれない」
啓一朗は常に旅先からの直行出勤に備え、ロッカーに替えの下着を入れていた。今日は数えきれない程のグッピーが泳いでいるお気に入りの女性物だ。
「いや私は一刻も早くカメラを見つけたいだけなんですよ。なら、取り敢えず私に皆さんのロッカーを見せてもらってもいいですか」
「伸之くんは、俺たちを疑ってるのか?」
年始の挨拶回りから戻っていた茂田が、唾を含んだ声を飛ばした。
「誰がお前のカメラを盗むって言うんだ」
被せるように仕入れの真田が、右手で指揮棒(タクト)を振るようにして怒鳴る。
「田中主任、私は構いませんから、どうぞ」
と言いながら大沢が自分のロッカーを開けて見せた。
「なんなら戻ってデスクの中も見ていいですよ」
正義の姿勢はこうあるべきと振る舞う。
他の社員も感情をあまり表に出さない大沢に倣うように、ロッカーを開いて見せた。男性は普段から誰も鍵は掛けていない。
貴重品は置かないからだ。一つ一つ伸之が覗いていく。茂田と真田が不満げに開けたロッカー内の確認も終わった。
「部長、よろしいですか」
ロッカーを指差した伸之の目は、銀色に輝いていた。
啓一朗は神に祈りながら、ポケットから鍵を取り出し、恐る恐るロッカーを開けた。幸い中を覗き込む者は伸之一人だった。部下たちは啓一朗が鍵を使った行為になんとなく違和感を覚えた。皆の位置からは扉が壁になり中は見えない。それでも啓一朗は周囲を注視し視線を遮るように立っていた。
伸之は体を折って中を探った。紙袋に押し込まれた啓一朗の秘密の愛用品を見つけ、左手を愛用品に向けた。と同時に啓一朗の背後で囁いた。
「課長の空席、よ・ろ・し・く」
啓一朗の首筋から背中に悪寒が走った。
――この男は本気だ――
啓一朗は伸之の蒼黒(あおぐろ)い性根を確信した。
その後女性社員のロッカーの確認に移る前に、伸之はまた叫んだ。
「あっそうだぁぁ、カメラ年末に家に持って帰ってたんだぁぁ」
目を見開き続ける、
「すみませ~~ん。持って帰ったまま、今回の休みには別のカメラを使ってました。家に二台。アハハハ」
伸之はVサインを見せて苦笑いを浮かべ、その場の茶色い空気からさっさと逃げ去った。
――何枚目だろう、このコースターは――
啓一朗は我に返った。危険な素潜りと同様に、深く酔いに沈んでいく男の話に軽く頷きながら、いつの間にか当時のことを振り返っていた。
すでに隣の男は腕を組んだまま眠っている。アルコールはさほど強くないようだ。周りに目を走らせると、だいぶ客も少なくなっていた。
「マスター、もう一時過ぎた?」
スマホを取り出して確認するのはかったるい。
「そろそろですね」
マスターはちらとカウンターの内側に置かれた時計を見て答えた。
啓一朗の限界はすぐそこまで来ていた。時刻のことでは無い。当時の伸之に対する青黒い憎しみのことだ。回想が途切れたのもそこから先の体験を無意識に避けたのかもしれない。
――伸之は当時、二十歳半ばだったはず――
もう一度、隣で寝入っている男の横顔を見つめた。浦野克隆と名乗ったこの男は四十代後半に見える。
外見からは年齢に大きな違いは感じない。はっきりと覚えているわけではないが、伸之の体つきもこんな感じだったと思えた。
そもそも何故、私に声を掛けてきたのか……、啓一朗は改めて考えた。自らが経験した海の魅力を語り合いたいと言ってはいたが、私ではなく他の客にもそれはできたはずではないか。
啓一朗はスーツの内ポケットからペンを取り出し、コースター上で走らせた。マスターに手招きし、神妙にペンとコースターを差し出した。
…………
黙読したマスターがペンで応じる。
『これまで一度もありません。お客様が初めてと思います』
啓一朗は有難うと頷く。
――やはり、私がターゲット――
素性(すじょう)の知れないこの男がますます不気味に感じた。このままこの場を去ろうかとも考えた。二十余年の月日をかけ、ようやく忘れることのできた体の震えが突然ぶり返していた。否応なしに続きが蘇る。
伸之のカメラ紛失騒動から四ヶ月が過ぎ、その年の五月を迎えようとしていた。だが伸之の席はいまだ望んでいた課長の席ではなかった。
伸之の苛立ちは自分の意志でコントロールできる限界まできていた。
「徳永部長、ちょっとよろしいですか」
昼休憩後、伸之が啓一朗を小会議室へと促した。すぐに用件を察した啓一朗は重い腰を上げた。二人は室内に入り薄緑色に白い波模様のテーブルを挟んで座った。
啓一朗は伸之を真っ直ぐ見て言葉を待った。
「部長、覚えていらっしゃいますよね」
「なんのことかね」
啓一朗は厳しい顔つきで一度はぐらかした。
「なんのって、分かってるでしょ」
「何をだね……」
「いいんですか」
伸之の言葉に力が入る。
「……田中くん、ほんとに残念だよ。君を信じていたんだが」
「課長にしてくれればいいんですよ、言いましたよね」
伸之は言い捨てた。
「そこまでして課長になりたいのかね、出世したいのかね。あだ名まで付けて」
「…………」
「周りの目もある。無理だよ。君のミスを庇うだけで精一杯だ」
「主任で我慢しろと。それで終わりですか? そうですか」
「……少しでいいなら払うよ、それで私のことを黙っててくれるなら」
啓一朗は本来自らが口に出してはいけない取引を持ち出した。すぐにそのことを後悔したが、残念と言えばいいのか、伸之は期待に応えてくれなかった。
「金はいくらでも欲しいですよ。でもやめときます。証拠が残りますから。言っときますけど、もうあんなこと今はやってないんだ、とか言っても遅いですからね。まぁ、やめられないでしょうけど、死ぬまで……」
――?――
「我慢してくれないか?」
「無理ですね」
伸之は表情一つ変えずに冷たく呟いた。
啓一朗は、伸之を主任に抜擢することは総務部長として難しくなかった。会社としては単なるリーダー扱いだからだ。だが課長となると違う。規則上、明確な役職である。啓一朗が推薦しても年齢、経験、実績とハードルは高い。最終的には社長の任命となる。今の伸之ではあり得ない話だった。
「もう、これ以上私には何もできない」
啓一朗の絞り出した一言に、伸之は応えることなく会議室を出て行った。
それから祝日を挟んだ二日後の夜だった。黄色い月明かりが時に雲に隠れたりしていた。
啓一朗の自宅は二子新地の住宅街にある。二階建て四LDK。一階に夫婦の寝室があり、二階に二つの子供部屋と啓一朗が使う書斎があった。
鍵が掛かった書斎のデジタル時計は、静かに十一時を伝えていた。啓一朗は今夜も秘密の箱を開く。書斎のクローゼットの奥から五十センチ四方の箱を取り出して目の前に置いた。色は真っ黒、箱の中の物とのギャップが最大限大きくなるようにと選んだ色だ。
目をギョロっと一割増しにして、ゆっくりと蓋に手をかけた。啓一朗の脳が熱くなる。蓋を取った瞬間、触感は消えて啓一朗の顔が満面の笑みに変わった。
箱の中には六十着程の女性の下着がきれいに折りたたまれて並んでいた。華やかで万華鏡のように色鮮やかだ。ブラジャーはLサイズ、ショーツはLLサイズで統一されている。
すでに全裸の啓一朗の指先は飴(あめ)色の下着選んだ。至福の時間だ。肌に着け姿見鏡の前に立つ。
――美しい――
身震いする程の幸せを感じた。
しかしいつもと違い、陶酔感は以前より長くは続かなかった。脳裏に甦る伸之の姿が邪魔をする。
――それにしても私としたことが、よりによってあんなミスを――
あの日の着替えを伸之に見られてしまったことを悔やんだ。
その伸之はと言えば今日から休暇を取っていた。あの会議室でのやりとりの日の帰り際、五月の連休を利用した長期の旅行を申し出ていた。
鏡に映った啓一朗は二着目に若竹(わかたけ)色の下着を選んだ。胸の中で赤い血が激しく行き来し、ときめきが止まらない。笑みがまただらしなく乱れた。
階下では妻の恵理(えり)と次女の美恵(みえ)が並んでディズ二―映画を見ていた。美恵は小学五年で水泳部に所属していた。中学に通う長女は二階の自室で雑誌を見ていた。彩恵(さえ)と言う。体操部に所属していた。書斎以外は穏やかな無色の空気に包まれていた。
映画の終盤、愛を告白する場面が過ぎると、美恵がおもむろに口を開く、
「お母さん、お母さんは何処でお父さんと知り合ったの?」
素直な疑問だった。
「えー、なんで」
「だって、いつもお父さん、あまり喋らないし、笑わないし、お母さんとどうやって知り合ったのかなって」
「うふっ、だよね」
恵理は啓一朗の性格と自分の性格がまるっきり逆だから、娘が不思議に思うのも無理もない、と思う。
「何歳の時?」
映画はどんどん先に進んで、美恵の興味からは遠く離れていく。
「十九の時よ」
「どうやって?」
「日比谷の図書館でね。お父さんもいて。お父さんが読みたかった本を偶々(たまたま)お母さんが借りて読んでて。うふっ、お父さんじっと待ってるの、斜め前で」
若い頃の夫を想い出し、恵理の微笑みは絶えない。
「手にしてる本はぜんぜん読まないで、お母さんの本ばかり見てて。
気になってお母さんが、読まれますか? って言ったの」
「それが最初?」
「そう。そうしたらお父さん驚いて、『いいんですか? なんで判りました?』だって。ふふっ、判るわよね、ぜんぜん自分が借りた本捲らないで、こっちばっかり見てるから」
美恵はお母さんの嬉しそうな桜色の頬を見て、ふ~ん、と漏らす。
「今思えば、あの本がキューピットの矢……」
「刺さったんだ……。なんていう本?」
「熱帯魚の図鑑」
「熱帯魚……家(うち)には熱帯魚いないね」
美恵は残念そうに言う。映画は静かな音楽が流れ幸せな終わりを迎えていた。
「どのくらい付き合ったの?」
美恵の好奇心はまだ曇らない。
「お母さんはまだ大学一年生だったし、八年くらいかな。それにその頃、静二朗(せいじろう)さんが医大に通ってて、五年生だったしね」
「五年生?」
「そう、医学部って六年あるの。学費も何千万も払わないといけないのよ。自立できるまで十年くらい、お父さんが頑張って援助してたみたい。静二朗さんの目途がついてから結婚したのよ」
「ふ~ん。叔父さんてお母さんより年上?」
「そうよ。お父さんに紹介されてから、よくドイツ語とか教えてもらってた。お母さん、一年遅れで入ったから、周りに聞くのが厭で」
「お父さんに聞くよりいいかもね。でもなんでお母さんのことをおねえさんと言うの?」
「静二朗さん? それはお母さんが静二朗さんのお兄さんと結婚したからよ。だからお義姉(ねえ)さんて呼ぶのよ」
よく解らなかったが、そうなんだ―― と美恵は呟いた。
「さぁ、もう寝ましょ」
遅い時刻に気付いて恵理が立ち上がった。
恵理と美恵がそれぞれの寝室で眠りに就く頃、長女の彩恵は明日の用意をしていた。二つ隣の書斎ではいまだ想像もしない光景が続いていた。
――これはコインランドリー行き――
――明日はこれにしよう――
啓一朗は上下とも緑の薄い下着に心を決めた。当然、今夜も妻を求めない。妻に気を遣う夜は、楽しみは我慢して一生懸命その気になって務めることにしている。月に二度あるかないかの我慢だ。
身に着けて、バレないためにTシャツの上にパジャマを着た。日付が変わっていた。黒い箱をクローゼットの奥にしまうため手を伸ばした時だった。
突然大きな声と足音が聞こえてくる。瞬(またた)く間に部屋のドアが叩かれた。
「お父さん! 庭が火事! お父さん! お父さん!」
寝室から駆け上がってきた恵理の声だった。
恵理はいつにない外の明るさを不審に思い、ブロック塀の下で立ち上がる炎に気付いたようだ。
驚いた啓一朗は階段を駆け下り庭へ飛び出た。
――一一九番。いや待て、ばれたらどうする――
躊躇した。近づくと炎が啓一朗の顔を赤く照らす。焦った。が両目が気付く。燃えてるのはダンボール一箱だった。
――なんで、こんな所にダンボールが――
啓一朗は玄関から出て来た恵理に常備の住宅用消火器を持ってくるように指示した。
――このくらいなら自力で何とか――
ただならぬ物音に出てきた彩恵には、庭先の水道を使いホースで水をかけるように伝えた。それから近くの庭石を数個、燃え上がるダンボールに落とし、火種を押し潰そうと試みた。
――熱っ!――
躍るように舞い上がったダンボールの切れ端が手や足に纏わりつく。啓一朗は肌が溶け落ちるような熱さの中、無我夢中で妻の手から奪い取った消火器を使い噴射した。
――誰がこんなことを――
他人の視線を遮る高さのブロック塀に助けられ、幸い近隣の住人に気付かれることなく火は消えた。白煙も上空に去っていく。それまで炎に照らされていた一帯は急に真っ暗になった。啓一朗が炎を目にしてからこの間、ほんの五分程だった。
啓一朗は左腕で額の汗を拭うと、フーっと息を強く吐き出した。
動悸はまだ治まっていない。その時、次第に大きくなるサイレンに加えカンカンカンと響く警鐘を耳にした。
通りを走り去る二台の消防車を、追いかけるように次々と住宅に灯りがついていく。そしてそれは啓一朗の自宅前で停まった。
重そうな防火服に包まれた消防士が駆け寄った。
「火災発生の通報をされたのは貴方ですか? 徳永さん?」
啓一朗の自宅に一度視線を送り、尋ねたのは消防指揮隊長だった。
啓一朗は一瞬首を横に振りかけたが、すぐに恵理だと察した。
「あ、はい、すみません、しました」
――余計なことを――
彩恵と並んで佇む恵理を一瞥した。近隣の窓やベランダから覗く者や、玄関から斜め見る者たちの狐色の視線を浴び、困惑と羞恥心が重なった。
背後の二人をすぐに家に入れて続けた。
「ですけどもう消えまして」
「ご家族は何名ですか?」
「四人です。私と妻と娘二人です。下の娘(こ)は部屋で寝てます」
「皆さんにお怪我はありませんか?」
「はい、大丈夫です」
啓一朗はこの時、右手に少し痛みがあったが黙っていた。
「火元現場はあちらですか? 確認いたしますので」
隊長は腰を折り消火器の粉末による鎮火を確認する。辺りには焦げ臭い煙が残っていた。さらに別の消防士の火災原因調査員が、ヘルメットを持ち上げて現場検証を行い質問する。その間隊長の指示により他二名の消防隊員がバケツで広範囲に水を撒いた。
「燃えたのは何ですか」
「ダンボールです」
「元々ここにあった物ですか?」
そうです、と啓一朗はここでも嘘をついた。自分の物ではないとは言えなかった。大事(おおごと)にはしたくなかったからだ。
「要らないダンボールを処分しようと思いまして。そしたら娘が火事と勘違いしまして。いやぁ思ってたより火が大きくなったんで、私もちょっと慌ててしまいました。本当にすみません、お騒がせしまして」
苦笑いを交え頭を下げ、大きな体を縮めてみせた。
その後は、火災の原因の一番は放火であると聞かされ、家の周りに燃えやすい物を置かないなど指導を受け、火を扱う際はくれぐれも注意をするように、と念を押された。
すべての作業を終了し消防車両が走り去る頃には、サイレンに悪しき期待をした周囲の視線はすでに無く、夜の空気は緩んでいた。
簡単に庭の後始末を行い家に入ると、リビングで待っていたのは恵理一人だった。彩恵は自室に戻り、どうやら次女の美恵は幸か不幸か目を覚ますことはなかったようだ。
啓一朗は真っ先に一度二階に上がり書斎の戸締りを確認した。閉め忘れてはいなかった。安堵したその時、初めて右手首に痛みを覚え火傷していることに気付いた。
リビングに戻り、 恵理にはどうせ若い連中の悪戯に過ぎないから、今日は大事にしないで済ませたよ、と伝えた。自分たちは恨まれることは何もないから心配しないでいい、と念押しするように慰め安心させた。
恵理に、先に寝るように言い残し、玄関から懐中電灯と傘を手にしてもう一度庭に出た。水浸しの中に丸い光を当て傘の先で燃え滓(かす)を探った。落ちていたダンボールの燃え残りを幾片か拾い上げる。
――恨まれるとすればこの私だ。そして恨みを持つとすれば、あいつしかいない――
大火になれば消火活動により自宅まで水浸しになるところだった。放火ともなれば警察の捜査も入る。いずれにしても啓一朗の秘密が明らかになるところだった。
――しかしあいつは、今日から(正確には昨日だが)何処か遠方へ出かけるような口ぶりだった。日本か海外か知らないが、同僚にまた凄い写真を見せてやるとか言ってたな。大方、何処かの海にでも行ってるはずだが……。まさか、まだ行ってないのか――
手にしたダンボールの切れ端を懐中電灯で照らした。持ち主が中身を記載していたのか、黒マジックでマスクやグローブと手書きされた文字が読めた。他にはベルトと書かれた文字も見えた。箱自体は誰もが知る通販会社の物だ。
玄関には防犯カメラがしっかりと役目を果たしていた。だがその守備範囲はブロック塀までだった。高さのある塀が逆にマイナスに働いた。周囲の建物のカメラがどれだけ役立っていたかは、事件と申告しなかった以上、今となっては確かめようがない。
啓一朗は、ふと思い出した。
――そう言えば伸之のやつ、気になることを言ってたな――
『今はもうやってないんだ、とか言っても遅いですからね』
――遅いとは、どう意味なんだ――
…………
――もしかして――
――何か証拠を握ってるのでは――
啓一朗は不安に駆られた。一方で明日からのゴールデンウィークには、伸之は間違いなく自宅を留守にすると踏んだ。
時折湿った風が庭を吹き抜けた。雨の知らせか。啓一朗は上空を見つめた。
この時期にしては最高の天気だった。梅雨入りはもう少し先。伸之は昨日午後には沖縄の陽射しを浴びていた。今日は五月のゴールデンウィーク初日。伸之は沖縄南部西沖に位置する慶良間(けらま)諸島に向かっていた。潮風が頬を叩く。慶良間ブルーと呼ばれる青く美しい海に潜るツアーだ。大学生の頃から何度かダイビング経験があったため、持参する物は解かっていた。もちろん神秘の世界を切り取る水中カメラは忘れていない。
今朝は集合場所の港まで歩いた。宿泊ホテルからさほど遠くない。海を眺めながら、これから潜るのかと思うとわくわくした。昨日那覇国際通りで購入した、かりゆしウェアに短パン姿で、丁度八時に港に着いた。伸之以外に送迎バスに拾われた参加者が三名いた。男性一名、女性二名だった。皆、似たような格好をしていた。
――お前らのはどうせアロハシャツだろ――
本来そこに優位性など存在しないが、伸之は三人を見下した。ほとんど見た目は変わらない。それでも伸之は一纏めを嫌い、抵抗するように三人から距離をおき、ツアーガイドのチェックと事前説明を受けた。
三人の内、どうやら二人はカップル、ハネムーンかも知れない。着いてからずっと小鳥のように煩くいちゃついていた。
――暑い――
例年五月の初めの気温は二十三度程度だが、今日は皆でガッツポーズが出てもおかしくないくらい気温も上がっていた。
――ガッツポーズなどやりはしないが、最高のダイビングチャンスだ――
残りの一人は三十歳そこそこの女性だった。肩まである亜麻色の髪は強い陽を受けている。
――アロハが似合うじゃねぇか――
伸之は女性の胸元のデザインを、目から払い落すように首を横に振った。
その後四人は着替えを済ませ、ガイドについてツアーボートに乗船した。伸之は二日間の参加を予定していた。一日所要八時間のコースだ。
ボートは那覇市の三重城(みえぐすく)港から海面を裂き白波を上げ、五十分かけて今回のダイビングポイントに錨泊(びょうはく)した。広いとも狭いとも言えないスペースのデッキで四人は潜水指導を受けた。伸之はこれまで経験したダイビングツアーで、幾度もインストラクターから講習を受けている。海に入るまでのこの時間はかったるい。
皆、厚さ五ミリのフルスーツにマスク、フィン、タンクなどの器材を身に着け海面に浮かぶ。ドキドキ感とワクワク感が膨らみ声が上がる。教わった通りに補助となるアンカーロープを使わないフリー潜降を試みるが、上手くできたのは伸之と単独参加の女性だけだった。
アンカーロープを使っているカップルを横目に、伸之は数回浅めに海を楽しんだ。目の前をカラフルな色の魚たちが目まぐるしく泳ぎ回る。色は強い陽射しに照らされ、より一層際立っていた。それはまるで熱帯地方に舞う数えきれない程の蝶のようにも見えた。
――なんで! こともあろうにこんな時に――
思わず自分を疑った。自分でも信じられないことだが、伸之の脳裏にあの日の啓一朗のピンクの下着が浮かんだ。
――海が穢(けが)れる――
頭の中をクリアにするため、一度ボートに戻った。器材を横に置き、悍ましい絵に憑き纏われまいと遠い空を見上げ目を細めた。そのまま目を閉じた。日光のシャワーが、短い時間で伸之の脳裏をリフレッシュし始める。しばらくすると、改めてさらに美しさを求め深く潜りたくなった。
ボートから数メートル先を見下ろすと相変わらず単身の女性は、他人を意識することなくマイペースのダイビング、優等生だった。その横でインストラクターの声が飛ぶ。どうやらカップルのどちらかがシュノーケルを着けたまま背泳ぎしたようだ。怖かったぁ、というように抱き合っていた。
――説明聞いてなかったのか。思いっきり海水を飲めばいい――
伸之はインストラクターに許可を得て重いタンクは背負わず、替わりにウエイトベルトを装着する。写真を撮るにはこのスタイルが動きやすい。インストラクターも伸之のダイビング歴を認め、理解してくれた。
水中カメラを手に取り水面に降りた。少しでも早く潜ろうと、お尻を水面に持ち上げて一気に体を真っ直ぐに潜るヘッドファースト潜降を行った。インストラクターからは十五メートルを目途にと忠告を受けたが、マスクにフィンと身軽になった伸之はそれを忘れる。呼吸装置が無いため、魚たちは先程より近くまで来てくれるようだ。何よりまして、小型の魚が取り巻く海底の珊瑚樵には言葉が出ない。イルカを見ても驚かないが、この幻想的な色彩は誰が創ったのか、神の仕業に気を失う程だった。誰しも人魚や竜宮城の存在を認めてしまう別世界だ。
伸之はより速く深くと何度もヘッドファースト潜降を繰り返す。そして探究者のようにシャッターを切り続けた。大事な耳抜きも忘れてはいない。だがいつの間にかドルフィンスイムで潜るポイントを変え続け、伸之はこれ以上ボートから離れてはいけない所まで来ていた。それでも明日の体力も使い切る勢いで昇降を続ける。それは午後も変わらず続いた。
もう何度目の潜降か、どの辺りかも判らなくなりかけた頃、海底の岩が形成した狭いトンネルの先に魅惑的な固まりが見えた。小さな花畑のようでもある。
――えっ、何? 珊瑚? 何かの群集か――
トンネルを潜り抜ける際、急に目の前から光が遠のき意識が薄れた。
新宿駅の西階段を上がりきり、啓一朗は透明なビニール傘を差した。朝方から雨になっていた。時間を貰い、出勤の途中で二子新地駅前の病院に立ち寄った。昨夜負傷した右手首の治療のためだ。もちろんそんな時は、男物の下着で我慢している。
遅い出社時間のせいか、それとも世の中は伸之のように一足先に連休に入っているのか、電車内も目前の通りにもスーツ姿は少ない。
事務所に入るなり、
「真田さんが病院に寄って来るので少し遅れるそうです」
と新人の松岡が報告に来た。
体調でも悪いのか、と思った矢先に真田が入ってきた。驚いたことに手の先に包帯をしていた。皆からどうしたんだ、と心配する声が飛び交った。啓一朗の怪我にはそんな言葉は無かった。
「ちょっと指を火傷しちゃって、昨日」
――火傷? 同じじゃないか――
啓一朗は真田の言葉に集中した。
「自炊してるの?」
独身の真田に、経理の大沢も半ば興味深々で訊く。
「まぁ、そんなとこです」
と真田は曖昧に応えた。これ以上は触れないで欲しいという気持ちが見て取れた。
啓一朗の目には真田が何かを隠しているように映った。
――こんな偶然があるのか。まさか――
「びっくりしたよ。草野球でもやって骨折したのか、と思うじゃないか」
茂田が火傷と聞いて安心したように言う。真田はそんなんじゃないです、と否定して自分の机に向かった。
啓一朗は真田の言葉に何か引っかかるものを感じ取った。脳内で滅紫(めっし)色の何かが膨らみかける。
――確か自宅は荒川沿いと聞いたことがあるが――
「真田くん、君はどこから通ってるんだね?」
念のため訊ねた。
「潮見(しおみ)ですが、江東区の」
互いに距離をおいて会話した。
啓一朗は潮見の正確な位置を思い描けなかったが、自宅の二子新地とは方向が違うことくらいは分かった。通勤が大変だろう、と返したが、
「あーあ、ここんとこいいこと一つもないよ」
真田は投げやりに言い放った。二人の会話が嚙み合わず終了し、職場の空気が固まった。
昨年の発注ミス以来、真田が部長を嫌っているのを知らない者はいない。業務以外で話そうとしない二人の様子を見れば、一目瞭然だった。
――誰なんだ? 火の着いたダンボールを投げ入れたのは――
とにかく昨夜決心したことを実行しようと、啓一朗は自分の中に揺らぐ気持ちが無いことを確認した。
――今日は少し睡眠不足だな。明日にしよう、明日の夜だ。明日の夜に確かめることにしよう――
ゴールデンウィークに入ったこの日、啓一朗は休息に満たされ目を覚ました。正午前だった。いつもなら間違いなく、この時間は海に釣糸を垂らしているだろう。二階へ上がり書斎から一度庭を見下ろした後、ノートパソコンを開いた。迷わないために複数の事柄(ことがら)を検索する。
恵理は美恵と二人で渋谷の新しいショッピングビルに出かけ、彩恵は部活に出ている。今日の夕食は啓一朗が作ることにしていた。休日家にいる時くらいは、と時々罪滅ぼしのつもりで行う。
啓一朗はネット検索し、必要な情報をプリントアウトして買い物に出た。ついでに昼飯も外で取ることにした。電車で一駅隣、二子玉川(ふたこたまがわ)駅で降りる。東口でお昼を済ませ、幾つかモールをはしごしながら、これから必要な物を慎重に選び購入した。
夕方自宅に戻った啓一朗は、すぐにキッチンへ向かう。彩恵はすでに部活から戻っている様子。
――またお母さんに言われるぞ――
練習着が入った紺色のバッグが、無造作に洗濯機の横に置かれていた。
早速、冷蔵室からブリ六尾(び)を取り出した。ブリは出世魚である。四日前の祝日に啓一朗が釣り上げた魚だ。三十センチ程なのでイナダと呼んだ方が正確かもしれない。すでに血抜きされて頭、エラ、内臓は無い。刺身には最高のタイミングだ。少し日を数えた方がいい。
「お父さん、今日の夕飯は魚? って言うか、いつも魚だけど」
背後から彩恵が声を掛けてきた。白いTシャツに空色のジャージ姿で、自室から降りて来ていた。
「まぁそう言うな、これでも作る時は色々考えているんだから」
横に並んだ彩恵に言う。
「これ、ぬるぬるしてないね」
群青色したイナダの表面を彩恵はツンツンと払うように衝く。
「鱗はもう取ってあるから」
啓一朗は手際よく細い包丁で三枚に捌いていく。
「彩恵は刺身好きだろ」
「まぁ、ね」
啓一朗が期待する程の言葉は返ってこない。前に好きだと聞いたことがあったが。
「あと、バター焼きにするから。ピーマンやシメジとか添えて。…
…それよりお母さん帰る前に、洗濯物、洗濯機に入れとかないと」
面倒な言葉を聞くや彩恵は何も言わず、洗面所へと去って行った。
――こういうの言わなきゃ、もう少し会話が続いたのにな――
また一つ大事な時間を失くした、と啓一朗の胸中が丼鼠(どぶねずみ)色に染まった。
その後夕食の準備ができる頃、うまい具合に恵理と美恵が帰って来た。ニコニコ顔の下にはたくさんの買い物袋を手にしていた。二人はまるで東京タワーとスカイツリーのように立っていた。
「ちょっと飲んでくる」
夕食を終えた啓一朗は、恵理に釣り仲間の友人に会うと告げた。秘めた目的の時間には随分早いが、遅い時間に出るのも不自然だ。横浜で飲んで、その後は自分のヨットに場所を変えて飲み直すから、帰り朝になるよ、たぶん、と伝えた。これは飲みに出る際のいつものコース。
「車で行くの?」
心配する恵理に、
「うん。戸締りしっかりな」
と告げ、紺色のジャケットを羽織り車で出た。これもいつものパターン。帰りは車をヨットハーバーの駐車場に置き、タクシーだ。
昼の気温が夜はどこまで下がるのだろうか。五月に入ったとは言え膚寒い夜だった。
啓一朗は車を停め、少し離れた所から二階建てアパートを眺めていた。道路に直角に建つ、伸之の住むアパートだった。道路側に階段があり築二十年といったところか、 フラットタイプのアパートだ。武蔵小杉の中心から外れたこの場所をパソコンで調べて来た。幸いにもこの近辺にカメラの設置が無いことも知った。
午前十二時過ぎ、暗い夜だった。再開発予定の空地が点在するこの通りに、人の気配は全く感じられない。明かりと言えば玉子色に光る街灯と猫の目だけだった。
啓一朗は昼間に調達した新しい靴に履き替え、黒いマスクをして軍手を填めた。それからジャケットのポケットに養生テープとマイナスのドライバー、内側に小型のバールを隠した。
周囲に気を配りゆっくりとアパートに近寄る。連休中で不在にしているのか、就寝中なのか、アパートのどの窓にも明かりは無かった。目的は一〇四号室である。パソコンで見た時は黄色の建物だったが、今は若芽色に映る古いアパートの一階、一番端の部屋だ。
裏から入り奥へ進む。周囲に気を配りながら、一度表に回って中を覗った。郵便物が詰まっていてドアポストの口が開いたままになっていた。長い期間ほったらかしにしているように思えた。伸之が留守にしているのは間違いなかった。
再び裏に回り、ベランダの下に屈む。窓のカーテンは中途半端な位置で仕切られていた。
――大丈夫だ――
自分に言い聞かせた。
準備したテープを*(アスタリスク)に貼り、バールを使って窓ガラスを割って入る。音に恐怖を感じたらドライバーで抉じ開ければいい。窓は引き違いでガラスは普通の透明ガラスだ。
啓一朗は伸之が何らかの証拠を握っている、と考えていた。おそらく伸之であればそれは写真のはず、と推測した。それができたのはあのカメラの紛失騒ぎの時だ、と疑わなかった。
――万が一証拠写真が見つからなくても、伸之を脅すネタが何か手に入るかも知れない。そうすれば何も恐れることはない。対等に取引ができる――
啓一朗は割れた窓をすぐに取り換えてくれる、出張修理業者があることも検索していた。一時間程度で元通りになるのだ。このアパートの住人に成り済まし、その場で現金払いすればいい。
――上手くいく――
大きな息を一つ吐いた。
表通りからは遠く、背後は無人の小さな商店。啓一朗は意を決し中腰でベランダに手を掛けた。
――えっ――
人の気配がした。思わず啓一朗は首を竦めた。
もう一度恐々ベランダ越しにカーテンの隙間から中を覗ってみた。……やはり、丸い刈安(かりやす)色の光が移動している。今の今まで気付かなかったが、窓の鍵部分が割れていた。
――伸之ではない。誰だ。誰かが物色している――
光はトンボが飛ぶ様に部屋のあちこちを照らしていた。何度か光が文字を捉えて、今度はゆっくりとその文字をなぞっていく。啓一朗も光の中を注視した。
一つ目はマスク・シュノーケルと読め、二つ目はグローブ・フィンと読めた。どちらも啓一朗にとって見覚えのある黒い文字だった。
――あの字体は――
自宅の庭に投げ込まれたダンボールの文字と同じだった。伸之の軽侮(けいぶ)の笑みが浮かんできて、啓一朗の冷えた体は怒りでブルブルと震えた。
まもなくして右手の方で、車が停まる音がした。……微かに人の声が聞こえた。
侵入者はピクッと反応した。玄関ドアを睨んだ。カチャカチャ、と音がしてドアが開く。窓から逃げる間は無かった。素早く洗面台の奥に身を隠した。存在を消すため必死で身を固くする。
大きなキャリーバッグに続き、左手を耳元に押し当てしかめっ面の男が入って来た。
――まずい――
急に部屋のライトが点き、啓一朗はアパートの壁角に退き潜んだ。
伸之が帰って来たことはすぐに察知できた。予想よりずいぶんと早い帰宅だった。
伸之は部屋の違和感と窓が割れていることに気付き、呆然と立ち尽くした。
今だとばかりに侵入者は、すぐ左の玄関から逃げようと飛び出した。だが気付いた伸之の動きが一瞬早く、左腕を掴まれてしまう。浴びせられた言葉に顔を見られたと思い、反射的にその手を跳ね除けた。振り向き様に太い右腕で伸之の顔面を渾身の力で殴った。
啓一朗の耳にもそれ程大きくはない、トンという人が倒れる音が届いた。中で何が起こったのか、啓一朗は鉢合わせとなった二人をもう一度見ようと、微妙な位置まで身を動かした。
スーツ姿の大きな男が伸之を洗面所へ引きずっていた。啓一朗の目が男の顔をはっきりと捉えた。
――確か、アイツは――
その男は以前、茂田と出向いたアツギワイナリーのオーナーだった。先代が経営していた二(に)ヘクタール程の野菜農園を、全くのど素人ながら借金をして葡萄農園に変えたと話していた男だ。茂田と帰る車中、上手く経営が軌道に乗るかなぁ、と心配したことを覚えている。
啓一朗は予想もしない恐ろしい状況に遭遇しながらも、その場から離れなかった。この時普段の啓一朗ではなかったのかもしれない。自分でも不思議なくらい事の成り行きに惹き付けられた。
男は伸之を引っ張り上げながら片手で洗面台に水を張り、伸之の顔を体重を掛けて沈めた。
男の一撃で意識が朦朧としていた伸之だったが、冷たい水に触れたとたん、狂ったように必死で抵抗を始めた。体を大きく左右にくねらせ暴れだす。
男は伸之の動きを止めようと、鬼の形相で的を外さず押さえ続けた。
啓一朗はふいに窓ガラスの向こう側にある漆黒色のバールを目にした。男が侵入のため使ったバールだ。窓を少し開ければすぐに届く距離だった。思わずベランダを越え、明確な目的も無く洋間に落ちているバールを拾い取った。その時だった。洗面台の横の柱を掴んでいた伸之の左手が、スーッと力無く静かに落ちていくのが見えた。
――見つかったら殺される――
啓一朗は我に返り、慌ててベランダから飛び降りると、体を丸め一目散に闇夜を駆け抜けた。車に乗り込みドアを閉める。
――伸之が、死んだ――
恐ろしい光景が目に焼き付いていた。啓一朗は神に祈りながらすべての動作を同時に行い、一刻も早く遠くへ離れたいとアクセルを強く踏んだ。
万一のために穿いた男物の下着は汗ばみ、太腿の裏側が冷たく感じていた。
連休が終わった。あの悍ましい夜から五日が経った。啓一朗はあの夜以来、不安で胸が痛い。食欲が無い。いつ死体が発見され警察が自分の前に現れるか、伸之の部屋が調べられ、自分の恥部を晒すどんな証拠が出てくるのか、頭から離れず夜もほとんど寝ていない。
――せっかくあいつが居なくなったというのに――
それは啓一朗にとって唯一の救いだった。だが会社としてはいつまでもこのまま、というわけにはいかない。今はまだ伸之が出社していないことなど誰も気にしていない。長期の休みはいつものことだからだ。
――殺されたと知ったら――
想像することすら恐ろしい。
啓一朗は部下を眺め大きく溜息をついた。もう一日だけ我慢しなければ、と自分に言い聞かせる。自然な日常を演出するため、明日には伸之が出社して来ないと、実家に連絡を入れることに決めた。その後は何があっても知らないふりをするつもりだ。今日も着けてる下着のことなど伸之しか知らないことだ。ましてやあの泥棒男のおかげで最終的にこの事件に関して自分は何もしていない。嫌疑をかけられてもシロだ。
いざとなれば、
――私は犯人を知っている――
次の日の朝、
「西田さん。田中くん、いつまで休むと言ってたっけ?」
啓一朗は周囲を気にしながら、至極自然に訊ねた。西田は伸之の部下で二年目の女性社員だ。彼女が動くと甘い香りがした。
「連休明けには出てくる予定だったと思いますが。いいですね沖縄」
西田の表情に狐色の妬みが滲んでいた。
――そうか沖縄だったのか――
「今日も来てないよね?」
「そうですね」
西田は素っ気なく返す。
啓一朗の手元には提出された休暇届があったが、見るまでもない。
「悪いけど、携帯に掛けてみてくれないかな」
「え、田中主任は確かまだ携帯電話持ってなかったと思いますけど」
現在の日本では携帯電話の普及率は七割程である。
「そうか、なら自宅に掛けてみて」
「私がですか?」
何か頼むと必ずこの言葉が返る。
「うん」
「はあーい」
西田はめんどくさそうに動いた。受話器を耳に当て、しばらくじっとしていたが、はい仕事終わりと言わんばかりに、
「出られませーん」
と伝えた。
「出ない? どうしたんだろう? まだ旅行から帰ってないのかな?
ちょっと心配だな。連絡だけでもしておくかな」
啓一朗は少し独り言にしては多弁だったかな、と思いつつもいよいよここからが本番だ、と受話器を掴んだ。緊急連絡先である実家の番号を押し始めた。
「私が、ちょっと自宅見て来ましょうか? 営業がてら」
営業部の期待の星、野山徹(のやまとおる)が言う。期待の星と言っても中途採用の三十一歳。スーツの似合う男だ。普段酒は口にしない。
順序から行けば野山の判断が正しい。啓一朗は急ぎ過ぎた。やはり動揺していた。
「そうだな。体調を崩して寝てるかも知れないしな」
慌てて受話器を置いた。
――いよいよだ。落ち着かなければ――
住所を聞いて出て行った野山から一時間後に連絡が入った。啓一朗は覚悟して電話を受けた。ところが伸之はまだアパートに帰ってない様子だと聞く。
「え、アパートに居ない? 中よく見た? 野山くん。何か変わった様子はないか?」
「別にありません。ポストにハガキや封筒が刺さったままですよ。
……請求書ばっかりですね」
野山は今確実に見ていることをアピールした。
「裏は、裏は見たかね」
「えー、見ましたよ。黄色っぽいアパートですよね。裏から中を覗いたんですが、人が居る気配がしなかったすね。帰ってませんね」
「何も可笑しなことは無かった?」
野山は事も無げに、無いですけど、と答えた。
啓一朗は呆然(ぼうぜん)とした。
――そんなはずは無い。きっと中で倒れてる。窓は? 窓はどうなったんだ? あの惨状(さんじょう)で気を失っただけで済むはずはない。あの男の力で水に顔を沈められたのだ。時間にして五分は続いていた。通常の男性でも耐えられるのは二分くらいだろう。それに間違いなく死に絶えた瞬間をこの目で見た。どう考えても生きてるはずがない――
回想する啓一朗自身に肯定と否定の思いが入り乱れる。
――そうだ、あの男、あの後死体を始末したのか。窓も私が考えた方法と同じで、住人に成り済まして元に戻したんだ。もしそうなら事件性は無くなるかも知れない。単なる行方不明だ。だが、あの時の自分も尋常では無かった。すべてを見誤ったかもしれない。全部勘違いかも知れない――
啓一朗は、あの夜の記憶が霞のようにだんだんと消えていくような気がした。
啓一朗は羊羹(ようかん)色の名刺入れから、あの男の名刺と別の名刺二枚を取り出し財布に入れた。必ず使用する時が来る予感がしたからだ。男の名刺だけ入れていては何かの時に怪しまれる。他の二枚はカモフラージュ用に添えた。
何度か「私がですか?」が常套句の西田に、伸之の自宅に電話を入れさせた上で、その日の夕方には啓一朗自ら、札幌の実家に連絡を入れた。
伸之の両親は驚き、翌日の土曜日には、管理人と共に伸之の部屋を確認した。その足で武蔵小杉警察署に出向き、息子の捜索願を届け出た。
だが残念ながら結果として警察が動かざるを得ない状況証拠は見当たらず、特異行方不明者と認められなかった。伸之は成人でありアパートの部屋も特に変わった点も無い。事件性が無いのである。
両親の強い訴えで確認程度に警察が動いたが、唯一前のめりになったのは勤務先での聞き込みの時だった。訪れた署員に、啓一朗が真田との一件を漏らしたためだ。
真田は一人だけ会議室に呼ばれ、伸之とのトラブルについて聴かれた。念のためだと言われ、連休中のアリバイも聴かれた。
真田はこの聴取に正直に応じた。以前から業務上、伸之に不満を持っていたこと。普段から料理教室に通い、この連休は泊まり込みの料理セミナーに参加していたこと。その際誤って指を怪我したことも自分から話した。料理教室は、真田が将来個人の店を持つことを密かに考えての行動だった。
警察は形式的な聞き取りに留まり、それ以上の追及は無かった。連休中の真田に特段問題はなかった。だが、正義感の強い真田には、再びプライドを傷付けられた出来事となった。
その後、伸之が連休中に沖縄から東京に戻っていること。その次の日に伸之と思われる部屋の住人が、窓の修理業者とやりとりしていること。さらには母親が、息子が数年掛けて二百万程の借金をしていたことを知る。警察はそれらを以て届出から数日で、本人の意思による失踪、すなわち一般家出人とした。
一方、警察の判断理由を聞いた啓一朗は、窓の修理を依頼した人物が伸之だと俄かには信じられなかった。書斎のデスクライトに埋もれながら、あの夜の男の行動に傾注していた。真相を確かめるには男に会うしかない、と腹を括った。
啓一朗にとって、伸之が何処かで生存しているとなれば、そのうちまた自分を脅しに来る。その時は今度こそ、家族には隠しきれない状況になる。ネットにも晒されるだろう。家庭は間違いなく崩壊してしまう。何が何でもそれだけは阻止しなければ、と祈る思いだった。
啓一朗は以前、伸之に口止めのため金の話をしたことがあったが、それには飛びついては来なかった。
――はした金より出世か――
――それとも単に面白がってるだけか――
伸之には忌々しい賢さと執着を感じた。
啓一朗は財布から男の名刺を取り出し、しっかりと確認した。
アツギ農園・ワイナリー
生産者・オーナー 平林宗大(ひらばやしむねひろ)
所在地は昨年茂田と出向いた、神奈川県厚木市波先(なみさき)町六―二―一である。
特別な時にだけ身に着ける、淡紅(たんこう)色の下着を四本指で箱から抓み取り穿き替えた。訪問を明日に決め、デスクライトを消した。
前回は茂田の運転する社用車で訪ねた。この日は会社に所用と伝え、自家用車に一つバッグを載せると直接アツギ農園へ向かった。
農園には一時間足らずで着いた。自社の営業社員は昨年以降何度か訪問している。啓一朗自身は久しぶりのアポ無し訪問だった。
――確かこの三階が自宅で、母親と二人暮らしと言ってたな――
紅色の建物の一階事務所内で三十分待たされた。
ようやく葡萄農園からドカドカと、青竹色の作業着姿で平林が戻って来た。女性事務員から出されたお茶も冷めた。
――間違いない、この顔だ――
啓一朗は一目で確信した。男も惚れる顔だった。
「恐れ入ります。お忙しいとこ、お電話もせずお伺いしまして」
「そうですよ」
啓一朗から名刺を受け取り眉間に皺を作った。しょうがないなぁ、という態度で啓一朗を椅子に促した。この時期、葡萄の萌芽が始まり芽かきの作業に追われていた。
「で、今日は何? 散布ドローンはまだ考えてないよ。そんな余裕も無いし」
置かれた熱いお茶を一気に飲み干した。よほど喉が渇いていたのか、早く話を終わらせたいのか、口元が無理をしている動きに見えた。
「いえ、今日はちょっと別の話を……」
啓一朗は事務員の存在に戸惑いながら、切り出した。
「あのー、実は平林さんを先日お見かけしまして」
「あ、そう……いつ?」
「十日前です」
啓一朗の言葉に、微かに平林の大きな体が固まった。
「十日前……。ふーん?」
壁のカレンダーに視線を送り、表情は変えない。
「そうです。覚えてますか?」
啓一朗は語気を強めた。
「あーあ、横浜の方に行ったな。いよいよ今年初出荷となるうちのワインを飲んで貰わんといかんからな。昨年からあの辺のスーパーや飲み屋を片っ端から廻ってるんだよ。営業だよ、営業」
「いえ、平林さん、貴方を見たのは、横浜じゃないんですよ。ましてやスーパーでも飲み屋でもなく」
調子のいい平林の言葉を、啓一朗は冷静に打ち消した。
「平林さん、ご多忙とは思いますが、少しの時間どこか別の部屋でお話ししたいのですが」
平林は拒否できる内容ではない、と察した。眉間の皺がより深まった。
「……分かった。俺の部屋で聴こうか」
平林は奥のオーナー室に案内した。
そこは啓一朗は初めての場所である。入ると意外に広い部屋だった。先代の父親だろう、壁には以前の野菜農園の写真も飾られていた。事務所からは分からなかったが、こちらの窓から喫茶室らしき建物が見えた。千草色のその建物は食事処のみならず、ワイナリーツアー客へのもてなしや新作ワインの公開の場にも使うものだった。
「どうぞ」
平林はデスクの上から煙草と百円ライターを掴み、ソファーに向かい合う。
「さてと、続きを聴こうか」
咥えた一本に火を着け足を組んだ。吹かした煙草はエコーだった。端整な顔には似合わない銘柄だ。
「で、何?」
「以前、お伺いした時に、厳しい経営だと仰ってましたが、如何ですか、勝算は?」
「うん? 経営の話か。まぁようやくな、四十過ぎから始めて四、五年掛けてここまで来た。かなり勉強もした。ようやくだよようやく。借金もかなりある。投資金だからしょうがない。ただ父親が亡くなった後、周りの農園仲間が助けてくれてな、何とかここまで来れた」
「そのまま野菜農園を引き継がなかったんですね」
「俺は元々農業なんかやったことがないからな。興味も無かったし。小さい頃は親父に言われて手伝ったことはあるがな。俺は農業とは真逆の水産高校に行っちまったからな。何を作ってもゼロからなら洒落たワインがいいと思っただけさ」
灰皿の角で煙草を弾いて続けた。
「反対もあったよ、葡萄畑にしてしまうのに。親父の長い付き合いにはな」
「金にはなる?」
「上手く行けばな。委託醸造でも儲かるが自分とこでやりたくて施設を作った。初期投資はそんなに掛からなかったが、今回のワイナリー施設がかなり痛いな。隣に小さな喫茶店も作ったし。今は大赤だ。ドローンなんて使えるわけないだろ」
「それであんなことを」
啓一朗はいきなり本題に入った。
「何の話だ」
とたんに平林の頬が硬直した。
「私、見たんですよ、武蔵小杉で。貴方を」
平林はその瞬間、すべてが終わった、と思った。目を見開いたマネキンのようになり、返す言葉は無かった。
「嘘のような話でしょ。本当なんです」
「何を見た?」
平林の声は震えていた。
「ちょっと待ってください。先に言っておきますが、今から話す内容を否定しても無駄ですから。否定しても証拠もあります。それから私に何かあった時点で警察に連絡がいく手配をしてますので、変なことを考えないでくださいよ」
啓一朗はそう前置きしてその夜の出来事を事細(ことこま)かに話した。
平林はすべてを聞き終える前にすでに完全に落ちていた。
「あの時、窓を開けるために使ったバール、どうされました?」
啓一朗の口元が綻(ほころ)んだ。
「……知らん」
「必死に探したんでしょうけど、実はですね」
とバッグからバールを覗かせた。
平林は言葉を失う。
「今の警察はすごいですからね。調べれば何でも判るでしょうねぇ、盗みが初めてではないことも……。貴方が若い男を引きずる時、写真も撮らせて貰いました」
写真のことは嘘だった。平林を自分の支配下に置くために付け足した嘘だ。
平林は目を閉じ腕を組んだまま動かない。
「このまま見逃してはくれないか……」
目を閉じたまま願うように言う。
「盗みで入って、人を殺してしまうとはねぇ。貴方も運が悪い」
「何でも言うとおりにする。頼む、助けてくれ」
啓一朗の、人を殺したという言葉に平林は否定をしなかった。
――やはり、間違いなくこの男は、伸之を殺したんだ――
「あの男が追いかけて来て、『家族にばらすぞ』と言ったんだよ。
なんで俺のことを知っているのか、いまだに解らない」
平林の言葉に啓一朗は驚いた。
――伸之は、私と間違えていたのではないか――
啓一朗は盗みに入った男をこの私だと思い込んだ伸之が、秘密を家族にばらす、と言い放ったのだとは想像した。
「水に顔を沈めて、その後君はどうしたんだね」
平林に対する呼び方にもいつの間にか上下関係ができていた。
「思い出せるのは無我夢中で押さえつけ、殺ってしまったところまでだ。男が足下に崩れ落ちた瞬間、頭が真っ白になってしまった。
その後はよく覚えてない。気付いた時は三階の自宅だった」
「君は死体をそのままにして出て行ったのか?」
「すぐに逃げたと思う」
「その後二度とあのアパートには行ってない?」
「行ってない。行けるわけがない。俺は最初から殺す気など無かったんだよ。恐くて恐くて、つい……」
平林は変えられない過ちを想起し、唇を噛(か)み涙を浮かべた。
――平林は殺したと言う。だが死体は見つかっていない。まさか何処かで生きてるのだろうか――
啓一朗はそのことを敢えて平林には洩らさなかった。
「おかわり、如何されます?」
マスターが声を掛けてきた。二人の様子に、そろそろではないですか、という意味だろう。隣席の男の体は、船に揺られるように左右に行ったり来たりしていた。
啓一朗は店に申し訳なく思い、左手で男の肩を軽く数回叩いた。男がビクッとして目を覚ました。
「克隆さん、大丈夫ですか?」
「あ~うん? いつの間にか寝てしまって……。つい気持ちよくなっちゃって」
「今日はこのくらいにしましょうか」
本音は違った。
「あまり遅くなるとご家族もご心配でしょうし」
「それはー、大丈夫ですけど。いまだに独身、へへ」
「そうですか……」
「そうすね、はい、そうします。ああ、また会えますかねー?」
男は頭を垂れたまま独り言のように訊く。
「えーいいですよ、是非。私も楽しかったですから。どうですか、今度は海の上でもっと楽しい話をしませんか?」
啓一朗はこの男の本性を知りたかった。いや、判らないままでは不安は拭えないと思った。不気味な雰囲気を感じたが、またこれから先を怯えて過ごすのはこりごりだと思った。
――ようやくあの二十二年前の答えが出るかもしれない――
すべてを包み込むような海の上なら、恐怖を忘れることができる気がした。
「またお会いしましょう。では今日はこれで先に失礼します」
啓一朗は連絡先を交換して二人分の支払いを済ませた。外に出て傘を開く。
鳥浜(とりはま)駅に続く路地には、み空色や赤支子(あかくちなし)色のネオンが滲んで光っていた。
往生際の悪い青い夏がまだ去ろうとしない頃、店内には軽やかな曲が流れていた。音色が店内の照明とぶつかって飛び散り、まばらな客に降り注いでいた。
「久しぶりに来たなー」
店内に大きな声が響いた。
「いらっしゃいませ。確かお客様、少し前に」
「覚えてるの?」
「えぇ、もちろんです。でも、申し訳ありません、お名前は……」
「浦野」
そう言われ、マスターはまた少し思い起こした。
「その時もこちらの席で、お連れの方と海のお話で盛り上がっていらして」
「そう、それ以来、五ヶ月ぶり」
男がメニューブックを手に取りつまみを選ぶ間に、マスターが奥から呼ばれた。
少しして、
「うちのオーナーも浦野様のことを覚えていたようです」
と、前回と同様にテーブルヤシを手にして戻って来た。カウンターに飾る。憎い演出だった。
男は気分よくバーボンの水割りとつまみを頼んだ。
「マスターがここのオーナーじゃないの?」
「いえいえ、私はこの店のマスターでございます。ベテランバーテンダーとでもいいましょうか」
他のバーテンダーと違い、一人だけネクタイ姿の上、何やらバッジを付けていた。
「他にもあるんだ、お店」
「都内の文京(ぶんきょう)区に」
「そこも同じバー?」
「そちらはお洒落な居酒屋風レストランでして、オーガニックの食品を中心に出しているお店のようです。場所的にライブや野球観戦帰りのお客様で賑わっているようです」
「あー、ドームがあるからね。それでお洒落な居酒屋風か……」
――なるほど――
「午前中から開いてるんだね? ここ」
「週末は十一時から開けさせて頂いてます」
マドラーでクルクルッとかき混ぜる仕草に、何とも言えない色気が漂う。揺れてグラスの中が雄黄(ゆうおう)色に変わった。
「今日は、何か良いことでもおありですか?」
コースターの位置が決まり、スッ、とグラスが着地した。
「どうして?」
「しばらくぶりにおいでになられて、とても何か楽しそうにお見受けします」
「分かるんだね。そうなんだよ。この前の海の男から誘われてね。
船、持ってるらしくて。クルーザーだって」
男は手にした水割りをグイッとやる。一緒に出された柿のたねとチョコを続けて口に放った。
「凄いですね。クルーザーですか。ここにいらっしゃるお客様でも自分の船をお持ちの方は、そう多くはいらっしゃいません」
マスターは羨ましそうに言う。
「これからクルーザーでランチも兼ねたディナーだから、今日は一杯だけにしとくよ」
「かしこまりました」
マスターは他のバーテンダーに小さく声掛けして、仕入れの確認に奥のキッチンへ入っていった。
…………
男は許せる時間までゆっくりと、これからのことに思いを馳せた。いつの間にかBGMも変わっていた。フランスのヴァイオリニスト、ジャン=リュック・ポンティのアルバム《Enigmatic Ocean》(エニグマティック オーシェアン)だった。
…………
「そろそろ行くか」
男は呟き、椅子から降りる。支払いはカードではなく現金で、とお願いし済ませた。
店を出たとたん、マスターに呼び止められた。青い紙袋を手にしていた。
「オーナーからこちらをお土産にと」
「いいのォ」
驚きながら差し出された紙袋を受け取った。
「ご贔屓(ひいき)の常連様へ、ワインでございます。この後のお食事にでもどうぞ」
――そんなに常連でもないけど、まっいいか――
このサービスは助かるな、と男は思った。
陽の光の道が波の上からもう間もなく消える頃、大海原に中型のクルーザーが一艘浮かんでいた。この時間になると、やはり海は悲しみを現す。明日また今日と同じように、太陽は明るさをもたらしてくれるのだろうか、と不安になる時間だ。
船のオーナーは空を掬い取ったようなウイスキーの水割りを口にした。一口目はゆっくり吟味する。
「啓一朗さん、よく私を誘ってくださいましたね?」
細身の男は答えが待てずもう一度訊いた。
「この前、克隆さんとお知り合いに慣れて、とても楽しい時間を過ごせました。海の魅力もそうですが、それ以上に貴方に非常に興味が湧きましてね」
オーナーが妙に真顔で応えた。
船を巻く藍色の海が徐々に濃くなり、喫水(ドラフト)に変化は無いが、水位が高くなったように映る。揺れる水平線はすでに霞んでいた。
「そうなんですね。私も啓一朗さんに色々教えて欲しいことがあるんですけど、聞いてもいいすか?」
「どうぞ、遠慮なく」
「じゃ啓一朗さん、先程言いかけた、四十代の頃の話を聞かせて頂いてもいいですか」
今度はオーナーが席を外すことがないように丁寧に聞いた。
「想い出ですか……そうですか、いいでしょ。貴方のためになるのなら」
オーナーはゆっくり時間を過去に戻していった。
「二十数年程前のことです。私は以前から他人には決して言えない、今でも知られたくない、人として恥じるべきことをやっていました。もうそれは今となっては取り返しのつかないことです。自分ではどうしてもコントロールできずにやってしまったことですが、天罰が下ったのでしょう。それをある日他人に見られてしまって、秘密を握られてしまいました。それ以来人生が大きく変わってしまいました」
「秘密ね……。その秘密を握られてどうなったんですか」
「そいつは私を脅してきました」
男の目をしっかりと見て、辛そうな表情で話す。
「どんな風に?」
「それはもう、今でも口にしたくもないことです。ただ真綿で首を絞めるようにね、相手はいろんな手を使ってきましたよ。私は世の中はもちろん、身内に知られることが一番恐怖でした。精神的に追い詰められて相手のいいなりになるしかなくなってしまい、おかげでその後、何もかも失ってしまいました」
「では、そいつのこと殺してやりたいと憎んだ時も? そうですよね、啓一朗さん」
男はオーナーに強い視線を向けた。
「ええ、当然でしょう」
オーナーが睨み返す。
――やはり、そうか――
男は下唇を噛んだ。
海は恐い程静かだった。突然海が何か意思を持って暴れ出すのではないか、という不安に駆られる程に。
「あーあ、申し訳ない。海の上だとすべて許してもらえそうで、つい何でも話してしまいますな、あははは。楽しいはずの一夜を台無しにしてしまうところでした。ここまでにしましょう。ただ少しだけ人生の先輩として克隆さんに伝えたいのは、どんなことがあってもやり直せる手段はいくらでもあるということです。こんな私でも今こうして存在しているわけですから。難しいことではない、生き方を変えるだけです」
オーナーは諭すように語り、ワインを男のグラスに注いだ。
「克隆さんも丁度、その頃の私と同じくらいだ。他人に話せない辛いこともおありでしょう。私で良ければ何でも相談に乗りますよ。これもあのバーでお知り合いになれた、何かの縁。お話したいことがありませんか?」
「あります。私も現在(いま)の話じゃなくて昔の話で良ければ」
「どんな?」
「でも私の場合は凄く運が良かった話で」
「それはいいお話ですな。ぜひ聞かせてください」
オーナーは皿に残していた鮮緑(せんりょく)色のブロッコリーを口に入れ、耳を傾けた。
「以前バーでご一緒した時、スキューバーダイビングの話をしましたでしょ」
「あー、そう言えば素潜りに夢中になってしまった、ということでしたね」
「沖縄に行ったんですよ、二十代の頃に。慶良間諸島、ご存じですか?」
オーナーは懐かしそうに若い頃に一度行った経験がある、と答えた。
「その時あまりに楽しくて無茶しちゃって、耳をやられましてね。左耳を。とにかく痛くて耳鳴り、その日のうちにすぐに病院」
「ダイビングでですか? あまりいい話じゃなさそうですが……」
男は気にも留めず続ける。
「頭から潜ってばかりいたので、耳抜きが上手くできなくなってるのに、休むこともせず潜り続けたのが不味かった。軽い減圧症にもなって、入院治療」
「減圧症??」
「そう。私も詳しくはないんだけど、ダイビングタンクの中の窒素がたくさん体に溜まったまんま、急に陸に上がると窒素が悪さをするらしくて。そういやぁ、病院の先生が言ってたな。炭酸飲料を開けたら、急に飲み物が泡立って上がってくるみたいなのが、体の中で起こるって。結構、気を付けないと危ないって言ってた」
「そんなことがあるんですね。例えを聞くと怖い」
「そう、なのに私、すぐに病院から逃げ出して帰ったんですよね」
「どうしてそんなことを」
「払う金が無かったんですよ」
「それで逃げたの?」
「その日のうちに、とんずらですよ。逃げ帰っちゃった。へへへ」
「これはいい話ですかな?」
「もちろん。ここからです。疲労と眩暈のせいでふらふらで沖縄から家に帰ったんですけどね。知ってます? ダイビングやった後はすぐに飛行機に乗ったらいけないんですって。十数時間空けるようにとガイドさんも言ってたんですけどね。さっき言った減圧症を引き起こすそうですよ」
「いやー無茶しますな。その後大丈夫だったんですか?」
「疲労と関節痛に悩まされましたけど、アパートに帰ったらそれどころじゃなかった……。何があったと思いますか、啓一朗さん。びっくりですよ。強盗に遭遇したんですよ。危うくそいつに殺されそうになった」
――えっ――
オーナーの目玉が泳いだ。
「頭を押さえつけられ、水に何分も顔を沈められ……」
男がオーナーの表情を捉えながら続ける。
「普通なら死んでたでしょうけど、ここですよ、啓一朗オーナー。
私は運良く死ななかったんです」
――何? 嘘だろ?――
思わず声を上げるところだった。
「どうです、いい話でしょ」
「確かに……、いい話……だ」
オーナーの麦藁色の顔が震えていた。
「それにしてもよく助かりましたね。何故、克隆さんは無事だったんですか?」
「不思議でしょうね。聞きたいですか? 海が私を守ってくれたんですよ。ふふ」
「どういうことですか?」
――俺は確かにこの目で――
…………
「鼓膜穿孔」
「鼓膜穿孔? ……もしかして鼓膜が破れた、ということですか?」
「そうなんですよ。左耳の鼓膜に大きな穴が開いてたんですよ」
男が嬉しそうに言う。
「それで助かったと」
「いや、それは判りません。もともと普通の人より息は長く止めれたしね。だけど頭を押さえつけた男に必死に腕の力で抵抗してたら、運良く耳は水に沈まなかった。そしたらいつも以上に長く水中にいることができてる感覚があって、奇蹟が起きたんだ、と思いましたね。この時ほど海に感謝した瞬間は無かった。それでもこのままではまずい、いずれにしても殺されてしまうと考えて、すぐに一か八か賭けに出たんです。男に完全に死んだふりをして見せたんです。名演技が功を奏しました、へへへ。男は俺の死に顔を見て慌てて出ていってくれましたよ」
男は一気に言い放った。
オーナーは呆然とした。
――死んでなかった……。殺してなかったんだ――
顔中に汗が滲み出ていた。
「どうしました? 啓一朗さん、凄く面白い話でしょう」
「耳は大丈夫だったんですか?……」
「あんなの数週間で勝手に塞がるんですよ」
「そうですか。あまりにも衝撃的な話で、この年齢の心臓には耐えられない」
確かに胸が痛む程の動悸が続いていた。息も荒い。一度掴んだグラスの細い部位、ステムから一旦手を離した。
――啓一朗さん、面白くなってきましたね、ふふ――
男の口元だけが笑みに変わった。
その後オーナーはおもむろに操舵室に入り、しばらくして戻ってきた。ドアが開く度に操舵室の内側に掛かったネームプレートが、バラバラに大きく揺れる。途中、何やら二人が厳しい顔で厨房の方を指差す光景が、丸窓から見えた。
男はステーキの最後の一片を口にして、膝に掛けずに横に置いていたナプキンで口元を拭った。
ふと一度タイミングを失っていたことを思い出す、
「そうだ、そうだ、これ、お土産です。ワインです。先に渡せば良かったんだけど……」
紙袋から取り出しテーブルの上に、コツンと置いた。
「おー、これは」
オーナーはボトルを手に取り、横にクルッと一回転させ、大きな目をさらに開いた。
「あれ、ラベルが無いけど大丈夫かな?」
男は差し出した後、気付いて言う。
「克隆さん、これは素晴らしいお土産だ。貴方らしい。どうも有難う」
「そうですか、良かった。ついつい海に魅せられ、このクルーザーに魅せられ、食事に舞い上がって、忘れてしまって」
「いやいや、これは海底で熟成されたワインですよ。それでヴィンテージやロゴがラベルではなく刻印されています」
と指で示した。
「ラベルだと剥がれたりして海上汚染に繋がりますからね。それに安心してください。これはおそらく甘口でしょう。アルコール度数も高い、食後に味わうのに最適だ」
満足そうに顎鬚を撫でた。
――そんないいワインだったのか、あのバーも洒落たことするな――
男はグラス三分の一程のワインを一気に飲み、空にした。今まで以上に体にS字状の揺れを覚えた。酔いが廻る。
「深い海の底で長い間眠って生まれたワインですな。陸の物とは違う神秘な授かり物だ。うーん、今すぐにでも口にしたいんだが、その前に克隆さん、もう一品食べて頂きたい料理があるんですよ」
オーナーは立ち上がり、手土産のワインを冷蔵庫にしまい、食べ終えたすべての皿を下げた。改めて厨房から一皿掴んでテーブルの上に置く。ちらりと男の表情を意識した。
「彼の自慢の料理です。ステーキの前にお出しすべきでしたが、温め直してます……」
操縦士の得意な魚料理だった。
「へぇー、旨(うま)そうすね」
「そうでしょ、何の魚か判ります?」
「何だろう? ……目が、大き、いな……」
男の顔色が変わった。反射的にオーナーを見上げる。
「メヒカリのから揚げです」
男の両手が固まって動かない。
「お嫌いですか?」
「いや……、初めてです」
強い目で感情を殺した。
――さっきは良いこと言ってたくせに。挑発か、こいつ――
次から次へカリカリと何食わぬ顔で、食う。味わう気など無い。
――このやろう――
――後で見てろよ――
――まだまだ静かな余生には早いぞ――
男はあっという間に平らげ、水をゴクリと飲んだ。
月の光がようやくといった様子で海に届き、濡羽色(ぬればいろ)
の波が眠っていた。
二人には、長いディナーだった。
「そろそろ休まれますか?」
オーナーに肩をトントンと叩かれ、男は体を揺らしながら目を開けた。
「うー、最高でしたぁー」
「先に如何ですか、シャワー」
「シャワー室もあるんすか?」
「もちろんです。広くはないですが」
「でもオーナーから先にどうぞ。私、もう少し。へへ」
グラスを顔の前に掲げて見せた。
「そうですか。お客様より先に……。私ももう少し若ければお相手できるのですが……。じゃぁ、失礼してお先に」
オーナーが脱衣スペースに消えた。
男は一息入れて立ち上がった。ゆっくり後を追う。静かに近寄りポケットからスマホを取り出した。端から中を覗き構える。
背中を向けたオーナーが水色の半袖シャツを脱ぎ去り、肌着を上に剥ぎ取る。筋肉質の上半身が現れた。
――えっ、ブラが無い――
ズボンのベルトを緩め、ファスナーを下げていく。
――嘘だろ、黒のトランクスじゃねぇか――
男が半ば期待した光景は、そこには無かった。
――ちぇ、今日は着けてないのか――
男は構えたスマホを残念そうにポケットにしまった。
二十分程してオーナーがシャワーを済ませ出てきた。代わって男が脱衣スペースへ入った。男は素早く服を脱ぎ落とし、予定していた行動に出た。
下着のまま、脱衣スペースからいきなり飛び出した。
「啓一朗さん、俺のこと忘れてませんかー」
男の大声は室内に響き亘った。
空も海も船も人も、すべての時間が止まった。
…………
スローモーションのように、顔がこちらを向いた。
……操縦士……。
船の見張りをオーナーと代わっていたのだ。
「どうしました?」
操縦士の目には珊瑚礁に群がる熱帯魚のような、目が眩む程の色鮮やかな、女性物の下着男。
…………
「ふふっ浦野さん、そういうご趣味があったんですね」
「いや、ちょっと、これは」
「あーいやいや、いやいいんですよ。いいんです、大丈夫です。誰にも言いませんから。そんな人はたくさんいますから」
操縦士は微笑みながら必死で男を慰め、
「ご心配は要りません。見て貰いたかったんでしょ。その気持ち、解らないでもないですから。私が見ただけで、他には誰も見てませ
ん。写真も撮ってませんから、証拠もありません。この私の目が見ただけです、ふふ」
と両目をカッと見開いた。
男はその夜、何度も短い悪夢に魘(うな)された。
「あなた、大丈夫?」
「大丈夫だって」
美恵が伸びてきた柔らかい手を肩で拒否した。
「彩恵も心配してたから」
母親の恵理はVネックの白いブラウスに苗色のプリーツスカート姿で立ち尽くした。右手に車のキーを持ったまま、これ以上の説得できる言葉を懸命に見つけようとしていた。
「彩恵お姉ちゃんに何が分かるの?」
美恵は洗面台で立体感のある濃いメイクを擦り落とし、鏡の前に座った。檸檬色のワンピースの丈の短さがより一層際立った。早朝までの仕事を終えて、池袋から帰宅したばかりでほとんど寝ていない。今から彼氏好みの化粧直しを始める。
「だって彩恵が一度見かけたことがあるって言ってたわよ。あなたが付き合ってる人を。ガラが悪そうな男の人たちと一緒にいたって」
…………
美恵は聞く耳を持たず澄まし顔で鏡を覗き込む。両手で化粧水を顔面にパチャペチャと浴びせた。
「何人だと思ってるの? とっかえひっかえまともな男(ひと)と付き合ったこと一回も無いでしょ」
「今度は大丈夫だって」
ファンデーションを星のマークを描くようにポンポンと顔にのせ、外側へと広げていく。
「本当かしら? 何処で知り合ったのよ」
「海水浴」
「いつ?」
「今年の夏」
「何してる男(ひと)よ?」
「会社員。大丈夫だって、ちゃんと働いてる人だから」
「またお金を無心するようなくだらない男じゃないの?」
「よく言うね。お母さんだって最低な男(ひと)と結婚してたじゃない。それも何十年も騙されてて。私からしたらその辺のチンピラの方がまだ男らしい。あんな気持ち悪い生き物はいないでしょ」
「そんな言い方しないの。別れてもあなたのお父さんよ」
美恵が高校を卒業する数か月前に、啓一朗の大切な秘密の黒い箱に母親の恵理が気づいた。自分の胸の内だけに納めて置きたかったが、彩恵が近くにいて隠せなかった。
その瞬間から啓一朗は夫でも父でも無くなった。そして徳永家は崩壊していった。予想以上に別居、離婚へと進む速度は速く、多感な娘二人の崩れた言動により、恵理が苦悩する時間を簡単に追い越した。少しだけ大人になっていた彩恵はどうにか大学を卒業したが、美恵は専門学校を中退すると同時に、夜の牡丹色の社会に溺れるように逃避した。美恵の異性への価値観は、父親を深い海の底に沈めることで成り立っていた。
「今はいろんな人がいていい時代じゃない。女性のような心を持った男性もいるし、その逆もあるでしょ。年齢が大きく離れてたって愛し合えるのよ。同棲愛だってあるでしょ。あの時のお母さんはあなたたちのこともあって離婚したけど、今だったら我慢できたかもしれないわ。犯罪者じゃないのよ、人間なのよ」
「我慢できるとか嘘言わないで。お母さんだって本当は不潔だと思ってるくせに」
確かに口には出さないが、恵理自身も離婚後は男性を見る目が変わったことを自覚していた。
少し間を置いて美恵が冷静に続ける。
「誰にも迷惑かけてない、と言えるの? 言い切れる?」
ペンシルのアイライナーを使い終え、
「世間体だけでしょ、お母さんが言ってるのは。家族はどうなの? 普通でいられた? あの人をあのまま普通にお父さん、って呼べる? あんな父親を呼べるわけないでしょ」
「美恵にはちゃんとした男の人と一緒になって欲しいのよ。だからもうあなたはお父さんのことを異常だと考えないで。どうしても認めてあげれないなら忘れなさい。その上で真っ直ぐに男の人を見て欲しいの。いつまでも囚われてたら、あなたが不幸になるだけよ」
そう言うと、恵理は壁の白い時計に目をやり、
「いけない、もうこんな時間」
と少し慌てた。
美恵はリップブラシで口紅を塗り終わると、恵理の言葉に反応して急に早送りのような動作でショルダーバッグを身に付け、そそくさと飛び出していく。
「とにかく良く考えなさいねー」
恵理は閉まるドアの隙間に必死に声を差し入れた。
いつの間にか夜が去り、今日が世界の始まりのように朝の陽射しが降り注ぐ。キラキラと海が眩しい。
クルーザーは横浜のハーバーへ向かっていた。往路と同じく三時間弱で帰っていく。かなりのノット数だ。
室内では二人が朝の食事を済ませたところだった。男は疲れたようにソファーに体を預けていた。
「如何でしたかな? 海の上は」
「良かったですよ、思ってた以上に」
「私もですよ。克隆さんと昨夜は昔話ができて、何かこれからの人生が、この二日間の波のように穏やかなものになる気がしました。とても良かった」
オーナーが右手にワイングラスを持ち、窓の外を眺めながら噛みしめるように言う。
「そうですか……。でも私もと言いたいとこですけど、今、啓一朗さんが見ている静かな海の深底には、私たちが想像もできない恐ろしい海流が蠢(うごめ)いていますからね」
ソファからオーナーを斜めに見上げ、
「そうでしょ」
とニコリとした。
オーナーは軽く頷いて、
「人は危険な物や謎めいた物にとりわけ魅かれる。空にも海にも、他人の人生にも」
そう言って続ける、
「それが色鮮やかな物なら、なおさらだ」
右手で桑の実色のワインが入ったグラスを揺らした。
太陽はこの季節になるとそう高くまで昇らない。
操縦士は上手に船を揺らす波に逆らい、午前中には横浜に着岸させた。
ギャングウェイとも呼ばれるタラップを男が下りていく。オーナーも続いて見送る。
「私にとって忘れられない日がまた一つ増えました」
男は足に揺れが残り、まだ現実をしっかりと受けとめていなかった。
「克隆さん、私もそうです」
「また会えたら……」
男は言葉をそこまでにした。
「奇蹟は一度きりとは限りませんよ」
オーナーは応えた。
男は二、三歩背を見せて振り返った。船上に一度視線をやり、
「大宗操縦士にくれぐれもよろしくと伝えてください」
と言い、去って行った。
伸之が下船した後、係留されたクルーザーの後方デッキで、会話は続いていた。潮風が心地良い。
「平林、よくやってくれた」
「俺は役に立ちましたか? 徳永さん」
「もちろんだ」
「しかし徳永さんが想像してた通り、田中という男が顔を変えてまで近づいてくるとは、驚きました」
「私もまさかとは思ったが、用心するに越したことはない」
「徳永さんを殺す気だったんでしょうか?」
「さぁ、それは判らない。ただ伸之は自分を殺そうとしたのはこの私だと、ずっと長い間思ってたに違いない」
「俺に、くれぐれもよろしくと言ってましたよ、あいつ」
「そう……」
「気付きましたかね? 私たちのこと」
「どうかな? それより安易な偽名の方が心配だ」
と、啓一朗は平林に微笑み、続けた。
「いずれにしても君はよく数ヶ月の間に、命がけで私と入れ替わってくれた、感謝するよ」
「徳永さんのためなら、何だってできます」
平林はあの二十二年前の事件から七年後、すでに同居していた母が他界していたこともあり、家族と離婚した啓一朗の指示で所有していた葡萄園の土地を売り払い、啓一朗の元で身を隠して生きてきた。船の免許は啓一朗に仕えるために必要なことだった。後に啓一朗が海技士受験を行う時は、従順な家庭教師にもなった。
啓一朗の離婚の原因は話すに及ばない。その瞬間は夫でも父でも無くなった。
「思い出すな。君と一緒に弟の静二朗に整形を頼みに行った時の、あの弟の驚いた顔。あはは」
「あれは、よく受けてくれましたね?」
「あいつは私に厭と言えないくらい世話になってるからな」
啓一朗はそれよりも、と続け、
「これから君はどうする? 伸之は生きていた。私に従順である必要はもう無くなったんだ。あのバーにもまだ君を尋ねている人がいる」
…………
――これから先どうしたらいいか? このままでいいのか? 俺は――
平林は僅かだが悲しい顔を見せ、沖を見やる。ほんの少し沈黙の時が流れた。
「啓一朗さん、マリアージュって言葉知ってます?」
「結婚?」
「フランスでは、別々の物があたかも一つの物のように調和することを、そう表現するんですよ。例えば、キャンバス上で魅せる視覚的効果に使ったり、ワインと食事の絶妙な調和をそう喩(たと)えたり。ヨーロッパでは、チーズもそうかな」
「なら、料理に使うソースもだな」
「ですね」
「珊瑚と熱帯魚は?」
「それはどうでしょ?」
平林は、ふふふ、と笑い、
「俺と啓一朗さんとの関係はもうそんな関係なのかな……」
と呟いた。
啓一朗は肯定も否定もしなかった。
「マリアージュか。……下の娘が今度結婚するんだ。母親から聞いた」
「それは、おめでとうございます」
「入退院を繰り返していたらしく、心配していたんだけどね」
啓一朗は寂しそうに話した。
「ちょっと済みません」
突然、平林は忘れていた物を船室へ取りに戻った。間もなく大股で頬笑みながら出てきた。右手にワインボトル、左手にワイングラス二脚を持ち、
「飲みませんか?」
とグラスを一つ差し出した。伸之が持参したワインだった。
「有難う」
啓一朗は一度グラスを手にしたものの思い直した。
「いや、やっぱりやめとくよ」
二十二年前の伸之の残像は完全には消えていなかった。
「あの男が生きて現れた以上は、安心できないからね」
「そうですか? これは口にしてみたいワインでしたが……。では俺もやめときます」
平林は啓一朗のグラスを受け取ろうと、右手を差し出した。少し慌ててボトルを白い丸テーブルに置く。いや置いたつもりだった。視線が外れた。
グラッとボトルが傾き、一回転して二人の足元にゴロゴロと転がった。勢いよく琥珀色の液体が飛び出し、白いデッキから海へ流れ落ちていく。
――あっ、海が汚れる――
啓一朗は慌ててワインが海に混じる辺りを見下ろした。しばらくして織部(おりべ)色の水面に数匹の魚が浮かび上がる。
「平林、見ろ」
「えっ」
イワシやボラのようだ。
「お前がやったのか!」
「違います!」
平林は強く否定し、息を呑んだ。やはり毒が入ってたのか、と血の気が引いた。
――もし飲んでいたら――
――でも、それなら何故すぐに出さなかったんだ? いくらでもチャンスはあったはずなのに――
平林は横向きのまま波に揺れる魚を眺め、疑問に思う。
「ん?」
啓一朗が目を凝らした。違うぞ、と人差し指で伝える。
平林も視点を合わせた。
ほんの一瞬だった。横腹を見せていた数匹の魚が、ピクピクと尾を振り、矢継ぎ早に海の中に消えた。
「何だったんでしょ?」
「判らん」
「毒物じゃなかったんでしょうか? 睡眠薬だったのかも?」
「判らない。長い間の伸之の怨念(おんねん)がどのくらいのものだったのか、私には想像もつかない」
啓一朗は鳥浜駅に続く通りを眺め、すでに姿の無い伸之の二十二年間に思いを馳せた。
デッキの上ではボトルがいつまでも小さく左右に転がっていた。
男にワインボトルを手渡しバーに戻ったマスターは、カウンターに置いた観葉植物を片手に、オーナー室へ向かった。
ノックして入室する。
「オーナー、失礼致します。浦野様へワイン確かにお渡し致しました。観葉植物はこちらでよろしいでしょうか?」
「あー、そこでいい」
目の前のノートパソコンには、ピンポイントに拡大されたカウンターが映っていた。ちらりともしないオーナーに、マスターは一礼して足早に出て行った。
オーナーは橙色のデスクの端に置かれた鉢を左手で引き寄せ、土の表面に沈んだ小さな無線マイクを回収した。細長い煙草に火を着け、静かに椅子の背もたれに体を預けた。一口吸って目を閉じた。遠くへ煙を吐き出す。
その先の壁に写真が掛けてあった。一途に白球を追っていた頃の野球部の写真だった。
「待たせちゃって、ごめんね」
海色の車が停まった。
「で、どうだった?」
「駄目。借してくれそうな相手じゃなかった」
乗り込んで左手でバァン、とドアを閉じた。
シートポケットのパンフレットが少し傾いた。二人が出会った映画館で購入した物だ。タイトルは(エイリアンズ・オブ・ザ・ディープ)。ディズニー作品が二本目の矢となった。
「そう……。でも大丈夫よ、心配しないで。伸ちゃんの借金は私が少しずつでも何とかするから。前の旦那にまた電話してみる」
「ごめん、いつも甘えてばかりで」
「大丈夫、大丈夫。娘の話をすればなんとかなる……大丈夫よ」
恵理は母親のように柔らかい豊満な胸で伸之を包み、背中をさすってあげた。
その後二人は暑い陽射しが届かない場所を目指して、無人の鳥浜駅を後にした。
了
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