#シロクマ文芸部 三時半の冷気~短編フィクション小説~
小牧幸助さんのお遊び企画「冷凍庫」に参加です。
締切は2/11(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。
三時半の冷気
冷凍庫を開けると、白い冷気が静かに流れ落ち、足元に溜まった。
深夜三時半。
キッチンは眠っていて、機械の低い呼吸だけが続いている。
奥に、小さなレモンがひとつあった。
霜をまとい、輪郭は硬く、時間そのものが閉じ込められているように見える。
いつか使うつもりで、忘れていたもの。
忘れた、というより、凍らせたままにしていたのだと思う。
私はしばらく、そのレモンを眺めていた。
今の私は、触れる前の距離を大切にする。
急がない。
名前もつけない。
ただ、そこにある状態を観測する。
冷たい。
けれど、それは拒絶ではなく、保存の温度だ。
手袋を外し、指先でそっと触れる。
氷の硬さが、皮膚を通して伝わってくる。
すぐに溶かそうとはしない。
ただ、同じ空間に、同じ温度でいる。
少しずつ、境目が曖昧になる。
冷たさは消えないまま、角が丸くなっていく。
誰かの顔が浮かぶ。
夜になると、考えが絡まり、どこへも行けなくなる人たち。
動けないことを、責め続けてしまう人たち。
けれど、彼女たちもまた、こうして静かに保存されてきただけなのだと、私は知っている。
レモンの表面に、水滴がひとつ現れる。
音もなく落ち、まな板に小さな痕を残す。
その瞬間、かすかな香りが立った。
まだ強くはない。
でも、確かに未来の匂いだった。
私はその変化を、見逃さない。
昨日と同じ夜に見えても、世界はわずかに進んでいる。
進めないと思っていた場所で、実は準備が終わっていることもある。
レモンはまな板の上に有る。
包丁はまだ持たない。
朝は、もう少し先でいい。
窓の向こうで、東の空が薄くほどけ始めていた。
光は急がず、しかし確実にやって来る。
私は、私のままで、この場所に立っている。
溶けていく音を聞きながら、
誰かと同じ速度で、同じ温度で、
朝を迎える準備をしている。
~ 終 ~
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