【Face to Face】森と人
私たちは森があることで、多くの恩恵をいただいてきた。今後も森の恩恵を継続的に受けられるように、森の成長を支援していきたいと思う。

今年の6月は、5月よりは気温が高くないと感じました。昼、太陽の日がさしているところでは、気温が高いと感じましたが、日陰に入ると涼しく、寒く感じる日も多くあったように思います。梅雨に入っているので、雨が降る日も多くなりましたが、雨の合間をぬって家の周りの雑草を取りました。雑草といっても、ちゃんと名前は存在していますが、自分が認識している場所に存在してほしくない植物は雑草と呼ぶと思います。作物を作る農家の方にとれば、作物以外、作物に害を与える植物は雑草と考えていると思います。私たちの生活している空間の僅かな土の上にも、雑草は生えてきます。気がついた時に大きく成長していて、その生命力には感心します。私たちの周りにある雑草と言われる植物は、最初からこの様な生命力があったのではないと思います。長い年月をかけ、厳しい環境に耐え、厳しい環境を克服してきたことで、勝ち取った力だと思います。また、雑草は種子から芽を出すと思いますが、茎や葉、根からも芽を出して繁殖する植物もあるそうです。これらを栄養繁殖器官と呼ぶそうです。この栄養繁殖器官が残っていると、雑草は生え続けるということです。これも雑草が勝ち取った力なのでしょうか。日本では、人が手を加えない土地は自然に草(雑草)が生え、その後、木が生えます。その木々は、やがては森(森林)になるそうです。森になるまでには、相当な時間がかかります。森になるのは、日本のように一定の年間降水量がある地域でのみ起こる自然現象だそうです。そんな森と人の関わりについて考えてみようと思いました。
●避暑地草創初期の軽井沢
先日、避暑地気分を味わいながらゴルフをやろうと、常連のゴルフ仲間と軽井沢へ行きました。

避暑地というと、木々に覆われた別荘が建ち並ぶ場所をイメージすると思います。特に軽井沢というと、そのようなイメージが強いように思います。その軽井沢は、昔から木々に覆われていた場所ではなかったそうです。元々、火山活動が活発な地域であり、山の崩壊やそれによる川の堰き止めによって湖が形成され、その後の噴火による火砕流が湖を埋め尽くし、現在の1,000mの高地に平坦な地形ができあがりました。従って、避暑地草創期であった明治時代の軽井沢は、木々が少なく、原野の占める割合が高かったようです。樹木がない荒涼とした平原では、牛馬飼育が行われていたそうです。春から秋にかけて山野に牛馬を放牧し、冬季は小屋で飼うといった土地を活かし季節の流れに沿った牛馬飼育でした。そのために、樹木がない広面積の平原は、牛馬の餌や肥料となる草を採るための採草地に適していました。この樹木のない荒涼とした平原と山々の風景が、スコットランドやカナダの山地に似ていたことから、避暑地草創の初期に滞在した欧米人が郷愁を感じ、軽井沢を開拓したと言われています。平原から周囲の山々へと繋がる広大な風景は、現在も主に町の南側の地域に残されています。
●森に覆われた軽井沢
ただし、荒涼とした平原が大半を占めていた一方で、旧軽井沢北部の小瀬地区や北東部の碓氷峠一帯には、古くから高木が密生していました。明治期以前から燃料確保のために薪炭(薪や炭)の生産が、自生の木々によって行なわれていました。その中でもモミは、木材としても薪炭としても利用価値が低かったため利用されず残されていました。また放牧が衰退していったことで、平原を覆っていたススキが、シラカバ林やクリ・コナラ林またはクヌギ ・ミズナラ林という形で、落葉広葉樹林へと変わっていきました。その後は、大規模な植林でカラマツ林も加わり、現在のような平原もある中で、多くの広葉樹と針葉樹が存在する別荘地軽井沢が形成されました。欧米人の避暑地として始まった軽井沢ですが、日本人も避暑地としての価値を認め開発が進められていくことになります。
●避暑地・別荘地軽井沢
避暑地として日本中に広く知られると、鉄道が整備されホテルも建設されていきます。地域の繁栄を維持しようと商業主義的な考え方が加速していくことになります。しかし、軽井沢町は過度な商業化を抑制し、健全な風俗を維持するための条例などを制定して、健全な環境を維持する努力を続けてきました。一般的に観光地化が進んでいくと自然環境が破壊され、大切な森林が失われることが多くあります。その中でも、避暑地・別荘地軽井沢は、いわば「限られた人々の避暑地」「高級別荘地」というイメージが保たれています。大衆化が進んだ現在においても、そのイメージは一向に失われず、むしろ以前にも増して強調されているようにも感じます。避暑地草創期には森林がなかった軽井沢ですが、現在では森林浴が楽しめる避暑地・別荘地となっています。この先どのようになっていくかは、この場所を活用する私たちの意思によります。これからの軽井沢が森林に囲まれた環境を維持するには、今までの取り組みの継続と更なる努力が必要だと感じます。
●森と日本人の関わり
さて、日本人が森と関わり出したのは、縄文時代だと言われています。森の動物や木の実、山菜、キノコなどを食料にし、火を焚くための燃料として木を使っていました。稲作が始まった弥生時代には、水田耕作の肥料としても森の資源が使われるようになります。このように、農耕が始まるより前から、森は日本人の暮らしに溶け込んでいました。燃料や肥料として森の資源を使うという歴史は、とても長い間続いていました。昔話で「お爺さんは山へ柴刈りに…」というフレーズを聞くことがあると思います。この柴刈りとは、山に生えている雑木やその枝を刈ることを意味し、薪集めのことを指しています。石炭や石油という化石燃料が使われる前は、薪集めした木を燃料にする生活が当たり前でした。この薪集めという行為は、生活のために必要であったと同時に、森林の育成にも欠かせないものであったようです。薪集めは現在の間伐と同じようなことで、森に日が差し込むように木と木の間に隙間を作る行為だったと言われています。しかし、木材の需要がドンドン進むにつれ、森林の乱伐が増え、禿げ山と化した山は洪水の原因となっていきました。それを防ぐために、禁伐林などを指定する保護林政策や伐採禁止などの取り締まりが行われてきました。その後は化石燃料の活用が進むにつれて木の需要が減り、人の手が入らぬ森林が多くなっていきました。
●森を守る
森が育つには長い年月が必要です。長い期間をかけて育った森は、木がしっかりと根を生やし、土地に多くの水を蓄えてくれています。そんな森を作り上げるためには、木々の間に日が差し込むような隙間を作る間伐作業や次の世代を育てる定期的な植林作業が必要です。間伐することで日が差し込み、下生え(したばえ)という草や低木が生えてきます。下生えがあることで、地表は栄養を多く蓄えることができ、木が根を張る力を維持することもできるようになります。そうなると、森全体が強くなり、風雪害にも耐え、大雨で根こそぎ流れることもなくなるそうです。最近の気候は、地球温暖化により異常と感じるようなものが多くなりました。雨が沢山降った時に、木が生い茂る山で木と山が一緒に崩れるような映像を見ることがあります。木が山の土地にしっかりと根を生やすことができていないのではと感じます。森林を健全に維持することは、私たちを災害から守ってくれる効果も生み出しています。森林の水分の吸収量は裸地の3倍、草地の2倍と言われます。そのような森林(森)を守ろうとするプロジェクトが、いくつか存在しているそうです。自分自身としては直接何もできないかもしれませんが、そのようなプロジェクトを支援していくような活動はできると思います。
●森の成長と森からの恩恵
軽井沢へ出かけたので、軽井沢駅から旧軽井沢方面を散策してみました。旧軽井沢銀座は観光客が多く歩いていましたが、少し外れたお水端通り、旧ゴルフ通り、お気持ちの道やささやきの小径などは、人が少なく軽井沢の自然を楽しむことができました。歩いた場所は、森に覆われた別荘が多く存在し、ゆったりとした気持ちにさせてくれるところです。木々の間からは日が差し込み、木の根元や下草、苔にまで日が当たっていました。軽井沢という地域は、別荘を管理するだけでなく、その土地全体を管理しているため、森もイキイキとしているように感じます。森は長い年月をかけて成長してきました。この森に何の手も施さないと、森はなくなり再び平原になってしまいます。私たちは、森が存在している時に受け取った恩恵も受けることができなくなります。今いただいている森の恩恵を継続的に受けられるように、森の成長を支援していく必要性を感じます。森と人とのかかわり方をこれからも考えていこうと思いました。











