#シロクマ文芸部 風の残る厨房で~短編フィクション小説~
小牧幸助さんのお遊び企画「冷凍庫」に滑り込み参加です。
締切は本日、2/11(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。
※この物語はフィクションです。
風の残る厨房で
——いないはずの彼女と、今日もスフレを焼いている。
冷凍庫のドアを開けると、白い霜がふわりと舞った。
午後の光が、厨房のシンクに反射していた。
中から、小さな紙切れがひとつ、氷のかけらと一緒に滑り落ちる。
「春の風スフレ」
その文字を見た瞬間、時間が少しだけ戻ったような気がした。
智子の字だ。
思い出す。
開店準備の日、油の匂いと新しい木の香りが混じる店内で、
智子がカウンターに腰かけて言った。
「大変でもいいじゃん。お客さんが笑ってくれたら、それが全部報われるよ」
その時の笑顔を、私はずっと覚えている。
あれから何年も経って、店の賑わいはやがて静けさに変わったけれど、
厨房の奥には、あの日の空気がまだ少し残っていた。
私は手を動かした。
卵を割る音、泡立て器を回すリズム、
それらがひとつずつ記憶をほどいていく。
メレンゲを立てる途中、
窓の外で風が一瞬だけカーテンを揺らした。
まるで誰かが「そこ、もう少し優しく混ぜて」と囁いたみたいに。
オーブンに火を入れ、焼き上がる香りが店いっぱいに広がっていく。
あの頃と同じ、甘くて温かい匂い。
スフレを割ると、湯気が立ちのぼり、
光がその中を通り抜けていく。
まるで春の風が吹きぬけるように。
翌週、私は黒板に書いた。
「春の風スフレ 数量限定」。
扉のベルが鳴るたびに、お客さんの笑顔が増えていった。
その笑顔が風のように店を満たしていく。
カウンターの上に散る粉砂糖が、光を受けてきらりと舞った。
営業が終わった夜、厨房の片隅に小さな手紙を置く。
智子へ
今日ね、新しい子がスフレを食べて、「また来ます」って言ってくれたよ。
ちゃんと風は続いてる。あなたが残してくれた空気のように。
次は季節の果物で試してみるね。きっと、あなたも笑うだろうな。
手紙の上に置いたレシピカードの角が、
オーブンの明かりに照らされてほんのり光った。
冷凍庫の唸りが、少しだけやわらかく聞こえる。
私は背筋を伸ばし、ゆっくりと灯りを消した。
外に出ると、夜風が頬を撫でた。
空は凍えるように澄んでいたけれど、
胸の奥には、焼きたてのスフレのようなあたたかさがしっかりと残っていた。
歩きながら、私は小さくつぶやく。
「ねえ智子、また春がくるね」
~ 終 ~
いいなと思ったら応援しよう!
あなたの応援が、私の毎日の創作の原動力になっています。最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。いただいたサポートは、書籍の購入など、これからの活動に大切に使わせていただきます。みなさんのおかげで、毎日noteを書くことが楽しみになっています。