[#虹色創作部]赤とんぼと母の記憶
虹くりっぷさんのお題「赤とんぼ」に短編小説で参加します~!!
画像からイメージしたフィクションです。
よろしくお願いいたします。
赤とんぼと母の記憶
秋の陽だまりが縁側を温めていた。
母は相変わらず虚ろな目で庭を眺めている。
「お母さん、お疲れさま」
仕事から帰った俊介が声をかけても、母の視線は動かない。
三日前から、母は俊介のことを息子だと認識できなくなっていた。
「どちら様でしょうか」
昨日もそう言われた。
今日もきっと同じだろう。
俊介は諦めにも似た気持ちで母の隣に腰を下ろした。
五十八歳。まだこんなに若いのに。
母の手は細くなり、頬もすっかりこけてしまった。
でも俊介にとって、母はいつまでも母だった。
優しくて、温かくて、いつも俊介を見守ってくれた母だった。
風が庭の草木を揺らし、どこからか赤とんぼが一匹舞い込んできた。
ひらりひらりと宙を舞い、母の前でゆっくりと羽を休めるように飛んでいる。
母の表情が、ふっと和らいだ。
「あら、赤とんぼ」
母の声に、久しぶりに感情が戻っていた。
「綺麗ね。あの子、赤とんぼが大好きだったのよ」
母の目に、微かに光が宿った。
俊介の心臓が高鳴る。
「あの子って?」
「うちの息子」母は小さく微笑んだ。
「まだ小さい頃、庭で赤とんぼを追いかけ回して。
『お母さん、赤とんぼつかまえたよ!』って、嬉しそうに見せてくれるの」
俊介の胸が熱くなった。
覚えている。
六歳の夏の終わり、庭で必死に赤とんぼを追いかけて、やっと捕まえた時の喜び。
母の驚いた顔と、優しい笑顔。
「でも、あの子ったら、すぐに逃がしてあげるのよ」母は赤とんぼを見つめながら続けた。
「『だって、お母さんのところに帰りたいでしょ』って言って」
そうだった。
俊介は捕まえた虫を檻に入れておくことができなかった。
いつも母のところに帰してあげていた。
「優しい子だったわ」
母の頬に、一筋の涙が流れた。
「その子は今、どこに?」俊介は震える声で尋ねた。
母は少しの間考えて、首を振った。
「わからないの。どこにいるのかしら。もう大きくなったはずなのに」
そして母は俊介を見上げた。
一瞬、何かを思い出しそうになる表情を見せたが、やがて困ったような顔になった。
「あなた、どちら様でしたっけ」
俊介の目から涙がこぼれた。
でも、この涙は悲しみだけではなかった。
母は息子のことを忘れてしまった。
でも、息子への愛は忘れていない。
優しかった息子の記憶は、母の心の奥深くで、今も温かく光っている。
赤とんぼが再び舞い上がり、夕日に照らされて輝きながら空に消えていった。
「ありがとう」
俊介は小さくつぶやいた。
赤とんぼに向けて。
そして、まだ心のどこかで息子を愛し続けてくれている母に向けて。
明日もまた、母は俊介のことを忘れているだろう。
でも俊介は知っている。愛は記憶よりも深いところにある。
そして、その愛は決して失われることはないのだと。
秋の風が頬を撫でていった。
―――終―――
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