#シロクマ文芸部 あの頃の唇に、もう一度~短編小説~
小牧幸助さんのお題で書きはじめる企画「洗面所」に参加です。
締切は8/5(水)23:59だそうです。よろしくお願いします。
※この物語はフィクションです。
洗面所の棚を整理していたら、奥から小さな箱が出てきた。
蓋を開けると、一本の口紅が入っていた。
少し色あせている。
けれど、見間違えるはずがなかった。
二十年近く前、私が買った口紅だった。
「まだあったんだ……」
思わず、笑ってしまった。
40代になった今、私はほとんど口紅をつけなくなった。
仕事の日は、目立たない色。
人に会う日は、少しだけきちんと見える色。
それで十分だった。
けれど、この口紅は違った。
少しだけ赤みの強い、私には似合わないと思っていた色。
どうして、こんな色を選んだんだろう。
蓋を開ける。
ほんのわずかに、昔の匂いがした。
その瞬間だった。
忘れていたものが、胸の奥からふっと浮かび上がってきた。
あの頃の私は、夢を持っていた。
いつか、自分の好きなことを仕事にしたい。
誰かに決められた道ではなく、
自分で選んだ道を歩いてみたい。
そんなことを考えていた。
けれど、口に出すことはなかった。
「そんなの無理だよ」
「今さら何を言ってるの?」
「もっと現実を見たほうがいい」
そんな言葉を聞くたびに、私は笑ってごまかした。
いつの間にか、
「夢なんて、若い人が見るもの」
そう思うようになっていた。
口紅を手のひらに乗せる。
私は鏡を見た。
そこにいるのは、40代の私。
疲れた顔。
少し増えた目尻の皺。
でも、その顔を見ているうちに、
昔の自分が重なって見えた。
あの頃の私は、この口紅をつけて鏡の前に立った。
似合っているかどうか何度も確認して、
少しだけ背筋を伸ばした。
そして、鏡の中の自分に向かって言った。
「いつか、やってみたいね」
あのときの気持ちを、私はずっと忘れていた。
忘れたふりをしていたのかもしれない。
「……まだ、やりたい?」
口に出してみた。
誰もいない洗面所。
返事なんてあるはずがない。
それでも私は、もう一度聞いた。
「本当に、まだやりたい?」
胸の奥が、ほんの少し痛くなった。
そして、気づいた。
答えは、とっくに決まっていた。
やりたい。
もう一度、夢を追いたい。
それは、若い頃と同じ夢ではないかもしれない。
形も違う。
やり方も違う。
もしかしたら、途中でやめるかもしれない。
それでも。
「やってみたい」
そう思える自分が、まだここにいる。
私は口紅を唇にのせてみた。
鏡の中の私は、少しだけ驚いた顔をしている。
思ったより、悪くない。
むしろ――
少しだけ、いい顔をしていた。
「まだ、間に合うかな」
そう呟く。
今度は、ちゃんと自分で答えた。
「間に合うよ」
口紅をしまう。
捨てるつもりだった古い口紅を、私はもう一度、箱に戻した。
今度は、洗面所の一番取りやすい場所に置いた。
夢は、過去に置いてきたものだと思っていた。
けれど違った。
ずっと私の中にいて、
私がもう一度思い出すのを待っていただけだった。
鏡の中の自分に、もう一度笑いかける。
40代。
まだ人生の途中だ。
だったら。
もう一度くらい、
自分の夢を追いかけてもいい。
私は洗面所の電気を消した。
そして、口紅を一本持って、
新しい一日へ歩き出した。
~ 終 ~
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