#シロクマ文芸部 風の名を知らない日~短編フィクション小説~
小牧幸助さんのお遊び企画「三月は」に参加です。
締切は3/4(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。
※この物語はフィクションです。
風の名を知らない日
三月は、手紙を焼いた月だった。
まだ風の冷たい午後だったが、日向にはかすかに春の匂いが混じっていた。
ベランダの片隅、丸い陶器の白い器の中で、封を切らないまま一年を越えた手紙が、ゆっくりと火に包まれていった。
灰の舞う光景を見ていると、胸の奥で、彼の声がかすかに溶けだした。
最後に会ったのは、一年前の同じ日。
桜が咲く少し前。
「春になったら、また会おう」と笑いながら言った彼に、私は何も返せなかった。
あのころ、私は未来を信じるより、現実から目を背けることのほうがうまかった。
彼が倒れたという知らせは突然だった。
病名も、経緯も、驚くほど淡々としていて、私の中の時間だけがその場で止まった。
葬儀には行けなかった。
誰にも何も言えなかった。
代わりに、ひと月後、彼の母親から一通の手紙が届いた。
差出人の名前は、彼自身だった。
私はその封を、一年ものあいだ開けられなかった。
恐かったのだと思う。
彼の「最後の言葉」を知ってしまえば、もう本当に終わってしまう気がして。
けれど今年の3月、ふと朝の風が変わった。
街のコートが薄手になり、沈黙の中で花屋の店先に色が戻り始めた。
そのとき、やっと思えた。
もう、いいかな。
火は静かに封筒を舐め、薄い紙が波のようにしわを寄せる。
その一枚の中に書かれていたかもしれない言葉を、私は心の中で勝手に想像した。
「ありがとう」
「元気で」
「また春に」
燃え残った灰の中で、インクの跡が一瞬だけ青く光った気がした。
風が吹いて、灰は宙に舞い上がった。
ひとつの季節が終わるように、私の中の彼も遠のいていく。
それでも、なぜか悲しくはなかった。
白い器を洗い、ベランダの手すりに手をかける。
指先にはまだ陽のぬくもりが残っていた。
広がる空の向こうに、次の季節が確かに見えていた。
~ 終 ~
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