蘇軾 前編

お久しぶりです。
あれから色々あって、本編に入る前に今後の方針をお話ししようかなと思います。


今後の方針について

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お堅い話はここまでにして本題に入ろうと思います。
今回はタイトルの通り、宋代四大書家の一人にして、唐宋八大家の一人でもある蘇軾を取り上げます。ただ、詩賦とかについてはさっぱりなので、政治家としての一生に重きを置いて、紹介したいと思います。
で…本当は前後編に分ける予定は無かったのですが、計画性無くやってたら全然書けなかったので、前後編に分けることにしました。有料コーナーは後編で作ろうと思います。

今回の参考文献は「蘇軾その人と文学(日中出版)」です。
なかなかお高くてびっくりですが、読みたい人はぜひ読んでみてください。

その他、後漢書を一部引用していますが、特に断りが無ければライブドアブログの儗 後漢書抄訳からの引用です。

蘇軾の生い立ち

眉州の位置
画像引用元はhttps://www.d-maps.com/carte.php?num_car=31272&lang=ja

蘇軾(字は子瞻しせん)は、1037年(元号では景祐三年)に北宋の眉州びしゅう眉山県びせんけん(現在の四川省眉山市東坡区)に生まれた。後に彼が名乗る「東坡居士」はこの生誕地に由来する…と思いきやそういう訳ではない模様。
父は蘇洵そじゅん、母は程氏(名は不詳)。

蘇軾の肖像

知識人の家であった蘇家は父蘇洵そじゅん、弟蘇轍そてつも文才に恵まれ、この3人は「三蘇」と並び称され、三人とも唐宋八大家に数えられている。
父蘇洵は、最初こそ名の無い人であったが、ある時自分の作品を焼き捨てて最初から学問をやり直し、名のある文人に成り上がった人である。
母程氏も教養深く政治意識の高い人であったようで、彼女との間にこんな逸話がある。ある時、程氏は後漢書范滂はんぼう伝を幼い蘇軾に読み聞かせていたところ、「おまえは今、李膺りよう杜密とみつの声望と並び立っているのですから、死んでもどうして残念がることがありますか。すでに令名があり、その上にまた長生きをするとは、両方ともできるものでしょうか」の一節を読んで感情を抑えられなったという。
蘇軾は「もし私が范滂と同じようになったら、母上もこれを許してくださるでしょうか」と母に聞いた。
すると彼女は「もし私が賢い母でなければ、どうして賢い子の母でいられようか」と答えたという。
蘇軾はこれを聞いて感激し、世の中に立ち向かう志を持ったという。

蘇軾の生まれた時、北宋は四代目皇帝の仁宗(在位:1022年~1063年)の時代になっていた。この頃北宋では増え過ぎた兵士と官僚の維持と北方の遼との和平を維持するための歳幣の増加により財政は危機的な状況に陥り、貧富の格差が拡大するなど、諸問題が紛糾していた。その状況を打開すべく1043年(慶暦けいれき三年)から政治改革が行われた。この改革の中心人物は范仲淹はんちゅうえん欧陽脩おうようしゅう富弼ふひつ韓琦かんきらをを讃える「慶暦聖徳詩けいれきせいとくし」に蘇軾は大きな影響を受けたようだ。
この改革自体は范仲淹らの左遷により、失敗に終わってしまったが…。
ちなみに慶暦聖徳詩は宋史紀事本末を邦訳されているこのサイトで見れるので興味ある人は読んでみてください。

蘇軾、科挙に合格する

1056年(嘉祐かゆう元年)、蘇軾は19歳の時、弟蘇轍と一緒に父に連れられ、官吏採用試験で、世界一難しいとよく言われる科挙を受けるため首都開封へ向かった。
ちなみにこの2年前、1054年に王弗おうふつという女性と結婚している。蘇軾と結婚した時、彼女は16歳…。
1057年に開封に入り、科挙の試験に兄弟揃って合格した。
試験官欧陽脩は、当時の文学界の巨人であったが、「思わず汗が出た」、「三十年後には世の中の人は誰も私のことを口にしなくなるだろう」と蘇軾の答案を絶賛し、仁宗は「子孫のために二人の宰相を得た」と曹皇后に言った。
しかし、故郷で程氏が亡くなってしまったため(享年48)、喪に服すため一度故郷に帰った。服喪の期間は27カ月と定められていたので、ここから2年ほど家に引きこもり、それから1060年(嘉祐三年)に再び開封に戻った。
なおこの家にいる間に王弗との間に長男蘇邁そまいが生まれた。
そこで、制科という科挙とはまた別の試験を弟と受け、蘇軾は宋代でも数えられるほどしかいない三等になった。
その後1061年(嘉祐四年)彼は鳳翔府に赴任することになり弟蘇轍とは別れることになってしまい、送別の詩を作って別れを告げた。この後もこの仲の良さは続いた。

鳳翔の位置
画像引用元はhttps://www.d-maps.com/carte.php?num_car=31272&lang=j

さて、母の影響もあってか政治的に強い志があった蘇軾は多くの政治論文を書き、税を公平にすること、特権階級(科挙出身者を輩出した家の人々)の特権の制限を求め、また遼と西夏についても意見を出し、その政治思想は六代目神宗の時代に宰相となる王安石とも共通するものがあった。
また詩も多く残している。世の中を批判する詩を作ったり、貧富の格差を歌った「歳晩」、「子由の『蚕市』に和す」などを作ったり、自ら寒い冬に凍えてみれば唐代の名を遺した詩人に追いつけるかもと思って寒い中詩を書いたりと、非常に意欲的に創作活動をした。

鳳翔で3年余り務めている間に仁宗は亡くなり、次いで養子の趙曙(宋の英宗:在位:1063年~1067年)が即位した。この英宗の1065年(治平二年)に朝廷に戻り、宮殿の事務を管理する役人になり、国史の編集をする直史館にも名を連ねた。
だが、この年に妻の王弗が亡くなってしまった(享年27)。蘇軾40歳の時に彼女を思う詩を書いている…。
その翌年、1066年に父蘇洵も亡くなった(享年58)。父の喪に服すため、弟蘇轍そてつと共に故郷に帰った。この後2度と故郷に帰らなかったという。
この喪中、1067年に英宗は病死し、その子趙頊(宋の神宗、在位:1067年~1085年)が即位した。王安石おうあんせきを宰相にし、史上名高い新法の改革を始めた皇帝である。

新法と蘇軾

喪が明けて政界に戻ってきた時には、1069年(煕寧二年)になっていた。なおこの年に王弗の妹王閏之と再婚した。
喪が明けた彼を待っていたのは旧法と新法との政争であった。この新法は鳳翔在任時の蘇軾の思想と共通する部分があったはずなのだが、いつの間にかその政治姿勢は変化し、新法の改革に反対した。宋史紀事本末によると、青苗法、科挙法の改正に反対の意を表していたようだ。
青苗法とは春の植え付け時期に政府が資金を農民に低利で貸し付ける政策で、当時地主層が金貸しで民衆から暴利を貪っていた地主層は反発、蘇軾は官吏が暴利を貪るようになった時に歯止めが利かないことを懸念して反対した。
科挙法の改定については詩賦を科挙の項目から抜くことに異議があったようだが、詳しい反対理由はさっぱり…。
とはいえ蘇軾は新法全てを否定したわけではなく、宋の皇室の授官を制限し、軍備拡張をすることは賛意を表した。
ただ、基本的には新法に反対し、科挙の問題でそれとなく新法派を批判する問題を作ったところ、王安石は激怒した。
侍御史(監察と弾劾をつかさどる官職)で、王安石の相婿謝景温は蘇軾が喪中に塩を国家の許可なく売ったとして弾劾した(当時、塩は国の認可した人しか売れなかった)。証拠が無かったので投獄は免れたが、蘇軾は身の危険を感じ、地方への赴任を希望するようになった。

この頃の蘇軾は精彩を欠いていたようで、この時期の彼の詩や政治論文は中身がないとか、「平凡な作品である」とかなかなか辛辣な評価をされている。
実はここが彼の人生の分水嶺だったのかもしれない。

地方へ赴任

蘇軾が赴任した場所。番号は赴任した順番。
画像引用元はhttps://www.d-maps.com/carte.php?num_car=31272&lang=j

1071年(熙寧きねい四年)、蘇軾は念願だった地方への赴任に成功する。まずは、杭州に赴任し、煕寧7年までそこで過ごした。
杭州での彼の功績として有名なのが蘇堤だが、この在任中に作られたものではない。
この蘇堤以後も度々治水工事で蘇軾は功績をあげている。杭州在任中の作品としては、水車を題材にした珍しい詩賦「無錫道中、水車を賦す」や農家の女性を歌った「於潜の女」、杭州の景色を歌った「有美堂暴雨」などがある。

1074年(熙寧きねい七年)から1076年(熙寧九年)まで密州で過ごした。
この密州赴任のその年に蝗害に見舞われ、秋の税の免除を中央に求め、彼は斎戒して精進料理を食べて過ごした。
これ以前から何度か飢饉が起きていたため、子供を捨てる家庭も多かったようで、蘇軾は捨てられた子供たちを養うために倉庫を開いてコメを支給した。このおかげで数千人の子供は生き延びることができた。
災難はあったが、開封での生活よりはまだマシだと蘇軾は思っていたようだ。

その後徐州へ赴任し、1077年(熙寧十年)から1079年(元豊二年)まで過ごした。
赴任から3か月して、黄河の堤防が決壊し、多くの街が水浸しになる災難に見舞われ、その修復工事に追われた。蘇軾は家の前を通っても家には帰らず、この修復工事に専念し、この作業についての詩をいくつか残した。
また、石炭の産地を探して、民衆が暖を取れるようにして、「石炭」という詩を作った。
この徐州赴任中に蘇軾の名声は知識人層で広まり、彼に師事する人々も増えた。
その中には宋の四大家の一人黄庭堅こうていけんがおり、他にも「蘇門六君子」、「蘇門四学士」と後世称えられる人を輩出、そのほか数百人の門弟を持った。
彼は後進の育成に熱心だったが、自身の好みの作風を押し付けることはなく、門弟の作風、個性は尊重していた。
彼の門弟だからといって作風が同じということはなく、それぞれ趣が異なる作品を残しているそう。

その後湖州に赴任した。そこで、『湯村開運塩河雨中督役』、『呉中田婦嘆』といった詩を残した。
ただ、仕事に追われ、中々創作に力を注ぐことは出来ないでいたようだ。

投獄の憂き目に遭う

なんやかんや充実した日々を過ごしていた蘇軾は湖州に赴任してから僅か3ヶ月後に突如開封からやってきた役人に逮捕、投獄された。

この原因は、新法批判の詩をいくつも書いたことだった。
これに新法派は激怒し、何度も彼を弾劾していたことで、この新法批判の詩とされたものには、新法批判の意図は無いものあり、単純に蘇軾が気に食わなかった新法派の弾劾という側面が強い様子。
そして、投獄された蘇軾は政敵の差し金で虐待され、危うく殺されかけた。
だが、仁宗の后だった曹太后や新法派の章惇、退職していた王安石までも彼の死刑に反対し、投獄から130日後に出獄できた。
こうして烏台詩案と言われる事件は幕を閉じた。
ただ、完全に無罪放免というわけではなく、黄州(現在の湖北省黄岡市)に左遷され、公文書への署名・副書が禁止された。流刑と言っても良い待遇である。
さぞ、憔悴したことだろう…と思いきや意外にも「このようなことは役人の世界では珍しいことではない。だから、この過失を深く追及することは必要は無い」と言い、また詩を書くこともやめなかった。

黄州、汝州にて

黄州の位置。
画像引用元はhttps://www.d-maps.com/carte.php?num_car=31272&lang=j

黄州に行った蘇軾はそこで苦しい生活を強いられることになった。弾劾を気にして考えて友人と会うのも憚り、知人にその苦悩を漏らしている。
また経済的にも中々困窮した。それを見かねた馬正卿という人が土地を借りて蘇軾が耕作できるように図ってくれた。
彼の号「東坡居士」はこの土地が旧兵営の東側にあったことに由来しているそう。

この頃の蘇軾は儒教だけでなく、老荘思想や仏教的な思想も取り入れ、悪く言えば現実逃避の傾向を見せ、よく言えば不遇の環境でも動じない姿勢が現れるようになった。ただ、それまでの志を捨てたわけではなく、貧困の生活の中で庶民と交流を深め、貧しい庶民の生活に心を寄せている。
新法派の重鎮で、弁護してくれた章惇に宛てた手紙に、「新法に反対したことを思えば、本当に道理に外れていて、病気で狂った人が川に入って海に飛び込むのと変わらない」と後悔の旨を綴っている。このことから蘇軾の新法に対する認識は変わっていたとも言われる。

汝州の位置
画像引用元はhttps://www.d-maps.com/carte.php?num_car=31272&lang=j

1084年(元豊七年)に、蘇軾は汝州へ転任することとなった。依然として政治的実権は取り上げられたままだった。
その道中、病床にあった王安石と対面した。王安石とは当時の宰相呂恵卿への認識で一致し、すっかり仲を深めた(まあその呂恵卿を推薦したのは王安石なのだが…)。
そして、王安石は彼に三国志の再編集を頼み、また隣に住んではどうかね、と提案した。
蘇軾はこの二つを受け入れたが、隣に住むことは叶わなかった。
さて、蘇軾は移動するのも疲れたのか常州に住むことを朝廷に願い出て、これが許されたので常州に住むこととなったが、1085年(元豊八年)に神宗が亡くなり旧法派が復権したことで、不遇の蘇軾にも転機が訪れる…というところで力尽きたので、次回はこの続き、彼の晩年について語ろうと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。


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