「時間」についての考察(9):「時間」にとって同一性とは何か?(とある体験から)
今回は、「とある体験」について述べ、そこから次のこと🌱を説明してみます。
🌱認識は、像によって行われること
🌱認識とは、再認であること
「時間」についての考察の一部です。
(少々の文献を頼りに、自分自身の認識の世界を探索する、その記録です。面白く読んでいただけると幸いです)
1 とある体験
少々不思議な「とある体験」を示します(昔読んだものの記憶の断片から空想したもので、出典は不明です)。
(1)左手に、何か円錐を逆さにしたような硬いものを乗せている。それは、外側に青色のまだらがあって内側は白い。
(2)その何かの中に、ぴかぴか光る所のある小さな白い粒々が、底から上の方までぎっしり積まれている。
(3)積まれた上に、何か白いものが漂っている。
(4)何かにおいがする。
(5)顔を近づけると、何だか温かい。
(6)手前に、細長い2本の棒がある。
2 「とある体験」についての説明
この「とある体験」は、認識の機能に支障があるときの体験です。
体験者の全器官は「一膳のご飯」に定位しようとし、感覚(刺激の受容)しようとしています。
しかしこのとき、本人にとって感覚は不意打ちであり、本人の目の前に現れるのは色彩の氾濫なのです。
「一膳のご飯」に定位しようとするものの、世界は混とんとしていて、途方に暮れます。
「これはいったいなんだ!」。
ここには、同一性など見い出しようがありません。
3 感覚を像に構成すること
感覚は、感覚したままでは色彩の氾濫でした。
🌱感覚 →色彩の氾濫
認識の機能に支障がなければ、感覚は、像に構成されます。
🌱感覚 →(構成)→像
像とは、イメージのようなものが基本です。ただイメージは、諸感覚のうち視覚だけの像です。
像には、この基本のイメージに、視覚以外の感覚が多様に参加しています。
こうした像は、一般に思い浮かべるイメージより、重かったりしっとりしていたり慈しむべきものだったりします。
像について、村瀬学は次のように述べています。
つまり人間の身体は、特定の場に置かれると視覚や聴覚、触覚等はその場に応じた定位をとる。それは<相>としての環界の受けとめである。ところが人間だけがそうした<相>を、場に類似したものとしての<像>として受けとめ直す機序をもつに至ったのである。感覚の差異(視覚-聴覚など)は、そうした環界のもつ様々な<相>の差異に即応するものとして形成されてきたものである。
「とある体験」には、次の表のように4種類の感覚(視覚、臭覚、温覚、触覚)が登場しています。(本来は)これらの感覚は構成され、最終的に「一膳のご飯」の像になります。

像の構成は、興味深いものです。「基本像の構成+参加」と二本立てとなっています。
まず視覚は、基本像に構成されます。そして、この基本像に臭覚、温覚、触覚が参加するのです。
🌱視覚→(構成)→基本像
基本像は、視覚(目に見えるもの)を構成したものなので、形や大きさや色から成ります。
「茶碗」、「模様」、「炊いた米」、「湯気」、「箸」が現れます。
🌱臭覚、温覚、触覚→(基本像に参加)→感触
臭覚、温覚、触覚は、基本像において、感触として現れます。
例えば触覚は、「(基本像の)茶碗が備えている感触」です。触覚は、皮膚-で-感じる感覚ですが、(基本像の)茶碗-に-感触として感じられます。これが「触覚が基本像に参加している」という意味です。
4 像によって「一膳のご飯」を認識すること
さて認識とは、感覚から構成された像によって行われるものでした。定位から始めると次のようになります。
(1)定位し
↓
(2)感覚し
↓
(3)その感覚を像に構成し
↓
(4)その像によって認識する。
「とある体験」は、「(3)その感覚を像に構成し」の段階に支障があり、認識に進むことができないもの、と考えることができます。
この支障を解消すると、「とある体験」は、次のような認識の体験となります。

(🌱1)円錐を逆さにしたような硬いもの(を手に乗せている)、外側に青色のまだらがあって内側は白い→「模様のある茶碗」
(🌱2)ぴかぴか光る所のある小さな白い粒々→「炊いた米の一粒ずつ」
(🌱3)白いものが漂う→「炊いた米から立ち上がる湯気」
(🌱4)何かにおい→「炊いた米から立ち上がるにおい」
(🌱5)何だか温かいもの→「炊いた米のご飯の温かさ」
(🌱6)細長い2本の棒→「箸」
(🌱7)混沌の全体→自分の前の「一膳のご飯」
(🌱1)から(🌱6)までは、それぞれ個々に像です。個々の像を一つにまとめたのが(🌱7)の「一膳のご飯」という像です。
こうして、色彩の氾濫に戸惑うしかなかった姿は回避され、「一膳のご飯」を前にしっかりした姿となることができたのでした。始まりの定位もここで完成するのです。
5 再認について
感覚が像に構成されることを述べてきました。ただ、この構成は、0から始まるものではありません。実は、元となるものがあるのです。
詳しくは[参考]で述べますが、元になる像は、私たちの心内にあります。
今、新たに茶碗を見て感覚すると、その新たな感覚は、心内にある茶碗の像に吸収されます。
元になる茶碗の像は、新たな感覚を吸収して再現します。この再現したものが今の茶碗の像となるのです。
「新たな像の構成は、元の像の再現によって行われる」ということが「認識とは再認である」ということの内容です。見ることでいえば、「以前見たものを再び見い出す」ということです。
「1回目の認識」、そして「2回目の認識」という二つの認識を観察してみます。
「1回目の認識」では、目の前のもの(心からいえば外のもの)から諸感覚(視覚、聴覚、触覚など)を感覚し、それらを像に構成し、認識しました。
このとき構成された像は、(目の前のものがなくなって)像を構成した諸感覚から切り離されたときどうなるか?
そのとき、諸感覚が失われるのに伴って像も消える、ということはありません。目の前のものがなくなっても、像は消えないのです。
諸感覚が失われても、構成されたその像は、心内に残ります。これを心内像といいます。
心内像は、「水分を失った乾燥わかめ」に例えることができます。認識を担わなくなり、心内に沈んでいます。
「2回目の認識」は、目の前のものにふと気づくことから始まります。その気づきとは、目の前のものからの諸感覚によって、沈んでいたいくつかの心内像の一つが浮上するということです。
浮上した心内像は、諸感覚を積極的に吸収します。吸収するのは、1回目にこの心内像を構成した諸感覚に相応した諸感覚です。
目の前のもの(心にとっては外のもの)からの諸感覚を十分吸収したとき、心内像は再現し、現実の像となります。
これをコピーと考えれば、心内像はコピー元であり、現実の像はコピー先ということです。
6 再認の具体例
再認の具体例を二つお示しします。
🌱群衆の中から一人の友人を見分ける。
初めに、「友人A」かな?という人が視野の端に写ります。それに気づく(心内像の浮上)とすぐ、視線を向けます。全体の形、顔の形、歩き方、髪型、目、鼻、口とせわしなく視線を移していきます(定位し、感覚を吸収する)。このとき、自分の心内像「友人A」と比較しながら、繰り返し照合するのです。吸収すべき感覚の照合です。
照合するたびに「友人Aかな」(類似)は、坂を転がるようにどんどん「友人A」(同一)となっていきます。照合はどこかで完了し、そのとき、「友人A」を確定します。
このときの照合は、記憶にある「友人A」を思い出すのとは違っているようです。本物の「友人A」が実際に現れたことにより、心内像「友人A」がおのずと呼び覚まされて行うのです。
心内像は、驚くほどデリケートで切実なものです。歩き方の癖とか、髪型が風でなびくそのなびき方まで(記憶にはなかったことまで)照合しているのです。
🌱道端の知っている草花に触れる。
道端に草花が咲いているのに気づきました(心内像の浮上)。もっとよく見たくて(心内像が感覚を吸収したくて)、数歩近づきます(感覚のための定位)。さらに、目の前に見えるよう、しゃがみます(感覚のための定位)。すると、手の届くところに草花があり(そのことにより触覚受容器が活性化)、つい手を伸ばし、触れます(心内像に参加していた触覚を吸収)。
7 再認と同一性
「認識が再認であること」をくどくどと述べてきました。
この再認ということから、同一性を説明できないかと思うのです。
🌱1回目の認識と2回目の再認との間に、🌱コピー元とコピー先との間に、🌱乾燥わかめと水に戻したわかめの間に、🌱群衆の中から知人を見つけることに、🌱道端の知っている草花に再び触れることに、同一性があるのだと…
8 次回の予定
同一性について、今回は再認ということから説明してみました。しかし、まだ完成ではありません。
足りないことは、例えば「細長い2本の棒」をなぜ「箸」することができたのかということです。
これは、考えたら不思議なことです。「細長い2本の棒」を「箸」と決めた者が見当たらないからです。もちろん、認識する本人が決めたのではありません。
「細長い2本の棒」と「箸」を結び付けているのは、共同性なのです。
というわけで、次回は、このあたりのことを述べてみたいと思います。
引き続き読んでいただければ幸いです。
9 前回の記事への付け足し
次の[参考]を付け足します。
[参考]
「生き物としての人間がこの地上に生存するためにすること」が定位ということでした。生き物(人間)は、この定位によって感覚をします。
生き物(人間)が「生存のために地上に定位し、刺激を受容すること」を「感覚する」というのでした。
機械と比較をしてみます。
機械は、データーを得るために機器の位置を定め、そのデーターを分析し、情報とする。
位置を定めることは、あたかも定位のようです。また、データーを分析し、情報とすることは、あたかも光などの刺激を受容し、感覚とするかのようです。
ただこの対応は、機能に注目するときだけ可能なのでしょう。
機械は位置を定めることができないと計測できなくなるだけですが、生き物は定位できないと、消滅するしかありません。
「機械-停止」と「生き物-消滅」には、物質と生命という違いがあるように思います。
