#シロクマ文芸部 十年ぶりの笑顔~短編フィクション小説~
小牧幸助さんのお遊び企画「ゆっくりと」に参加です。
締切は3/18(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。
※この物語はフィクションです。
ゆっくりと、彼女は笑った。
それだけで、十年分の時間がほどけていくようだった。
病院のベンチに並んで座り、窓越しに光を見ていた。
午後の陽射しは薄く、けれどどこか春をはらんでいて、冷たさの中にわずかな柔らかさが混じっていた。
言葉を交わすことはほとんどなかった。
話そうと思えば思うほど、浮かんでくるのは昔の沈黙ばかりだった。
彼女がこの病院にいると聞いたのは偶然だった。
共通の友人の小さな投稿が目に留まっただけで、深い意味なんて最初はなかった。
けれどその夜、ふと思い出した。
高校の帰り道、夕焼けを背に彼女が笑った瞬間のことを。
あのときの自分は、自分だけが傷ついていると思っていた。
誰かを守るふりをして、誰よりも臆病だった。
駅から病院までの道を歩きながら、何度も引き返そうとした。
「今さら来てどうする」と、頭の中で何度も声がした。
それでも扉を開けた瞬間、彼女が目を上げて、少し笑った。
その笑みを見たら、もう何も言えなくなった。
「久しぶり」と声をかけると、彼女はうなずいた。
声はかすかだったが、確かに生きている響きがあった。
しばらくして、彼女がゆっくりと窓の外を指さした。
中庭の隅に、小さな梅の木が見えた。
枝の先に、ほんの少しだけ花がついている。
「咲いたね」
かすれた声が風に溶けた。
僕は何か答えようとしたが、喉の奥で言葉が崩れた。
あの日、最後に交わした言葉がまだ胸に残っていた。
冷たい響きで互いを遠ざけたまま、時間だけが過ぎていった。
もし謝っても、彼女は困るだけかもしれない。
いや、もうそんなものは必要ないのかもしれない。
彼女は静かにこちらを見た。
その目の奥に、何かを思い出そうとするような光があった。
そして、ゆっくりと笑った。
その笑みは、言葉よりも確かな返事のように思えた。
赦された、というよりも、最初から何も咎められていなかったのだと感じた。
僕はただ、その笑顔を見つめ続けていた。
何かが胸の奥で静かにほどけていく。
病院を出ると、夕方の光が街を薄く染めていた。
バス停までの道すがら、足元に影が二つ並んで伸びている気がした。
バスの窓に映った自分の顔が、どこかほっとしているのがわかった。
外の景色がゆっくりと流れていく。
もうあの頃の自分には戻れない。
けれど、戻らなくてもいいのだと思えた。
あの笑みは、きっとそう伝えていた。
バスが角を曲がるとき、ふと振り返ると、病院の屋上に差す光がまるで春のようにやわらかかった。
ゆっくりと息を吸い、目を閉じた。
世界が少しだけ穏やかに見えた。
~ 終 ~
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