短編小説「エモーショナル怪人 エモ山」(82) 芝生と熱中
前回のエモ山はこちらです。👇
芝生広場はディストピア並みにしんとして、
丘陵のあちこちにぽつねんと立たされた木々も、
太陽が、その足もとに、影でぎっちり縄縛りするせいで、
いつもにもまして動けない。
俺だってくらくらして、汗なんか、とっくに乾いている。
たとえばここが、広場じゃなくって別空間で、
芝生の目を刺すグリーン色が、刈りそろえられたじゅうたんじゃなく、
芝生の一本一本も、
芝生じゃなくって空気の粒、音の粒、温度の粒みたく見えてくる。
俺の目の前で、広場はグラフになる。
盛り上がったりへこんだりの隆起は、
上がったところが高い音、下がった部分は低い音みたく見えてきて、
そして静止している。
歯ぎしりみたいなセミの声がする。
一匹が鳴きだすと、全体が呼応して、
声は振動となり、空気を動かそうとする。
その音にはきっと、
炎天下の木々の叫びも混じっている。
だけど動かない。
声はあまりにも遠い。
もうここは、満員だ。
芝生広場は熱さで満員。
あちこちに。
くっきりと。
歯ぎしりみたいにしつっこく。
しぱぴんっ。
しぱぴんっ。
これはまぼろしではない。
チーママが、
バットを振っている、この光景。
芝生に裸足でふんばって、遠くをにらみ、
両手で握った木製バットを、ぎりぎりと、耳のうしろにまで引き下げて、
しぱぴんっ。
すかさずぎりぎり引き下げて、
しぱぴんっ。
俺は呼び出されたのだ。
芝生広場に。
チーママに。
召喚されたはいいものの、
さっきから、ずっとこの調子なのである。
しぱぴんっ。
クリップで束ねた後ろ髪が、うなじにこぼれおちていて、
バットを振るたびに、さらにこぼれ落ちる。
白のショートパンツは、
裾を切られ、もっとショートにされていて、ほつれた太い糸が、チーママの太ももにはりついていた。
しぱぴんっ。
サンダルは、ちょっと離れた場所に、片方は、ひっくり返り、
もう片方は、芝生に半分沈んでいる。
俺が広場についたとき、
もうそれは、始まっていた。
しぱぴんっ。
俺がやってきたことに気づいても、
汗で貼りついた前髪の下の目は、遠くに向いたまま、
しぱぴんっ。
犬はいなかった。暑すぎるからだろう。
チーママは、ひとりだった。
犬がいないなら、俺は犬のかわりに、ここに呼び出されたのかもしれないと思った。
しぱぴんっ。
遠くでセミが鳴いている。
鳴いているが、やけっぱちだ。
額の汗が目に入り、チーママは、バットを引いたまま、片目をつぶる。
「素振り」
そう言って、
しぱぴんっ。
バットを振った。
ボールのかわりに、汗が飛んだ。
素振りだと言いながら、チーママは、力いっぱい振っていた。
チーママにしか見えない球を、打っているように見えた。
久しぶりですね、とか、そういうことばを、
言ってもよかったんだけど、
別にひさしぶりってほどでもないような気がした。
考えてみると、バー『情念』にはしばらく行ってないけど、
最後に行ったのって一か月前くらいかな、
だからチーママに会うのも一か月ぶりなんだけど、
それって久しぶりって言える?
空には雲ひとつなくて、太陽だけが眩しくて、
俺は体が空っぽになる気がした。
それで、
自分のなかを過ぎた時間を数えることができないような気がした。
「暑くないすか」
空を見たまま、俺がチーママに訊くと、
「暑いっ」
チーママは、叫ぶみたいにこたえると、バットを振った。
しぱぴんっ。
タオルとか、そういうものは、持ってきてないみたいだった。
チーママからメッセージが来て、その足で来たから、
俺もなにも持ってきてない。
飲み物でも買ってくればよかったけど、
犬の散歩だろうなと思ってたから、買ってこなかった。
ひとっこひとりいない芝生公園を、汗だくで巡り巡って、
やっと見つけたチーママが、
こんな場所で素振りしてるとは知らなかった。
自販機も通り過ぎてきたけど、それはもうすごく遠いところにある。
俺のアパートからエゴ山が消えて、
だからってあいつを探すとか、
そういうことはできないなと俺は思っていた。
俺は自分がそういうものではないと思っていた。
理由はないけどそういうものではないと思った。
また夏が来て、
すでに相当暑いけど、
去年の暑さのことなんかもう忘れていて、
そんなことは覚えておく必要もなく、
とにかくただ、今年の暑さに耐えるしかない。
それと同じだと思っていた。
俺は突っ立って、チーママを眺めた。
チーママは、俺をちらっと見て、すぐに目をそらす。
「素振りっ」
と言って、バットを振る。
しぱぴんっ。
チーママが打った見えない球を、目で追いながら、
俺は犬のかわりなんだろうな、
と、思った。
芝生の丘陵の、へこんだ部分の、底の浅い穴ぼこの部分が、
ちょうど俺のこめかみに、ぴったりはまるような気がする。
俺は頭が痛くなってきていた。
汗はとっくに乾いていて、頬がほてっていた。
チーママは、なぜやめないんだろうと思った。
俺は見ているだけで体の筋が痛くなってくるような気がした。
手にもほんの少しだけ、汗が戻ってきた。
木製バットのグリップを握っているような気さえしてくる。
グリップは汗でぬるついてて、
力を入れないと、振り切った瞬間に、バットはすぽんと飛んでいってしまいそうだった。
だから俺は両手を握りしめた。
飛んでいってしまうものがあるような気がした。
「50円玉」
チーママが、バットを構えたまま、俺を呼んだ。
「ん?」
チーママが、
握ったバットを、耳のうしろに引き寄せて、唇を舐めた。
遠く一点を見て、
「あのね」
しぱぴんっ、
って鳴ると思ったら、
ぎざぎざの、横棒みたいなセミの声がそれを消した。
チーママの素振りは、空振りのようになった。
最初の一声が磁石で、そこに吸い寄せられるように、
セミの声が、そこかしこ、繋がってくみたいに連鎖して。
俺は芝生に
尻もちをついた。
膝の力が抜けちゃった。
チーママは、その俺に気づき、バットを下ろすと、
手のひらをショートパンツで拭った。
俺は座っていられずに、芝生に横たわる。
うなじに芝生がちくちくした。
閉じたまぶたの向こうでも、
まだ太陽はぎらついてて、
俺はさらにもっと目を閉じたいと思った。
この光を消してくれと思った。
すると光は突然遮られ、
目を開けると、
芝生に横たわった俺を、チーママが上から覗き込んでいた。
チーママが太陽を遮って、
俺に影を作っていた。
(続きます)

