ソニー・ロリンズの思想実践6.音色の探究と発掘(2)「走る音」の出現


はじめに

 「ソニー・ロリンズの思想実践4」「同5」では、アルバム”Saxophone Colossus”をとりあげ、「4」では“St, Thomas”、「5」では“You Don’t know What Love Is ”について考えました。アルバムは残り3曲が収録されています。順当にいけば当然、3曲のうちのどれかを今回取り上げなくてはならないわけですが、今回は予定を変更し、標題の通り、再度ロリンズのサックスの音色について考えたいと思います。(37000字弱の記事です。)

 予定変更の理由は、本稿があまりに遅々として進まないことが大きいです。進まないこと自体はさしたる問題ではないとも言えますが、実は巷のロリンズ受容に関して、昔から気がかりなことがあります。それは、(ここまでの本稿も含めてですが)ロリンズを語ることは1950年代の演奏を語ることだ、という風潮です。
 1950年代のロリンズが、バップと呼ばれるジャズの様式において、時代を代表する「モダンジャズ・ジャイアンツ」のひとりとなったことは事実と言ってよいでしょう。

 しかし、では1960年代以降のロリンズは取り立てて注目すべき演奏をしなかったのか、と言えば、それは違う、と筆者は声を大にして言いたいです。実は60年代にも注目すべき演奏活動を展開しているのですが、とりわけ、1970年代以降のロリンズの活動はめざましいものがあります。70年代以降のロリンズの存在意義があまり語られないのには、いくつもの複合的要因が考えられます。しかし、本稿の「1」で記したように、1970年代後半以降のライヴ演奏の圧倒的印象は、50年代のアルバムからは到底想像のつかない凄まじいものです。
 実際にその衝撃を知らない方々にこれをどう語るべきか、筆者はほとんど適切な喩えを思い浮かべることができません。
 もし、ドストエフスキーの小説に親しまれた方に対してなら、50年代のロリンズを聴くのが「地下生活者の手記」や「分身」を読むような体験だとするなら、70年代後半以降のライヴステージを一度体験するのは「カラーマゾフの兄弟」を読むような体験です。これは誇張でも何でもありません。
 もし、ウィリアム・フォークナーの読者であるなら、50年代のロリンズを聴く体験が、「エミリーに薔薇を」(A Rose for Emily)や「死の床に横たわりて」(As I Lay Dying)を読むような体験だとすれば、70年代後半以降のロリンズのライヴを一度聴く体験は、「八月の光」(Light in Augusut)と「アブサロム・アブサロム」(Absalom ,Absarom)を一度に読むほどの体験だと言えるでしょう。
 平安時代の文学で喩えるなら、50年代のロリンズを聴くのが「巡り逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな」という和歌を味わう経験(あるいはもう少し大きく、「紫式部日記」を読む経験)だとすれば、70年代後半以降のロリンズのライヴを一度体験することは、「源氏物語」全五十四帖を読む経験に匹敵するものでしょう。
 少なくとも筆者の見るところ、1970年代以降のソニー・ロリンズは、そのようなライヴを至る所で展開した本当のSaxophone Colossusです。それが他のミュージシャンに及ぼした影響という点からすれば、もしかすると50年代の方が大きかったのかも知れません。(70年代以降のロリンズの影響をまともに受けるには、ミュージシャンとして卓越した技能・力量と音楽観と批評力が必要だったことでしょう。)しかし、その音楽を聴こうとして会場に足を運んだ聴衆に及ぼした影響はまことにとてつもないものだったと言わなくてはなりません。

 しかし、かつてもその傾向はありましたが、とりわけロリンズが健康上の理由で演奏活動を行わなくなって以降、70年代以降のロリンズに言及する議論は日に日に乏しくなりつつあるように見えます。
 このままでは、筆者の没後には70年代以降のロリンズの圧倒的演奏が人々の記憶から消えてしまうのではと懸念されます。
 70年代以降のロリンズの業績は、50年代の比ではない(実はこれはロリンズ自身が繰り返し語っていることでもあります)、そのことを筆者存命中に語っておく必要をひしひしと感じます。アルバム“Saxophone Colossus“についての考察を一旦中断し、70年代以降のロリンズをその一部分なりとも語っておこう、と考える所以です。
 ここでは音色の大まかな変化のみに話題を絞りたいため、各アルバムに関するコメントを(涙を呑んで)控えることにします。

 なお、表題からやや外れますが、本稿はロリンズのフリー・ジャズへの対応についての記述がかなり多くなっています。これは、音色の問題を考えようとするとメロディーとの関連が無視できず、そうなると「ネクスト・アルバム」においてフリー・ジャズが視野にあったが故のメロディーの発現を考えざるを得ないからだとご了解いただければと思います。

 既にここまでの記述でも用いていますが、以下では煩雑さを避けるため、しばしば西暦1950年代を単に「50年代」と記します。「60年代」「70年代」等々も同様です。(2000年以降に関してはこの限りではありません。)

 本稿は、書くのが難渋したため、当初の意図を十全に反映できなかったり書き落としの内容が散見されたりします。可能な折には、告知なしに改変を試みるかもしれないことをご諒承ください。

疾走するサックス音

 さて、1970年代以降のロリンズのサックスの音には、ある際立った特徴があります。
 それは、サックスの音が「走っている」ことです。
 これはもちろん、超高速フレーズを吹いている(すなわち指が早く動いて呼気がそれとよく連動している)などということではありません。例えば、どんなにスローテンポのバラードを吹いていても、さらにはシングルノートを長く引っ張って鳴らしているだけの時でも、その音が「走っている」のです。

 「走っている」とは実際に物理的にどんな音が出ていることなのか、きちんと分析すればおそらく明瞭に語れることに違いないでしょう。管楽器の音に詳しい方なら、マウスピースやリード、リガチャーにどんなものを用いているのか、アンブシュアがどうなっているのか、ヴィブラートがどのようであるのか、などの説明ができることだろうと思います。
 残念ながら、筆者はそのような客観的説明をする基礎知識を有しません。ただ単に「音が走っている」としか言えません。
 しかし、この時期のロリンズの演奏を聴いた後に、他のサックス奏者の誰彼の演奏を聴くと、ほとんどの場合、フレージングやリズムの取り方メロディーの歌い方以前に、それらのサックスの音自体が余りに野暮ったかったり古臭かったり愚鈍だったり凡庸だったりあるいはただ単に心地よい音だったりするのに呆れます。

 ロリンズは1970年代以降に独特の粒立ちの音、筆者の云う「走っている音」を出し続けました。ただし、急いで付け加えますが、その音は(ライヴではあまり音色に変動が感じられないものの)、時期により、また例えばアルバムにより、決して一様ではありません。(例えばアルバム単位で見れば、一作一作、そして往々にして同一アルバム内でもトラックによって、サックスの音色が異なっていたりします。)ただ、そうした違いを貫いて概ね一貫しているのが、「走っている」と表現したくなる特徴だと筆者は感じています。少々大袈裟に言えば、ロリンズは、音楽のすべての要素のうちで音色を最重要視していたのではないか、「どんな音楽を作るか」という問題は「どんな音色を実現するか」と云う問題とほとんど等価だと考えていたのではないか、と感じられるほどです。いや、そこまで言うと言い過ぎになるとしても、少なくとも、自分がサックスで奏でようとする音楽は、その音色の決定的関与無しには成立しない、と考えていたのではないかと思います。
 これは、裏を返せば、筆者が、「音楽を聴く」と言いながら実は音色しか聴けていない、ということであるかも知れません。しかし、そうであれば尚更、ロリンズのサックスの音は特別だ、ということになるように思います。
 今回は、1970年代以降のロリンズの、この「走っている音色」をめぐって述べておきたいと思います。そのような稀なサウンドが、なぜ必要になり、そこにどのような文化的意義があるのかを考えてみます。

1960年代のジャズの動向


 二度目の引退

 ソニー・ロリンズは1959年にジャズシーンから姿を消します。有名な第二回目の隠遁です。(生涯三度の引退のうち、二度目は50年代と60年代を分ける時期、三度目は60年代と70年代を分ける時期となっていて、大変わかりやすいのでご記憶頂くといいでしょう。)

 この頃のバップ・ジャズに関して、評論家油井正一は次のような見解を披露しています。

ソニー・ロリンズの「サキソフォン・コロッサス」などの演奏は、モダン・ジャズの曲がり角になった。アドリブというものがここまで成し遂げられてしまった以上、この先何をすればよいのか、みんなわからなくなってしまったのである。
 一番個性的な解決をしたのは、ソニー・ロリンズだった。吹くのをやめてしまったのである。(大意)

油井正一「ジャズの歴史物語」より(要旨)

 油井正一のこの記述は、事態を余りに単純化し多くの重要な事実を見過ごしているのは、おそらく間違い無いように思います。
 とりわけしっかり考えておくべきは、実際のミュージシャンたちが、本当に上のようにアドリブの今後のあり方を考え、その展望の青写真のようなものを必要としていたかどうか、です。
 基本的に、音楽をやりたくてやっているミュージシャンにしてみれば、どんなに優れたアドリブが現れようと、それで自分がどんな演奏をしたらよいかわからなくなる、というのはごく一部の特殊で限られた演奏家の悩みに過ぎないように思われます。
 何と言ってもこの時代には、今夜どこそこの店では誰それのクインテットが演っている、ピアノは誰々、ドラムスは誰々だ、とか、今度誰々がドラマーに誰それを起用して新しいコンボを組んだそうだ、その旗揚げ公演をいついつからどこそこの店でやるらしい、といった具合にシーンが動いていたと思われます。
 彼らがもし何か現状打破を模索していたとすれば、「もっと面白いことをやらないと自分の仕事の場が奪われてしまう」というような動機ではなかったでしょうか。そして、卓越した演奏が生まれれば自分も負けまいと励み、思うようにいい演奏にならなければ落ち込み悩むわけでしょう。ある程度の水準の演奏をこなせれば、演奏活動を続けることは出来たはずです。
 ミュージシャンの活動の常態は飽くまでライヴ演奏であり、アルバムへの吹き込みは、一部ミュージシャンのそうした演奏活動の中に時折挟み込まれるものであったことでしょう。
 一枚のアルバムが時代を変える、という類いの解釈は、とりわけこの時代のニューヨークでは、おそらくそれほど現実味のあるものではなかったのではないか、と思われます。ロリンズがあんな演奏をやってしまった後に、俺たちは何をすればいいのか、というような問いが本当にあったかどうかは大いに疑問だと思います。

 ただし、この時代には、バップ・ジャズの演奏をレコードで聴けるものとして世に出そうとするプロデューサーたちが何人も現れ、片面30分近い演奏が収録できるLPレコードが開発されたこともあり、 「ジャズをレコードで聴く時代」が整いつつあったことも事実です。バップの技術ではなかなかトップレベルに届かないけれども、レコードに刻む音楽の演出に抜きん出ていたマイルス・デイヴィスMiles Davisなどが寵児になる時代が来ていました。

 それはともかく、ソニー・ロリンズが「吹くのをやめてしまった」(より正確には「プロとしての演奏活動をやらなくなった/ジャズシーンから姿を消した」というべきですが)のは事実です。ただ、これがアドリブの行き詰まりに対する「個性的な解決」であったというのは話が出来すぎているというべきでしょう。
 この第二回目の引退に際してロリンズ自身が一体何を考えていたのか、ロリンズ自身余り多くを語ってはいないようです。少なくとも公表されたものとして明らかになっているものは極めて少ないようです。
 かつてまことしやかに語られたのは、次のような内容です。曰く、

ロリンズは天才的閃きで優れたアドリブを聴かせて来たが、天才ゆえに、その閃きが枯渇して行き詰まると悩む。新たな閃きの来るまで待つしかない。

岩浪洋三らの見解(要旨)

 つまり、天才が行き詰まった果てに引退してしまった、という、いかにも「芸術家神話」っぽい解釈です。
 もし、これがほんとうだとすれば、1961年のカム・バックはどのようにこの問題が解決されたのでしょうか?ロリンズに再び天才の閃きが訪れたのでしょうか?59年の演奏はロリンズのどんな創造的アイデア・天才的閃きが失われ、1961年にはどんな天才的アイデアを持ってシーンに復帰したのでしょうか?

 かつての日本では、この時期のロリンズが実際にどのようなライヴ演奏を繰り広げていたかがよくわかっていませんでした。スタジオ録音による公式アルバムだけだと、なかなか実情が掴みにくく、上記のような憶測がなされても無理からぬところがあったかも知れません。
 しかし、後年発掘されたさまざまなライヴ音源を聴くと、ことは上のように単純化できるものではないことが誰の耳にも明らかではないかと思われます。
 1970年代半ば、収録後10年を経て陽の目を見た「ゼア・ウイル・ネヴァー・ビー・アナザー・ユー」(”There Will Never Be Another You”1965年の近代美術館でのライヴ)や、「アワ・マン・イン・ジャズ」(“Our Man in Jazz”1963年)のライヴ完全盤(1997年?)、そしてとりわけ、従来海賊版でしか聴けなかった「フリーダム・ウイーバー」(“Freedom Weaver”1959年ヨーロッパ・ツアーのライヴ、公式発売は2023年)の演奏などを具さに聴くと、この頃のロリンズの動向について興味深いことがわかって来ます。それは

 ①第2次引退前の1959年の時点で、ロリンズは覇気と活気に満ちた凄まじいライヴ演奏を行なっており、演奏に行き詰まって方向性を見失っているように感じさせる要素は全く無い。ただし、ロリンズの最初の公式ライヴ録音である「ヴィレッジ・ヴァンガードの夜」(“A NIght at the Village Vanguard”1957)のライヴとはかなり指向が異なっているように聴こえる。58年頃までのロリンズのアルバムを楽しんだ人の耳には、59年〜60年代のライヴにはかつてのロリンズの魅力が失われたように聞こえるかも知れない。しかし、59年のライヴの怒涛のような様を聴くと、(それが聴くものの耳にどう響くかはさておき)ロリンズ自身がアイデアに行き詰まっているという捉え方は修正を要するのではないかと思われる。したがって、ロリンズに転機が訪れたとすれば、それは引退の前後というよりは、1958年頃であると考えるのが妥当である。
 ②「フリーダム・ウイーバー」と「アワ・マン・インジャズ」及び「ゼア・ウイル・ネヴァー・ビー・アナザー・ユー」は表情にかなりの違いが感じられるものの、ライヴ演奏に対する基本的な姿勢や方向性には共通する要素がかなり多く、そしてそれは一層徹底されて1979年の日本公演での演奏などにつながるものと思われる。すなわち、1970年代以降のロリンズ・ジャズは、1950年代のおそらく後半、1958年頃から、ジャズ・シーンや音楽市場の動向に反応しつつ徐々に持続的に発展・形成されたものと考える事ができる。

 1958年以降のジャズ・シーン

 仮に上の見方が正しいとすれば、プロ・ミュージシャンとして活動し始めてからのロリンズの最大の転機は1958年頃にあったことになります。
 この頃のロリンズに何があったでしょうか?
 実は、何かがあったのは、「ロリンズに」というよりは、「ジャズ・シーンに」というべきでしょう。

 やや詳しい考察は別の回に譲りますが、1958年以降1970年代初頭までにジャズ・シーンに現れたのは、概ね次のような事象だったと言えるでしょう。

 ①  ジョン・コルトレーンJohn Coltraneによるバップの徹底化と極端化。「シーツ・オヴ・サウンド」などと呼ばれた、コード内のあらゆる音を用い16分音符を敷き詰める高速感のある奏法と、循環コードの創出。(高速感については、例えばロリンズの1956年のアルバム「ツアー・デ・フォース」“Tour de Force”収録の“B. Quick”、“B. Swift”などの高速演奏とコルトレーンの“Giant Steps”(1958年)所収の“Count Down”を聴き比べると、コルトレーンの試みの新しさがまざまざと感じられます。)これは俗に「フレーズ」と呼ばれるものの実質的解体のような効果をもたらしています。
 ②  マイルス・デイヴィスMiles Davisによる、モード奏法の導入。
 ③  オーネット・コールマンOrnett Colemanの創始したフリー・ジャズの隆盛。
 ④  ロックの爆発的流行に伴う、大衆音楽としてのジャズの人気の相対的凋落
 ⑤  エレクトリック・キーボードやシンセサイザーなどの電子楽器やエフェクターの浸透
 ⑥  当初「クロス・オーバー・ジャズ」と呼ばれ、やがて「フュージョン」と呼ばれるようになる音楽形態の興隆。これは、ジャズ演奏全体の中での即興性の価値の相対的低下をもたらしたようにみえます。
 ⑦  ⑤⑥に伴う、サックス人気の衰退

 これらジャズ・シーンの動きと、その中でのロリンズの活動状況とその意義については別の回に譲りますが、ロリンズの音色という点に焦点を絞ると、特に④〜⑦は決定的なものだったように思われます。 

 ①〜③に関しては、ロリンズは自らの音楽観に基づき時代の潮流への共感的対応と独自の批評とを展開しました。サックスの音色という点に関しては、60年代の演奏の中には、50年代よりも音色が明るく聞こえるものが多くなり(この点はコルトレーンの展開と好対照を成しているように思います)、さらに時期によっては、50年代の如何にも木管楽器らしい柔らかい音色から、少し硬い金属的な響きを帯びたものが現れたりします。そして、60年代を通して、徐々にロリンズの音楽感覚や音楽観が時代との相剋を強いられると同時に、その音色と奏法との関係が(奏者ロリンズ自身以上に聴衆の側に)限界のあるもののように感じられ始めたのではないでしょうか。

 尤も、これは独りロリンズに限った問題ではなかったと言えます。
 フリー・ジャズはその音楽的革新性と一種の原始性指向でサックスという楽器の魅力の一面を増幅して聴こえさせてはいました。しかし、フリー・ジャズの最強牽引者にして精神的支柱となっていたコルトレーンが1967年に死去し、またフリー・ジャズ界に現れた風雲児でそのサックス・サウンド自体が衝撃的であったアルバート・アイラーAlbert Aylerの変死体が1970年にイースト・リヴァーに浮かんだ頃には、フリージャズの本質上からもその行方が見定め難くならざるを得ません。フリー・ジャズの理念の必然的展開としての集団的即興演奏コレクティヴ・インプロヴィゼーションと呼ばれたようです)の現場に参入し、存分に楽器を奏でること、それは確かに従来の音楽の演奏や鑑賞には無かった時間の体験だったことでしょう。が、そこで楽器を演奏している当事者以外にとっては、その音場に渦巻く耳を聾する轟音に晒される時間は、例えばたくさんの子供たちが大喚声を上げながら無秩序に走り回って騒いでいる現場にいることと何が異なることになるでしょうか?(「フリージャズ」と一般には呼ばれてはいませんが、60年代末期頃のマイルス・デイヴィスのバンドでピアノを担当していた1人であるキース・ジャレットKeith Jarrettは後年、「ライヴでは、あのバンドの他のメンバーがどんな演奏をしているのかほとんどわからなかった」と述懐しています。)
 上記④⑤⑥の動き、とりわけ⑥に聴かれる洗練された「おしゃれな」音楽が現れてくる中で、次第に管楽器自体が時代遅れの野暮ったい楽器のように感じられてきて、1970年代に入る頃には⑦のような潮流がジャズ界に漂います。サックスでのアドリブ・ソロというものが何か時代遅れの時間を再現しているような印象を与え始めたように思われます。
 大衆音楽全般に進出し始めた電子音の跳梁に最も強烈な打撃を受けたのは管楽器だったでしょう。エレクトリック・ギター旋風の吹き荒れるロックの時代の到来に、マイルス・デイヴィスもワウワウペダルというエフェクターを用いて既存のトランペット・サウンドからの脱皮を図ります。

再々出発 1970年代のロリンズ

 「ネクスト・アルバム」の特徴

 1969年に3度目の引退をしたロリンズは、1971年にオリン・キープニュースOrrin Keepnewsのマイルストーン・レーベルとの専属契約を結んでジャズ・シーンに復帰します。シーン復活の記念すべきアルバム「ネクスト・アルバム」“Sonny Rollins’ Next Album”で、ロリンズが聴かせたジャズは、ここまでのジャズ史と当時のジャズ状況とに対して、ロリンズ自身が何を意識したかをよく示してくれるものでした。
 そのアルバムの特徴を列挙すると次のようなことになるでしょうか。

 (1)まず最大の注目点は、何と言っても管楽器的メロディーへの回帰とも言うべき姿勢です。アルバム冒頭のロリンズ作「プレイン・イン・ザ・ヤード」“Playin’ in the Yard”は、往年の人気曲「アルフィーのテーマ」”Alfie’s Theme”などに通底する、人懐こく親しみやすく温かい、おおらかなメロディーの曲で、これぞロリンズ、と思わせます。それは、あたかもフリー・ジャズもロックもクロスオーバーも知らないかのような、古き良きジャズの時代をそのまま持って来た、いやしかし冷静に思い返してみると古き良き時代すら誰も思い描けなかったほどの、素朴で朗々たる曲で、一聴、時代を間違えているのではないかと思われるほど牧歌的性格のメロディーといえます。また、同じくロリンズ作のカリプソ曲「ジ・エヴリホエア・カリプソ」“The Everywhere Calipso”のトラックも、本当にリラックスして楽しめる曲想です。メロディーという問題については、後でやや詳しく見たいと思います。
 (2)従来演奏して来なかった、ソプラノ・サックスの吹奏によるトラックの登場。(「ポインシアナ」“Poinciana”) これはもちろん、コルトレーンの影響で、ロリンズ自身がそう表明しています。
 そもそもソプラノ・サックスは、シドニー・べシェSydney Bechetが1920年代に演奏して以来ジャズではほとんど用いられなかった楽器で、コルトレーンが1960年にアルバム「マイ・フェイヴァリット・シングス」“My Favorite Things”のタイトル曲で吹いた時には、どんな楽器を吹いているのかミュージシャン達にもよくわからなかった、というエピソードが残っています。コルトレーンの演奏によってその魅力が再発見され、以後多くのミュージシャンに珍重されたのですが、ロリンズ自身は第3回の引退まで吹いていません。
 (3)ピアニストのジョージ・ケイブルスGeorge Cablesが冒頭2曲でエレクトリック・ピアノを、ベーシストのボブ・クランショウBob Cranshowがエレクトリック・ベースを弾いており、ロリンズが電子ピアノを導入した演奏の最初の記録になっている。(収録5曲中、3曲はアコースティック・ピアノ)
 (4)ドラムス(トラックによりジャック・ディジョネットJack De Johnetteかデヴィッド・リーDavid Lee)のほかに、2曲でアーサー・ジェンキンスArthur Jenkinsによるパーカッションを加えている。(ロリンズのパーカッション導入は60年代から例がある。)

 時代の変化とロリンズの対応

 上記(2)・(3)・(4)は、ロリンズが三度の引退後の再々出発に当たって、ジャズの新傾向に必ずしも全面的な嫌悪や批判を示していないことがわかるでしょう。この点は、ロリンズを評価する人たちの中でも、この後大きく支持/不支持が別れるところになります。

 そもそも、ジャズのあり方が変化すること自体に対して、その都度、肯定的な見方と批判的な見方の両方が付き纏います。そして、この対立は、往々にして、一方が他方の存在を認めない、というように先鋭なものになります。
 批判されようが歓迎されようが、ディキシーランドの時代から、ジャズは常に変化して来ました。変化する前のジャズが固有の価値を持っていたことは、それが支持されていたことで明らかで、それが失われることを惜しむ人がいるのも世の常です。そして、変化以前のままのジャズの素晴らしさをとことん味わいたい、という人々の存在が、今日なおニューオーリンズ・スタイルのジャズを演奏するバンドが存在する理由でしょう。
 一方で、既存のスタイルの少なくとも一部を革新するような演奏をするミュージシャンが現れると、これを喝采する人が現れます。なぜでしょうか。
 あまりに当たり前のことですが、音楽の革新という現象は、音楽活動の中から出て来ます。ミュージシャンが、もっとここをこういうふうにしたい、とか、いっそこんなことをやってみたらどうか、などと思う時、そこには、現在ある音楽を楽しみつつも、いや、それを楽しんでいるからこそ、もっと音楽の楽しさを極めようとしたり、あるいは音楽に没頭する中でつい自分の面白いと思う方向へ少しはみ出した時にその面白さに驚いたりすることがあるかもしれません。

 変化の一例;スキャット

 大変わかりやすい例で言うと、ルイ・アームストロングLouis Armstrongがステージ上で歌っていた時、歌詞を忘れて「シュビダバダ」のように出鱈目に音声を出したら喝采を浴びた、という伝説があります。その時にスキャットで歌う面白さと自由さが発見され、以来歌唱上の技法として発展していく、というような例があります。仮にこの伝説が事実であるとすると、ここで大切なのは、歌手が現場で音楽の醍醐味を損ねないために咄嗟に行ったスキャットの面白さを聴衆が感じ取れたことです。もし、歌手が常に歌詞を歌わなくてはいけないという制約があれば、ヴォーカリストはソロの際に器楽奏者のようなアドリブを繰り広げることは困難でしょう。歌詞を歌う必要がなければほとんど無限に近くアドリブの可能性が広がることになります。この時以降、ジャズの(そしてソロを許される全ての)歌手たちは、首尾一貫して歌詞を歌ってもいいし、ところどころ歌詞から離れてスキャットを入れてもいいし、考えてみると最初から全部スキャットで歌ってもいいことになりました。この時、スキャットで歌う部分がつまらなければ、まともに歌詞を歌う方がずっといいことになります。しかし、歌詞を歌ってもいいけれども、スキャットが表現の範囲を広げて歌詞では出せない価値を実現することができれば、スキャットをやれる方が断然豊かな表現力を持つことになります。

 ロリンズの姿勢

 スキャットの例はわかり易い例ですが、あらゆるジャズの歴史的変化が、本質的には似たようなものだと言えるのではないでしょうか。こうすればジャズがもっと面白くなる、と感じてミュージシャンが実践してみることが、聴衆も面白いと感じられる演奏になっても不思議ではないでしょう。
 ただし、音楽は時間に則って展開する一次元の芸術です。何かを実行すればそれと異なることは同時にはやれません。1人の歌手が、スキャットで歌いつつ歌詞を歌う、ということはできません。当たり前のことですが、ミュージシャンは演奏の現場で常に何かを選択しているわけですが、この時、裏を返せば常に何かを捨てていることになります。

 何か新しい技法なり奏法なりを見出した奏者は、それが面白いとか魅力があるとか(または支持を得て人気なり儲けなりに繋がりそうだとか)感じるからこそそれを演奏に採り入れますが、それを採り入れている瞬間は、以前の奏法の全き再現はできません。このとき、新たに切り開かれる表現世界に喝采する心理と、捨てられた表現世界を惜しむ心理の両方が生じても不思議ではないかも知れません。

 ソニー・ロリンズというミュージシャンの顕著な特質の一つに、こうした新しい表現への独特な姿勢があります。
 このミュージシャンは、ひとりの表現者としてもひとりの音楽愛好家としても、新しく拓かれた奏法や技法、またそれを編み出したり取り入れたりするミュージシャンに対して、基本的には理解を示し共感を惜しまない、と言っていいかと思います。(「ジャズのスタイルブック」の著者マーク・C・グリッドリーは、ロリンズの美点を「排他的でなかったことです」と述べています。)
 典型的と言える一例は、オーネット・コールマンの始めたフリー・ジャズに対するロリンズの姿勢でしょう。
 実際の彼の立場に立ってみれば、バップの奏法はもうほとんど極めてしまっています。そこでやれる限りの範囲内でなら、究極の演奏をする自信があります。しかし、もし、コードの制約を離れてアドリブ演奏が成立可能なものであるなら、もっと面白いアドリブがやれるかもしれません。バップの発生現場に立ち会って新しい奏法の開拓を経験し、コルトレーンのアドリブ変革を目の当たりにし、さらにマイルスのモード奏法を横目に見たロリンズは、オーネットの演奏を聴いて新しい奏法の可能性を感じ取ったでしょう。彼は第二次引退中にオーネットの演奏会場に何度も実際に足を運んでフリージャズの可能性を考えます。

 バップ・ミュージシャンの中には、オーネットの音楽に批判的な人も多かったようです。批判的な言説を吐くメンバーに対して、マイルス・デイヴィスは“I like Ornett, because he doesn’t play cliche”と言ったそうです。そしてやがて、モード奏法という用語の範囲だけでは捉えられない新しいグループ表現へ突入して行きます。
 コルトレーンは、おそらくフリー・ジャズの意義と魅力を視野に置きながら自分のジャズを模索し、ついに自身フリーの中に身を投じて行きます。
 この時点以降ジャズ・シーンを牽引する二人が共にフリー・ジャズを排斥しなかったことは、フリー・ジャズの出現がこれらの管楽器奏者にとっては決して他人事ではなかったことを物語るでしょう。

 フリーに対するロリンズの態度

 バップ手法が手詰まりに見えて来た時代に、コルトレーンやマイルスのそれぞれのアドリブ手法の開拓と、とりわけそこからひらけた、音楽経験の意義そのものを変質させてしまうようなコルトレーンの試みを目の当たりにしていたロリンズは、シーンから退いて自身のサックスの奏法を模索する中で、オーネット出現の価値とフリー・ジャズの可能性とを大いに感じ取ったようです。しばしば言われることですが、オーネットの相棒というべきドン・チェリーとライヴで共演を果たすことにもなります。(ライヴ・アルバム「アワ・マン・イン・ジャズ」“Our Man in Jazz”1963、RCA   所収)それどころか、時を経て(2010年)自らの誕生日記念コンサートで、オーネットとの感動のライヴをさえ実現します。
 しかし、ここがロリンズの重要な点ですが、彼はフリー・ジャズに出会ってその意義をきちんと認め、これを自身の演奏に反映することはあっても、自らがそこに完全に身を投じることはしませんでした。(この点が、やがてコルトレーンとの大きな違いになります。)
 何故そうしなかったかについて、彼自身は語ってはいないようです。

 考えられる一つの理由は、共演者との相互交流の問題があったかも知れません。57年にはピアノレス・トリオというフォーマットを発明して今日から見ても優れた音楽的達成を成し遂げたロリンズでしたが、ピアノやギターのようなメロディーやコードを弾く楽器が(演奏全体の音色という観点からも、また旋律の「強度」の観点からも)あって欲しい場合、そのコード楽器とどう楽音を調えるか、という問題が当然生じます。忘れてはいけないことですが、フリーという手法は音楽でできる経験をより広げようとする時に見出されるものであって、それがしばしば既存の音楽の制度や因習の問題点を暴露する結果になることはあっても、音楽を不快にするために挑まれるものではありません。演奏者同士が勝手に(フリーに)音を出せばかつてないさまざまな発見があるかもしれません。しかし、それを以て、より意義深い音楽経験が保証されるかと言えば、それはもちろん難しいでしょう。音楽が(たとえ理想形のようなものが想定されていなくとも)聴かれて得難い経験になるためには、複数楽器奏者の間に何らかの共演指針の類が必要になるでしょう。
 コードにもモードにも依存しないとすれば、その音楽がうるさいだけの不快な騒音にならず、より価値のある音楽経験を、他の奏者なり聴き手なりとどうやって共有するか。その問題がどうしても避けては通れないことをロリンズは自覚したのかも知れません。
 演奏に参加しているメンバーが各自の表現意図を自由に反映できることは、実はロリンズにとって非常に重要なことだったようです。
 1990年頃に彼はインタビューでマイルスの音楽について尋ねられて、「バンドのメンバーを束縛しているようなところがあって、その点ではコルトレーンのバンドと同じようなものを感じるんだ。しかし、ともあれ彼らは自分のやりたいことをやったんだ。それについてとやかく言う必要はないよ。」と答えていました。この発言には、コルトレーンやマイルスが自分の音楽を実現するためにバンドのメンバーへの要求なり指示なりを強めて拘束して行った姿勢に関して、ロリンズ自身はそのようないわば独裁的な音楽体制を取ろうとは思わないこと、しかしながら彼らの音楽活動を否定するつもりは無いことが表明されていると言えます。
 また、「フリーダム・ウイーバー」での共演者の談話を読むと、はじめて共演する異国の初対面のメンバーとも、練習やリハーサルはもちろん、打ち合わせらしきものすら一切無しでいきなり本番演奏に入っているようです。ということは、メンバーは互いに共演者の演奏を聴きながら自由に臨機応変に演奏してくれればいい、ということでしょう。1970年代には、「優れたミュージシャンというのは誰とでも共演できるんだよ。」とも発言しています。こういった発言や事態を見ると、共演者同士は、他の共演者の束縛を受けることなしに自由に自分のアイデアを実践するのが最も良い音楽のあり方だ、というのがロリンズの確固たる音楽観であるように見えます。ロリンズの演奏を聴くと、グループ表現としての音楽を聴いている感じがほとんどしないのですが、それはこうした音楽観の反映であると言えそうです。
 ロリンズにとって、音楽はあくまでも奏者ひとりひとりの感性の営みであり、それがほんとうに生かされるために複数のミュージシャンたちが一緒に演奏するのだ、ということのようです。(これは、さまざまなジャズのライヴ演奏を聴くと、単にロリンズの見解であるだけではなく、ジャズの感動的なライヴではほとんど例外無く成り立っている現実そのものであるように感じられます。筆者の考えるジャズ・ファンは、見事に統制の取れた一糸乱れぬ集団の、譜面通りの非の打ちどころのない演奏に陶酔する聴き手ではなく、むしろそのような演奏を窮屈で退屈だと感じ、メンバーひとりひとりが勝手に乱れたり崩れたりしながら好き勝手に素晴らしい音楽を披露しまくる演奏に喝采する聴き手です。)
 だからこそ、メンバーの誰もが自由に演奏できるために、それを可能にする土壌が必要なのでしょう。フリーな演奏では、往々にして個々の演奏者の自由な演奏が互いに他の演奏を妨げることでかえってその自由が負の価値を生じてしまうことが避けられないように思われます。

 さらに、バップの中でアドリブを磨いたロリンズにとっては、コードを取り払ってしまうとソロの拠って立つ基盤が失われる、という問題があったかも知れません。
 ジャズ・ミュージシャンがソロで即興演奏をするのは、その瞬間瞬間に白紙状態から新しい曲を作曲しているなどということではなく、使用可能な音符の制約に則って自分の身につけた奏法で演奏することです。
 もし、「用いる音には一切の制限を設けないから、どんな音でも思うがままに演奏しなさい」、と言われたら、「思うがまま」の演奏はできるものでしょうか。もし、わたしにありとあらゆる技法が具わっていて、ありとあらゆることを思う能力があるとして、いったいわたしはどんな演奏をすればよいでしょうか?なんでもできる、ということは、何をすればよいかがわかる、ということを意味しません
 鉛筆を手渡されて、「この紙に、どんな言語をどんなふうに使ってもいいですから、何でも自由にあなたの思うことを書いてください」と言われて、即座にスラスラと文章が書ける人を筆者は尊敬します。大抵の人は、「何でも自由に」といきなり言われても、何をどう書いたらいいかわからないでしょう。しかし、同じように鉛筆を手渡されて「ちょっと今の気分を短歌にしてみてください」と言われると、取り組みやすさはまるで違うのではないでしょうか。「何だって?短歌を詠めと?このオレに?そんなことして何になるのだと、はい、これで五七五七七になったよね、これでいいかな?と笑。自由に言葉を、と求められた場合の困惑にとって、制約の有無はこれだけの差を生みます。「思うがままに表現する」と言うとき、そのわたしたちの思い方は、表現媒体や表現技法に沿って展開されます。即ち、制約の全く無い表現活動は難しく、とりわけ、表現としての価値を発揮する表現活動は難しいのです。
 ロリンズは1950年代から既に制限を少なくした演奏をさまざまに試みていますが(ピアノレス・トリオや無伴奏ソロなど)、フリーという体制は、実は自由にのびのびと演奏させてくれる体制ではない、とりわけ聴く人が音楽を享受する喜びを味わえる体制ではない、と判断したのかも知れません。

 さらに、フリー・ジャズに没入しきれない理由がもうひとつあったかも知れません。それは、フリー・ジャズの原理的矛盾とでもいうべきものでしょうか。
 そもそもフリー・ジャズが出現してくる理由は、コードに基づくアドリブが類型的なものになりがちだからでした。その類型を脱しようとすることは、従来の音楽の様々な約束や紋切り型の叙情性を断ち切り、制限の無い「自由な」演奏を目指すことです。(これは、とりわけキリスト教文化に雁字搦めにされたヨーロッパ文化圏において、制度からの解放という大きなテーマに重なる活動と見えたことでしょう。フリー・ジャズがヨーロッパで熱狂的支持を集めたのは、アメリカにおいては人種差別からの黒人の解放という社会運動と重ねて解釈される側面があったのに対し、そうしたヨーロッパ的人権観・平等観に適った運動を支持する喜びに加え、自分たちを抑圧している制度からの解放の実体的運動として従来の音楽を破壊する喜びがあったのではないでしょうか。)
 しかし、フリーがそういう「制度破壊運動」として理解されると、従来の音楽が実践してきた様々な音楽の魅力をフリーが呈示することは、一種の妥協や後退にしか見えない、という問題が生じます。(この問題は文学では詩の場合に顕著になります。ひとたび文脈破壊的な詩を読んでしまうと、かつてのようにすらすら意味を辿れる詩は詩に見えなくなる危険があります。)
 これは実は由々しき問題で、フリーはその発生当初から、従来の音楽が実現してきた音楽の喜びを提供することが禁じられているという矛盾を背負ってしまいました。従来の音楽からずれたりそれたり外れたりしているから面白いその音楽は、音楽がこれまでにもたらしてきた魅力や喜びを避けたところでの成立を強いられます。必然的に、フリー・ジャズは意外に窮屈な、おもしろみの無い音楽になりがちです。
 おそらく、ソニー・ロリンズがフリーに馴染みきれなかったのはこの点ではないかと筆者は推測します。フリーの嵐が吹き荒れている60年代に、「音楽はもっと面白いものだろう」とロリンズは一貫して主張し、従来の音楽が持っている可能性を思い出させようとしているように見えます。
 新しい音楽的ムーヴメントが現れると、その価値をいち早く感じ取る能力に秀でたロリンズは、しかし同時にそれによって失われるものに敏感なミュージシャンでもありました。60年代のロリンズの苦闘と模索は、実は日本で多くの詩人たちが経験したものと極めてよく照応しているように筆者には見えますが、これは本稿での趣旨から外れます。

「ネクスト・アルバム」での再々登場


 メロディーの復権

 1960年代についてはいずれ詳細な考察が必要ですが、とりあえず1970年代、アルバムとしては「ネクスト・アルバム」を以てジャズシーンに復帰したロリンズは、先に挙げたフリージャズやロックやフュージョン(当時の呼び方では「クロスオーバー・ジャズ」)に対して、はっきりした批評意識を示す音楽を提示しました。
 そこでロリンズが呈示したのは、何よりもまず、驚くほど素朴なメロディーでした。それはロリンズ以外からは決して生まれないと思われるような、一種の温もりを感じさせる、あえて言えば一種田舎っぽいメロディーです。(このアルバム収録の“Playin’ in the Yard”を聴くとき、筆者はロリンズがニューヨークに生まれ育った都会人なのを完全に忘れてしまいます。そこには視野を人工物に遮られることのない、植物と大地と海や空の広大な空間がひらけているように感じられるのです。ソプラノ・サックスによる「ポインシアナ」“Poinciana”になるとアフリカのサバンナに立っている気分です。)とりわけ注目すべきは、アルバム劈頭の“Playin’ in the Yard”というトラックが、時代のあらゆる商業音楽市場に溢れるどの音楽とも似ていないことです。そして、その「似ていなさ」は、これまで誰も聴いたことが無いような、独創性の煌めきを感じさせる、ということではありません。逆に、誰もがいつかどこかで聞いたことがあるかもしれないと感じるような、ほとんど懐かしいほどの不思議な素朴さを湛えたもので、これが時代の大衆的音楽と似ていないのは、市場で勝ち抜くために新しさに鎬を削るミュージシャンたちが今さらこんな時代錯誤的な音楽を世に問うことが無いからに他なりません。ここにロリンズは当時の音楽市場を賑わしていた大衆音楽のあり方への批評を込めているように見えます。

 フリー・ジャズが出現したことの象徴的意味は、今や大衆音楽はなんでもできる時代に入った、ということでしょう。そしてこの時期からまさにありとあらゆる音楽的模索が市場を賑わすようになります。フュージョンは、ロックの様式が複雑化されジャズの形態的特徴が洗練された、優れた音響機器を通して享受されることを前提とする一種の成熟し整った音楽でしょうが、これは過去のクラシック音楽をはじめとする音楽遺産の精髄を遺憾無く取り込んでジャズの様式を高級化したと言えるでしょう。一方には「高級化」されることを徹底的に拒む、ほとんど「粗暴さの音楽的表現」を磨いて行くとも見紛うようなロックの隆盛があります。フュージョンとロックはエレクトリック・キーボードやエレクトリック・ギターのアンプリファイされた鮮烈強烈な電子音で、もはやわたしたちの生活空間にリアルに響くのは商品化された音響でしかないことをいやが上にも強調します。(作家デビューして間も無い頃の村上龍が、「アンプを通せば何万人もの人を一度に感動させられるのに、今どきアコースティックに拘るというのはどうかしている」という趣旨の発言をしていました。)
 どこを切り取って見ても、ソニー・ロリンズの音楽が必要な局面は無いように見えます。そのような時代に、ロリンズは三度目のジャズシーン復帰を果たします。彼の胸中にあったのはどんな思いでしょうか。
 音楽業績上はバップシーンをリードし、個々の演奏場面にあっては自分の美学を届けるよりもひとりひとりの聴衆の孤独に配慮し、自らの孤独の音色をバップの様式に乗せて聴衆に届けたロリンズは、もはや商業音楽にとって存在価値がないもののように見えたことでしょう。
 このような時に、ロリンズは音楽シーンへの復帰にあたってどんなことを考えていたでしょうか。そう、どんなことを「考えた」かが大切です。ロリンズの経験と人脈と楽器演奏技術と知名度をもってすれば、やろうと思えばさまざまなことができるでしょう。そこで何をどんなふうにするかを決めるものは、「考え」すなわち思想です。(1985年頃、来日を前にしたインタビューで、ロリンズは「ダイレクションが決まらないんだ」と述懐したとのことです。)

 “Playin’ in the Yard”は、ロリンズが「原点に戻った」かのように聞こえます。しかし、原点に戻る、とはどのようなことでしょうか?原点は、「戻る」ものでしょうか?
 先に述べたように、”Playin’ in the Yard”のメロディーは、実は1950年代にロリンズが朗々と(または訥々と)歌い上げた類のメロディーとは少し異なります。それは、まだ音楽を知るか知らないかの幼い子供が、ひとり野道を歩いている時に何気なく口をついて出る類の、または海辺に遊ぶ子供が波に戯れながら思わず口ずさむような、素朴でシンプルなメロディーだと言えます。ロリンズはこのメロディーを果たして「作曲」したのでしょうか。騒然たる、とも形容できそうな音楽環境からはぐれた子供が、空と海や大地の間にひとり波や草木に親しんでいる時に何気なく口の端にのぼる旋律、そのような旋律に心を虚しくして耳を傾けたロリンズが、込み上げ湧き上がる素朴で単純なメロディーを、その単純さを損なわないように拾い掬い上げたメロディーなのではないか、と筆者は感じます。
 なぜロリンズはそんなことをしたのでしょうか?
 筆者の仮説ですが、ロリンズは当時の様々な大衆音楽の動向に、一種の「音楽の危機」のようなものを感じたのではないでしょうか。
 何でもできる時代に、何でも我先にやってみる「やった者勝ち」のような音楽市場で、かつてロリンズが大切にした演奏者と聴き手との独特の交流が難しい時代が来ていました。
 どうしたらスターになれるかと躍起のミュージシャンたちの音楽市場、どうしたら多くの聴き手を獲得できるかの工夫に熱中しているように見える大衆音楽・商業音楽の発し手たちの音楽業界、音楽という当然の前提から、工夫を凝らして量産される、独自性を競う「手段としての音楽」の氾濫の中で、自分が楽しんでいた音楽そのものの出現・発生・発動の喜びは宙に迷っていないだろうか、とロリンズは考えたのではないでしょうか。考えてみると、サックスを構えた時、何も無い音楽ゼロの今ここに、自分の吹く一音で音楽世界が立ち上がる、その喜びが「ジャズに恋した」所以ではなかったか、と。そして、そのような音に、屈託した自分の思いが丸ごと掬い上げられ解き放たれるような喜びを味わったのが音楽ファンではなかったか、と。

 もしかすると、かつてハード・バップで一世を風靡したロリンズは、実は「多数者」に向けて音楽を奏でていたわけではなかったのかもしれません。(70年代初め頃まで、ロリンズは大ホールで公演を聴いてもあまりおもしろくない、という評が少なくなかったようです。)
 「ソニー・ロリンズの思想実践」と題したここまでの本稿の内容を振り返ると、ロリンズは絶えず「ひとりひとり」に向けて演奏していたのであり、「音楽の聴衆」をmassとして捉えてはいなかったのかもしれない、と思えて来ます。子供の頃に、ジャズクラブの戸口に立って、中から漏れてくるコールマン・ホーキンスのサックスの音に心を奪われ「これは何だ、何なんだ」と呟いていた時、それは「ひとり」の子の内面の経験でした。自分の楽器を手に入れてから、日に何時間でも「押し入れの中で」?延々とサックスの練習をしていた時、それはひとりの「sonny(坊や)」だけの完全にパーソナルな経験でした。わたしたちに了解可能な音楽の経験は、「我々」のものではなく、「わたし」のものです。サックスを吹くことが好きで好きでたまらないひとりのミュージシャンが、ジャズが好きで好きでたまらないひとりひとりの孤独な聴き手に音楽を届けるのです。どうして「いい音」を出さずにいられるでしょう。どうして「すごい音」を出さずにいられるでしょう。
 筆者が“You Don’t Know What Love Is”の音の流れに身を晒されて、「生きていていいんだ」という肯定の励ましを幻聴したように、その場に何人の「聴衆」がいようと、奏者と聴き手は演奏を媒介に一対一で交流します。
 だからこそロリンズは、音楽を聞き手との関わり方への配慮として演奏します。聴き手が自分より恵まれた生活をしていると考える理由、そして聴き手が自分より貧しい音楽しか持たないと考える根拠は、どこにもありません。おそらくロリンズにとって、音楽に癒され音楽に救われ音楽に勇気づけられなくてはならないという点で、音楽において「等しく誰もが、それぞれ独自に孤独」なのです。歌手がシャウトするだけで全会場に興奮と区別のつかない連帯が現出する音楽に陶酔できる人に、奏者ひとりひとりのアドリブが軸であるジャズは要りません。メンバーがきちんと呼吸を合わせ一糸乱れず譜面通りの綺麗な音楽を奏でてみせるバンドに喝采する人々に、ジャズは要らない、とロリンズは考えるでしょう。聴き手がひとりひとりであるように、奏者もひとりひとりです。(そのことをフリー・ジャズは鮮烈に思い知らせてくれたと言えます。)

 1971年という時点で、ジャズの強固な地盤に足をしっかりと置き、ひとりの孤独な奏者が奏でて、ひとりの孤独な聴き手と対話し交流する音楽、そういう音楽が不可能な時代が来ているように、おそらくロリンズには見えました。ひとりひとりのわたしたちの共有できる音楽の根本は何か。それは集団からはぐれてひとりでいるときにふとわたしたちに立ち上がる、懐かしくも人恋しいようなメロディーではないのか。そのようなメロディーを、立ち上がる時の初々しさもろともに奏でることが、今ミュージシャンのやるべきことではないのか。
 かくて、ロリンズは静かなひとりの時間の中から湧き上がる“Playin’ in the Yard“という曲を、ありったけの慈しみを込めて切々朗々と吹きます。
 そこに聴かれるサックスの音色は、まさに音が出ていることそのものを喜ぶような、それゆえにこの上なくアコースティックな響きです。サクソフォンという楽器が、削られた葦の薄片を振動させて音を出す楽器であることを、このトラックはヴィヴィッドに感じさせます。(筆者の知るあるロリンズファンは、このような音を聞くと「うーん、竹べらが振動してる、って感じがするなあ」と言います。竹べら、と言うのは葦の薄片であるリードを身近な言葉で表してみたものです。)それは、アコースティック楽器としての木管楽器の魅力をしたたかに発信した1950年代のロリンズの音よりもさらに素朴さを磨き込んだ(と言えばほとんど矛盾した形容になりますが)、それゆえ聞き様によっては、純粋な、あるいはナイーヴな音色に聞こえることでしょう。
 この音色は、ロリンズの演奏としてはこれが最後の木管の音だと言ってもいいでしょう。以後、彼のサックスの音はここへ戻ることはありませんでした。

ソプラノの音色

 なお、「ネクスト・アルバム」については、“The Everywhere Calipso”(ロリンズ作)の音色と、“Poinsiana”のソプラノ・サックスの音色を聞き落とすわけにはいきません。前者は“PLayin’ in the Yrad”よりもさらに「竹べら」感横溢で、50年代で言えばアルバム“Work Time”や“Way Out West”の音色をさらに幽寂度を上げたもの、とでも言いましょうか。後者のソプラノ・サックスに関しては、どうしてもコルトレーンのそれと比較したくなりますが。コルトレーンの方は音が鋭く引き締まって揺るぎない音の印象なのに対し、ロリンズのソプラノはもっと木管らしく抜けがよくて、風に流れて漂うような丸みと軽さのある音と言えるかと思います。このトラックを聴いて、「アフリカの風が吹いている」という感想を述べた人もいました。おそらくサバンナの風でしょう。

テクノロジーと木管


 木管とテクノロジーの矛盾

 さて、「ネクスト・アルバム」のその音色ですが、筆者はこのアルバムを聴く度に不思議な印象を拭えません。
 ロリンズのサックスの音は極めてピュアな木管の音でなんとも懐かしく愛おしく感じられるのですが、しかし、アルバムの音としては不思議な違和感が拭えないのです。その違和感の所以は、音楽に蒙い筆者にも容易に感じ取れるものでした。
 もしこの音色が、50年代のプレスティッジ・レーベルのLPレコードから聴こえれば、おそらく何の違和感も覚えず感動するでしょう。50年代プレスティッジというのは、いわば音質は二の次三の次といった粗製濫造的体制で新進ミュージシャンたちに片っ端からレコーディングをさせていたようですが、それでも数々の名盤を世に出しています。(ブルーノート・レーベルの名録音技師として令名を馳せたルディ・バン・ゲルダーは、プレスティッジの録音も多数行いましたが、両レーベルの音はとても同一人物の仕事とは思えないほど異なっていました。)
 その50年代プレスティッジレーベルであれば違和感なく楽しめる音色が、録音技術の格段に進んだはずの72年のレコードだと違和感が出る、というのはどういうことでしょうか?
 実は、その進んだレコーディング技術こそがまさに問題なのです。マイルストーン・レーベルのLPレコードで聴く「ネクスト・アルバム」は、これが如何に高度で複雑な高級機材を通して収録されたトラックであるかを、否応なしに感じさせます。リードの振動による素朴な音色が耳に届くまでに、重厚なケーブルで接続された最新の高価な機器がフル稼働しているのが感じ取れてしまいます。そしてその音がとてつもない高性能再生装置の特大スピーカーから出て来ると、リードの振動の繊細さが再現されればされるほど、その再現を可能にしている録音・再生機材の重厚さが聞こえてしまうのです。矢沢永吉がデビューしたての頃に「近所のたばこ屋へフェラーリに乗って煙草を買いに行くような生活がしたい」と言ったそうですが、まさに近所のコンビニへおでんを買いに行くためにレーシング・カーのエンジン爆音を轟かせているようなちぐはぐ感があります。
 これが、1970年代のサックスの音色の置かれた環境でした。時代の技術は妥協を許さぬスポーツカーになっていました。ロリンズの一種純朴な聴衆愛と音楽愛から希求された竹べらサックスの音は、音響技術にとって既に時代錯誤に聞こえるところに来ていました。(もっとも、こうしたことは、当時なら進んだ音響技術のせいと考えられたでしょうが、さらに技術が進むと、アコースティックな音の繊細さをきちんと反映するような方向へ技術が軌道修正されてゆきます。今日の最新技術が「ネクスト・アルバム」の録音に適用されていたなら、おそらく同じ演奏がかなり異なった音響を生み出していたように思われます。)

 先端サウンドからの落ちこぼれ

 さらに、時代の環境は音響技術問題にとどまりませんでした。コルトレーンが世を去りアルバート・アイラーの変死体がイースト・リバーに浮かび、エレキ・ギターの炸けるロックが若者を熱狂させ、やがて電子音を駆使したフュージョン・ミュージックが様式としては洗練され音色としては色彩も華やかな音楽を市場に振り撒くようになります。このような音楽状況の中で、50年代よりも一層50年代的なサックスの音は、もはや50年代と同じようには聞こえなくなります。かつてはその音色に気付きさえせずに奏者のアドリブを楽しめたサックスの音が、時代遅れの古びた音に聞こえてしまい、時代遅れに聞こえないよう全体を構成すると今度はその音楽全体が時代遅れにしか聞こえないという時代が来ていました。
 かくて、フュージョンの時代に入ると、木管の素朴さではなく金管的な硬質でタイトな音色のサックスが流行します。

 そのことを誰よりも危機感をもって感じ取っていたのはロリンズ自身だったのではないでしょうか。
 彼は、10代の頃からジャズに惚れ込み(“Fallin in Love with Jazz”というアルバムを後に出します)、サックスに惚れ込んで(“I fell in love with the instrument”と、アルバム“Love at First Sight”のジャケットに記します)、サックスを吹いてジャズを演奏することにほとんど使命感のようなものを持っています。自分の音楽を届ける必要のある人が今もいる、と考えています。しかし、自分の音楽を必要とする人に、時代は彼のサックスの音を届けてはくれなくなっているように見えます。50年代、60年代のように吹いても、時代の耳は彼のサックスの音をかつてのようには聞いてくれなくなりつつあります。しかも、今や人々の耳に届く様々な音は、自分がサックスで届けられる音楽とは別物で、人を単に消費に押し流す作用しかもたらさないように見えます。
 もし、自分の演奏がもはや孤独な人の役に立たないものなら、演奏などしなければいいのでしょう。しかし、彼には、サックスの演奏を通してしか人の心に語りかけられないものがある、と思えてなりません。自分のサックス演奏でしか成立しない対話や交流があり、それが生きる上での支えになる人々がある、と思えるのです。
 ここで、ロリンズに迫ってくる課題があります。

テナー・サックスは現代の楽器たりうるか?

 これがその課題です。
 多様に展開する時代の大衆音楽状況の中で、テナー・サックスというのは、この時代の耳に、孤独の価値としての音楽をリアリティーを込めて届けるだけの発信力を持つことが可能だろうか、という問題です。
 もし、テナー・サックスだけが実現しうる音楽的価値というものがあるなら、この楽器の音が時代の楽器たり得なくなるときは、サックスの価値は存立不可能になります。そうなればもう自分がジャズシーンにいる意味は無くなります。
 おそらく、70年代にシーンに復帰して来た時、ロリンズは明瞭にこの課題に向き合っていたでしょう。復帰第一作こそ、ピアノやベースに電子音を許容しながらもアコースティック感横溢の音色を惜しみなく迸らせましたが、その後のロリンズは「ネクスト・アルバム」からは予想のつかないような歩みを見せます。

 1973年の日本公演

 復帰第二作目のアルバム「ホーン・カルチャー」“Horn Culture”が日本で発売される前に、ロリンズは来日公演を行いました。この久しぶりの来日公演を、筆者は文京公会堂へ友人らと聴きに行きました。(筆者にジャズを教えてくれた友人がチケットを手配してくれ、友人2人は前から二列目、筆者は妹と前から四列目の席で聴きました。)
 この時の印象は忘れられません。一言で言うと、演奏が始まった時、ステージ上にいるのがあの伝説のミュージシャンだとはとても思えないような雰囲気でした。
 ロリンズがにこやかに奏でる音は、筆者が愛してやまないアルバムSCの貧しげな音などからはかけ離れた、少し金属的な印象の豪華で華やいだ音でした。(のちのち巷で用いられるようになる言葉を使うと、高価な商品なんだけど何だかチャラい音、という感じがありました。実際に音響装置を通して聴ける演奏はこんなものなのだろう、と思った記憶があります。)
 ステージに流れる音楽は、けっこう耳に強く響く音であるにもかかわらず、ややメリハリの抑えられた流麗な印象の、春風駘蕩、という感じの音の流れで、なるほど、これが目下ロリンズが聞き手との間で実現したい音楽か、彼ならそういうことはあるのかも知れない、と納得できる感じもありました。いずれにしてもそのステージは、「ネクスト・アルバム」とはかなり聞こえ方の異なる音楽を奏でていたと思います。この時のステージで最もロリンズらしさを感じさせたのは、アンコールで取り上げた「セント・トーマス」の最後の最後、ブオーッ、と思いっきり野太い低音を出して締めくくり、聴衆を狂喜させたことでした。
 ともかく、この時のサックスが、やや金属的な現代風の響きで、「竹べらが鳴っている木管の音」という感じが希薄だったことが重要です。これからロリンズはどこへ行くのだろうか、と気がかりになったライヴでした。(筆者の聴いたステージではありませんが、この年の来日公演の演奏は、「ソニー・ロリンズ・イン・ジャパン」“Sonny Rollins in Japan”というアルバムで聴けます。)

アルバム「Horn Culture」の意義

 アルバムとしては「ネクスト・アルバム」の次に出した「ホーン・カルチャー」“Horn Culture”(日本盤は1973年来日公演の後に発売)では、ロリンズは一転してテクノロジー寄りの音色や、さらにおそらく録音された演奏としては初めてダーティーでざらついた音も聴かせ、あちこちに前衛的でトリッキーなフレーズも繰り出します。全体の大雑把な印象は、瞬間瞬間の面白さはあるが、音楽を聴き終わっての解放感のような手応えがあまり味わえない、というところでしょうか。このアルバムを評価する論説はあまり見たことがありませんが、それはおそらくこれがソニー・ロリンズ名義のものだったことが何より大きいのではないかと思われます。
 あのソニー・ロリンズが何をやっているんだ?なぜロリンズが、こんな、時代に阿るようなことをしているのだ?
 おそらくロリンズのファンはそう思い、ロリンズのファンでない人々も同様に思ったことでしょう。
 しかし、実はロリンズだからこそこんなアルバムを作ったのでしょう。既にシーンから姿を消していたマイルス・デイヴィスが、引退前にどんな音楽をやっていたかを考えてみましょう。(アルバムで言えば「オン・ザ・コーナー」“On the Corner”1972や「イン・コンサート」”In Concert”1972など。)かつて「バグス・グルーヴ」などでともに演奏した、ロリンズの兄貴分ともいうべきマイルスが切り拓こうとするジャズは、もはや50年代からは隔絶したようなサウンド世界でした。あるいは、そのマイルスやロリンズとも共演して幾多の名盤を残したホレス・シルヴァーHorace Silverが時代の耳に届くためにどんな音楽を作らなければならなかったかを味わってみましょう。さらに、人気グループとなっているウエザー・リポートWeather Reportの音やチック・コリアの「リターン・トゥ・フォアエヴァー」“Return to Forever”1972を聴いてみましょう。50年代の自分の演奏を否定するということではなく、あのころ時代の耳にヴィヴィッドに届く音楽を作ったように、人々の耳に今新鮮に聞こえる音楽を作れないならジャズ・ミュージシャンをやっている意味がない、というのが、嬉々としてバップを創り展開していったミュージシャンたちの当然の思いだったろうことは想像に難くありません。
 もちろん、他のミュージシャンからの刺激だけの問題ではありません。ロリンズが50年代から一貫して前衛的前傾姿勢をとり続けていたことは疑う余地が無く、(とりわけセロニアス・モンクとの交流を通じて?)メロディー内の異化効果の導入に早くから意欲を示しています。(よく知られた、アドリブ内での、フォスターの「草競馬」の引用なども、通常よく語られる「ユーモア感覚」の発露としての側面だけでなく、異化効果という側面から考えるべきものでもあるかも知れません。)

 「ホーン・カルチャー」のサウンドの構想は、おそらくジャズ・シーンに復帰した時点で既にその原形がロリンズの胸中にあっただろう、と筆者は推測します。
 「ネクスト・アルバム」は、はやる心を抑えて、自分の大切にしている音楽の核心はどんなものかを示そうとしたように思われます。その点で、70年代復帰第一作「ネクスト・アルバム」は、60年代における復帰第一作「橋」“The Bridge”と、その意図や姿勢において共通するところがあるように思われます。60年代は「橋」の後、アルバムとしてはかなりラディカルな演奏を含む「ホワッツ・ニュー」”What’s New”、「アワ・マン・イン・ジャズ」“Our Man in Jazz”へと変貌を見せたように、70年代は「ネクスト・アルバム」の後、アルバムとしては「ホーン・カルチャー」へ、そして「カッティング・エッジ」“The Cutting Eddge”へと変貌を見せます。(復帰第三作がともにライヴ・アルバムになっているのも興味深い符合と言えるでしょう。)

 タイトル「ホーン・カルチャー」

 なお、アルバム・タイトルの”Horn Culture”は誰の命名なのか、筆者は気になります。ありていに言って、ジャズは歴史的に見れば所詮は酒場の大衆芸能でした。チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーが現れ、MJQやセロニアス・モンクやバド・パウエルやマイルス・デイヴィスやチャーリー・ミンガスが現れ、さらにコルトレーンやオーネット・コールマンらが現れて、ジャズはみるみる「芸術」っぽくなりましたが、人類社会における音楽の体制や存在意義そのものを問う、という動きがジャズの内部から現れたのは、概ねアーチー・シェップArchie Sheppのようなインテリ・ミュージシャンの出現(実質的には1960年代半ば)以後のことだと言えそうに思います。
 早くも1958年にアルバム「フリーダム・スイート」”Freedom Suite”のジャケットに、「アメリカ固有の文化としてのジャズ」という見方を記した(これには当時の黒人解放運動の高まりが背景にあったのでしょうが)ロリンズは、音楽を音楽内部からだけ捉える傾向が早くから希薄で、むしろ音楽を「外部から」見て必要な音楽を模索する傾向があったと言えるように思われます。
 内には音の流れと不可分な感情感覚の多様な起伏があり、それを反映した演奏を心がけると同時に、外から自らの音楽を捉えて、この演奏にどのような意味があるか自分の演奏には何が求められるのかを考える姿勢が絶えずあったように見えます。だからこそロリンズの音楽は、通常のありきたりのジャズから微妙に逸脱していたのだと考えられます。
 そうした姿勢は、必然的に、音楽を社会の中の文化として見る視点をもたらすでしょう。
 音色を模索するロリンズの探究は、この世界における音楽のあり方を問うことと不可分でした。旧来の形態様相の反復に過ぎない時、音楽は聴き手(奏者自身を含む)の状況に光を当ててそのあり方からこの社会の文化全体を問うことは期待できないでしょう。その時、音楽は単なる娯楽に留まるでしょう。サクソフォンの音色がこの世に何をもたらしうるか、それを音楽自体において模索すること、そうした「ホーン・カルチャー」を目指したい、という願望がこのタイトルに見え隠れするように筆者は思います。このタイトルが、ロリンズ自身の発案であれ、あるいはプロデューサーのオリン・キープニューズの提案であれ、さらにはマイルストーン・レーベルの販売促進部門の誰かの発案によるものであれ、これが発売時にレーベルで了承されていたことの意味はなかなかのものがあると思います。たかがジャズの一枚のアルバムに「ホーン・カルチャー」です。(あるいは、管楽器文化の代表としてロリンズを売り込む意図があったかもしれません。)
管楽器文化の多様な模索が伺えると同時に、ここにロリンズの音楽姿勢が窺われると筆者は考えています。どんなに遅くともこの時点で、彼はひとりひとりの聴き手からなる世界を動かす文化の問題として音楽を捉えていたことは間違いないと思われます。

アルバム“The Cutting Edge”

 「ホーン・カルチャー」に続いて出たアルバム「カッティング・エッジ」“The Cutting Edge”1974は、70年以降のロリンズを知る上では大切なアルバムというべきでしょう。
 これは1974年のスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルにおけるライヴを録音したアルバムです。このライヴには音楽的に注目すべき点が幾つかあります。その第一は、「野薔薇に寄せて」“To a Wild Rose”内における無伴奏ソロ演奏、第二は表題曲「カッティング・エッジ」における、ロリンズのソロの新しいフレージングです。(「ホーン・カルチャー」で散見された傾向を発展洗練させた印象です。)ここには、50年代末からロリンズが聴かせていた「モールス信号風アドリブ」(油井正一の命名)の発展形ともいうべき、サックスをほとんどリズム楽器のように吹く奏法が聴かれます。これは、マイルスがシーン引退前にトランペットで行っていた技法のロリンズ的解釈というべきものではないかと筆者には聞こえます。ただし、この「リズム楽器のように吹く」というのは、マイルスのライヴに比べると少し感じ取りにくく、そのぶん、メロディー性が前面に出て何をしているのかよくわからないスリルになっているように感じられます。注目すべき第三は、アルバム最後に収録の黒人霊歌「スイング・ロウ・スウィート・チャリオット」“Swing Low, Sweet Chariott”(「音無く揺れよ、麗し車よ」)の重要性です。ルーファス・ハーレイRufus Harleyのバグパイプの参加(実はロリンズは60年代にもライヴでハーレイと共演しています。)も衝撃ですが、それ以上に、トラック冒頭、ハーレイとの掛け合いイントロで聴かせるロリンズの即興が音楽的に重要で、これは少し大袈裟な言い方になりますが、音楽史的に見ても重要な演奏だと思います。これについて正面切って論じた言説を知りませんが、実はここに当時のロリンズの重要な音楽思想の発露があると筆者は考えます。ここに述べたような意味で音楽思想的に重要なのは、後年のやはりライヴ・アルバム「ドント・ストップ・ザ・カーニバル」“Don’t Stop the Carnival”における、「オータム・ノクターン」“Autumn Nocturne”のトラック冒頭における無伴奏ソロです。この二者はロリンズが音楽に関して極めて文化史的な視野に立った認識を有し、たとえば絵画でいえばピート・モンドリアンPiet Mondrianやワシリー・カンディンスキーWassily Kandinskyやジャクソン・ポロックJackson Pollockその他の芸術家たちに通じる仕事を実践展開していたことを示していると思います。(これについては別稿で詳しく考えます。)

 新しい音色の出現

 そして、それらの問題と関連して考えるべきことの一つが、収録されたロリンズの音源としてはおそらく生涯ただ一度の珍しい音色(ただしアルバム「ホーン・カルチャー」の一部で聴かせた音色の延長上のもの)を聴かせていることです。
 実は、このアルバムを初めて聴いた時、(サックスの音域が圧倒的に中・高域が多く、ロリンズらしい低音があまり使われないせいもおそらくあって)筆者はロリンズが実際に演奏しているのかどうかよくわかりませんでした。それほど、サックスが全体のサウンドに埋もれるというか溶け込むというか、とにかくこれまでに知っているロリンズのサックスの音の際立ち方が感じられませんでした。
 そのような効果が生じるためのサックスの音は、「竹べらの振動している」木管らしい素朴な音とはかけ離れています。(その点では、ロリンズの演奏中でリード楽器から最も離れた印象の音、と言えるかも知れません。)
 このアルバムのジャケット写真を見ると、大写しになったロリンズの顔にメガネの縁が逆光でキラリと光っており、そしてサックスの銀色に光るメタルのマウス・ピースが写っています。(基本的な取り付け方からすると裏返しというべきか、天地が逆さまに取り付けられています。)しかし、たとえば50年代の「マックス・ローチ・プラス・4」でのロリンズのサックスが、タンギングの際のメタルマウス・ピースの余りにビュルビュルいう音が耳につくようには、「カッティング・エッジ」のサックス音は耳障りではありません。
 どちらかというと、いわば当たりの柔らかい、もやっとした音です。そのもやっとした印象の音がしかし、聴き込むほどに呆れずにはいられない、滑らかにして流麗な楽器コントロールの下で、意外に鋭くキレのいいフレーズを発しています。そして、重要なことは、アコースティック感は極めて希薄だけれども表面の柔らかいようなこの音が、強力にアンプリファイされたエレキ・ギターやエレキ・ベースの音と完全に融合していることです。ついにサックスは電子音と手を携えられる音色を獲得しました。大会場のPAや各種高精度音響機器や大容量スピーカーに適った音色になったかと見えます。筆者自身は、このアルバムを聴くたびに、ロリンズのサックスがもっと際立つように大きい音で収録してほしかったと感じていましたが、この感想が誰か他の人から述べられるのは聴いたことがありません。(筆者の友人の1人は、「サックスの音は十分大きいと思う」と評しました。)
 ともかく、“The Cutting Eddge”のサックスの音は、70年代初頭の電気楽器と音響技術とによく馴染んだ音である分、木管としてのサックスの音の立ち上がり感はやや希薄になったように聞こえます。その音を獲得して、ロリンズは久々に時代のcutting edge(最先端)を走ります。ここから、ロリンズのサックスの音が走りに走ります

フュージョン路線でのサックス音

 音響技術に負けずに、サックスというリード楽器が放つヴィヴィッドで力強い魅力の音を如何に出すか、が次のロリンズの課題になります。そして、ここから暫く、ロリンズは、ファンや批評家からはあまり評判の良くない「フュージョン路線」のアルバムを出し始めます。フュージョンに批判的な人たち、また、フュージョンには理解を示してもロリンズのフュージョンには批判的な人たちが、プロデューサーのオリン・キープニューズに、なぜロリンズにフュージョンをやらせるのか、と詰め寄ると、「ロリンズがやりたいようにやらせただけだ」と答えるのだそうです。一方、ロリンズになぜフュージョンをやるのか尋ねると、「一緒に演る若い連中がやりたがるからだ」と答えるのだそうです。しかし、そういう若手を起用しているのは(オリン・キープニューズの答えが本当なら)ロリンズ自身なので、結局のところ、ロリンズ自身がフュージョン路線に踏み込んだ、と言うべきでしょう。

 このフュージョン路線についての考察は別稿に譲らなくてはなりませんが、アルバムで言うと“The Cutting Eddge”に続く「ニュークリアス」“Necleus“、(1975)、「ザ・ウエイ・アイ・フィール」“The Way I Feel”(1976)、そして「イージー・リヴィング」“Easy Living”(1677)と続くフュージョン系統のアルバムで、ロリンズはそれまでと異なるサックスの音を聴かせるようになります。アルバムで見るなら、一枚一枚音色が異なり、更に記述のように一曲一曲音色が変わったりしますが、ひと言で言うと、硬くて、擦過音の目立つ、非常に「耳障りに研ぎ澄まされた音」(ほとんど矛盾した表現にしか聞こえなさそうですが)、と言えるのではないでしょうか。アルバム上では、75年盤よりも76年盤は一段とガサガサした、いわば行儀の悪い音になり、「イージー・リヴィング」ではかなり引き締まって整っている代わりに耳にキンキン刺さるような特徴が最も際立つことになります。全体としてこの時期のアルバムの音はとにかくがさつで(とりわけ、音楽に穏やかな安らぎを求める人には)、一種聞き苦しい音だと言えるように思います。「カッティング・エッジ」ではテクノロジーと木管のサウンドとを融合させようとしたかに見えますが、「ニュークリアス」から「イージー・リヴィング」までは、テクノロジーに拮抗できる木管の音を追求することが、時代の音楽傾向に異議を呈する試みに合致した、と言えるかも知れません。(なお、「イージー・リヴィング」は、それまでのロリンズに比べると、フュージョン愛好者にもそれなりの評価を受けたようです。これは何よりも、収録された各トラックが、前二作よりもきちんと丁寧に作り込まれた感じのトラックが多く、成熟感があって「綺麗な」印象が強いからでしょう。他方、このアルバムは従来のジャズの持っていた特徴や雰囲気も感じさせて、フュージョン否定派の従来のロリンズ・ファンからもそこそこの評価を受けたようです。これに比べると前作「ザ・ウエイ・アイ・フィール」の各トラックは、如何にも大味でがさつな印象を与えます。しかし、これは必ずしも制作の仕方がいい加減であることを意味しているわけではないと言うべきでしょう。「ザ・ウエイ・アイ・フィール」は、おそらく荒削りな素朴さを打ち出そうとの意図があったように感じられます。筆者のよく通った所沢市のジャズ喫茶にあったロリンズの最後のアルバムは、この「ザ・ウエイ・アイ・フイール」で、これ以後に出たアルバムは一枚も置かれていませんでした。当時のマスターは、「今のロリンズは全く聴く気になりません。まるっきりおもしろくないですね。」と吐き捨てるように言い切っていました。こうしたジャズ・ファンはかなり多かったのだろうと推測します。筆者自身は長い間「ロリンズのアルバムは良し悪しはともかくとして、どれにも何か一つは取り柄がある。しかし、『ザ・ウエイ・アイ・フイール』だけは別で、全く何の取り柄もない。これはロリンズのアルバムのうちで、何一つ取り柄の無い唯一のアルバムだ」と言っていました。この見方は改めるべきだと考えるようになったのは比較的最近のことです。このアルバムは、発表当時は売り方の意図ばかりが目立ち、ロリンズの視野が聴き手によく捉えられなかった憾みがあると考えます。一般に、フュージョン路線時代のロリンズは、どんなふうに聞こえるか、と同時に、何を考えてこの音楽を作っていると考えるのが妥当か、と、ロリンズの思想を問いながら聴く方が面白いように思われます。

ライヴ盤「ドント・ストップ・ザ・カーニヴァl」の重要性

 そして、この「耳障りな音」の重要な達成を示したアルバムが、「イージー・リヴィング」の次に出たライヴ盤「ドント・ストップ・ザ・カーニヴァル」“Don’t Stop the Carnival”だったと言えます。これは、かつて実力派のハード・バッパーであったトランペッターのドナルド・バードが、自らも大ヒット作を放ったフュージョン路線と決別して正統ジャズ路線に復帰するのをゲストに迎えて、ロリンズが行ったライヴの模様を収録しています。(ただし、ここでのドナルド・バードの演奏は取り立てて言うほどの美点の無い、むしろ鳴物入りの割には筆者には失望感の濃いものです。)
 もしかすると、この頃のロリンズが歯の具合に苦しんでいたことが影響しているかも知れませんが、この頃、ロリンズはサックスを斜めに咥え、非常にガサガサした一種不快な音を出しています。が、奇妙な言い方ですが、この「ダーティーに澄んだ音」が「走って」います。優れた演奏集とは言い難いアルバムかと思いますが、収録の「シルヴァー・シティ」を高評価する批評家もありました。そして、筆者自身は、このアルバム中の、何よりも「オータム・ノクターン」”Autumn Nocturne”のトラックを、とりわけその冒頭の前奏的無伴奏ソロ部分を高く評価するものですが、この演奏は、ロリンズのこの音でこそ実現されるべき名演であると考えます。これ以降、ロリンズのサックスの音色は、剛速疾走するようになります。ついにロリンズは、現代に物を言うテナー・サックスの音色を実現した、と筆者には思われました。(なお、この頃から、批評家たちの間では、このロリンズのサックスだと、他の楽器の音は邪魔になるだけだ、という言説がしばしば見られるようになります。)

轟音疾走ライヴ

 実は、ライヴ盤「ドント・ストップ・ザ・カーニヴァル」が日本で発売される前に、筆者はロリンズの来日公演を聴きに行きました。(1979年2月、東京・芝の郵便貯金ホール)
 この時の衝撃は凄まじいものでした。
 筆者は、客席よりほんの少し高いだけのステージの両袖近くに設置された巨大なスピーカーのうち、右側のスピーカーから4、5メートルほどの距離の席で聴きました。
 なぜか、オープニング曲は多分“The Cuttin Eddge”だろうと思ったら、予想が的中しました。
 が、その音と演奏は筆者の予想を見事に裏切り、それはそれは凄まじい、まさに度肝を抜くものでした。この曲を、1974年のモントルー・ジャズ祭のライヴ盤でしか聴いていなかったので、伸びやかに高らかに華やかに展開するのだろうと漠然と思っていました。しかし、モントルー・ジャズフェスティヴァルの際にあった助走と景気付けのようなイントロが無く、実際に目の前のスピーカーからいきなり強烈なテーマで高らかに迸るのは、野太くも豪胆な硬質の音塊が聴衆を薙ぎ倒し吹き飛ばすような、凄まじい轟音です。音が出た2小節目には、自分の体が実際に吹き飛ばされるのではないかと身構えたほどです。その音が、聞き手の心の準備や耳の準備なんか知ったことか、ついて来られるものならついて来い、というかのように地響きを立てて疾走通過するのです。
 一曲目だからこうなのか、と思いましたが、とんでもない。もちろん途中にバラード演奏などもあったはずですが、思い出せるのは、ロリンズのどんなアルバムでも一度も聞いたことのない、最初から最後まで猛然と一気に突っ走るような怒涛の演奏です。たかが一本のテナー・サックスでこんな爆音を出せるのは、ロリンズ以外に地上にはひとりもいない、と、誰の音と比較するまでもなく確信できる異次元の音でした。あの音が、薄っぺらいリードの振動から出ているなどとは到底思えるものではありませんでした。
 この時のライヴで、筆者は、今やソニー・ロリンズがほとんど誰も到達不可能な神技サックス技術を持つジャズ奏者だと確信しました。ロリンズの時代が本当はついに来ているのだ、1人でも多くの人にこの人の奏でるジャズを聴いてもらいたい、と思いました。
 このライヴを経験した後に聴くライヴ盤”Don’t Stop the Carnival”収録の“Autumn Nocturn”は、音色の開拓と、それと同時進行のサックス吹奏技能の探究が、今日の音楽状況が抱えている一切の問題を問い直そうとしているように筆者には感じられました。

 この時点で、ついにロリンズのサックスの音は、時代の音響テクノロジーの全てに対峙し得るものとなっていました。

アルバム“Don’t Ask“以降の音色

 “Don’t Stop the Carnival”に次いで出たアルバムは「ドント・アスク」“Don’t Ask”(1979)です。
 アルバムとしては、これがロリンズがダーティーなサウンドから抜け出した最初のものになります。ここでは「走っている」という感じはあまりしないかも知れませんが、その代わりに、非常に引き締まって強靭なアコースティックの音色が聴けます。
 そして、この後もロリンズの音色探究は模索を重ねて尽きる時がありません。そしてもちろんその音色の探索は、ロリンズが提示しようとする音楽のあり方と密接に関連しています。
 しかし、アルバムという観点から見て大変残念なことは、“Horn Culture”以後、「ソニー・ロリンズの魅力はこれを聴けばわかる」というアルバムは基本的に見つからないというのが、大方の見解の一致するところではないかと思います。この点は1950年代のロリンズと大きく異なります。
 そういうアルバムが無い、ということは、ロリンズが優れた仕事をしていないということか、と言えば、それは全く違うと言わねばなりません。
 1970年代以降(あるいは1960年代以降)のアルバムに、各時期を代表するようなアルバムが見出し難いのは、ロリンズの目指した音楽の全体像が、ひとえに聴衆を前にしたライヴ演奏に収斂するものであり、そしてそのライヴで実際に展開する音楽が、規模の上からも奏者の視野からしてもあまりにも巨大なスケールの時空にあり、たとえそのライヴを収録しアルバム化しても、その魅力はとても捉えられるものではなくなってしまっているからです。いわんや、スタジオ録音ではとてもロリンズの文化的意志の全貌を反映するのは無理になってしまっていました。スタジオ録音は、ロリンズがその時々の音楽的見解と技術的達成とを象徴的に示すようなサンプル集のようにならざるを得ません。その時々のロリンズの指向のエッセンスは確かに込められてはいるのですが、そしてそこにはロリンズのかなしいほどの音楽愛と世界愛が込められてはいるのですが、その実際の深く大きいスケールの音楽の実相を体感するには、とてつもない生演奏を浴びるほかなく、ライヴ会場に足を運ばなくてはなりませんでした。そこでは、新作アルバムの発表ごとにさまざまな切り口や音楽観や音色を聞かせるアルバムと異なり、80年代以降一貫してより深い絶望を汲み上げる探究に迷いの片鱗も感じさせない巨人が、消費市場と化した不毛の音楽野に1人阿修羅の如く立ちはだかって咆哮する音楽がありました。

 以下に、1970年代以後に日本で発売されたアルバムのタイトルを掲げておきます。
 1.Sonny Rollins’ Next Album (ネクスト・アルバム 1972)
    2.Live in Japan (ライブ・イン。ジャパン 1973
 3.   Horn Culture (ホーン・カルチャー 1973)
 4.The Cutting Edge (カッティング・エッジ 1974)
 5.   Nucleus (ニュークリアス1975)
   6.   The Way I feel (ザ・ウエイ・アイ・フィール1976)
   7.   Easy Living (イージー・リヴィング1977)
  8.  Don’t Stop the Carnival (ドント・ストップ・ザ・カーニバル1978)
 9.   Don’t Ask (ドント・アスク1979)
10. Love at First Sight  (ラヴ・アット・ファースト・サイト1980)
11.No Problem (ノー・プロブレム1982 )
12.Reel Life (リール・ライフ1983)
13.Sunny Days Starry Nights (晴れた日に、星屑の夜1984)
14.The Soro Album (ザ・ソロ・アルバム1985)
15.G-Man (G-マン1986)
16.Dancing in the Dark (ダンシング・イン・ザ・ダーク1987)
17.Falling in Love with Jazz (ジャズに恋して1989)
18.Here’s to the People  (ヒアズ・トゥー・ザ・ピープル1991)
19.Old Flames   (薔薇の肖像1993)
20.Sonny Rollins +3   (ソニー・ロリンズ+3    1996)
21.Global Warming    (グローバル・ウオーミング1998)
22.This Is What I Do  (ジス・イズ・ホワット・アイ・ドゥー 2000)    
23.Without a Song:The 9/11 Concert (ウイズアウト・ア・ソング 9.11コンサート   2005)
24,   Sonny Please  (ソニー・プリーズ 2008)

 以上の他に、ロリンズ名義でないものとしては、1978年の“Milestone Jazz Stars in Concert”(「マイルストーン・ジャズ・スターズ・イン・コンサート」)、1981年のローリング・ストーンズの“Tatoo You“(「刺青の男」)への参加、更にライヴ演奏からロリンズが選んで編集した“Road Shaws“ vol.1〜vol.4(「ロード・ショーズ」 1979〜2012のライヴより)がある。  

 以上のアルバムのうち、ローリング・ストーンズへの協演は別とすると、聞かなくてもいいアルバムは一枚も無い、と言えます。この点は、50年代の夥しいアルバム群とはっきり違うところです。どれを聞いても、それでロリンズがわかるということはほぼ絶対にありませんが、しかし、どれにも考えるべき問題が露出していることは間違いないと筆者は考えています。







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