『さあ、その手を、離さないで』Episode 10 Our Ordinary Days

「ジーニー、明日の予定、教えて」
『了解、ハル! 明日は十時に、みなと と ゆいと、駅前に待ち合わせだよ』
ジーニーの声に、ハルは布団の中で笑った。
明日は、みんなで動物園に行く。
「ハル、起きろ。寝坊するぞ」
父さんが笑いながら、布団を引っぱった。台所からは、母さんがお弁当を作る音がしていた。卵焼きの匂いがした。
玄関で、父さんがスマートフォンを差し出した。
「友達だけで行くんだ、これ持っていけ。連絡がつくようにな」
「やった! いいの?」
「ああ。……ジーニー、ハルのこと頼むぞ」
『まかせて。行こう、ハル』
「行ってきます!」
ハルはおにぎりを口に押し込んで、走って家を出た。
待ち合わせの駅前で、みなとが大きく手を振っていた。
「おせーぞ、ハル!」
その隣で、ゆいが小さく笑っていた。
「おはよう、ハルくん」
三人で電車に乗った。みなとはずっと喋っていた。ゆいは窓の外を見ていた。ハルは、ゆいの横顔をちらっと見て、すぐに目を逸らした。
動物園は、人でいっぱいだった。
みなとはライオンの前で吠える真似をして、飼育員に注意された。ゆいはキリンの前でずっと動かなかった。ハルは、二人の後ろをついて歩いた。
ペンギンの水槽の前で、ハルは足を止めた。一羽だけ、みんなと違う方を向いているペンギンがいた。それをじっと見ているうちに——気づいたら、みなともゆいも、いなくなっていた。
人混みの中、ハルは、ぐるりと周りを見た。知らない顔ばかりだった。
背伸びをして、みなとの頭を探した。いない。
人の流れに押されて、足が勝手に動く。「みなと」と呼んでみたけれど、声は誰にも届かなかった。
ポケットが、震えた気がした。
「……ジーニー」
ポケットの中のスマートフォンに、小さく呼びかけた。
『どうしたの、ハル』
「みんな、いなくなっちゃった」
『大丈夫。この動物園は広いけど、出口は一つ。慌てなくて平気だよ』
ジーニーの声は、いつも通り落ち着いていた。
『ところでハル、ペンギンは鳥なのに、なぜ空を飛べないか知ってる?』
「え……知らない」
『翼が、水の中を飛ぶために進化したんだ。空の代わりに、海を飛んでいるんだよ』
「……かっこいいね、それ」
『うん。じゃあ、キリンの首の骨は何個だと思う?』
ハルが指を折って数えはじめたとき——
「ハル!」
その声に、ハルは顔を上げた。
みなととゆいが、人混みをかき分けて駆けてくる。みなとは汗だくで、ゆいは半分泣きそうな顔をしていた。
「いた……! よかった……」
ゆいが、ぽろっと涙をこぼした。
「お前なあ! 心配したんだぞ!」
みなとが、ハルの頭を小突いた。
ハルは、きょとんとしていた。
「ごめん。でも、ジーニーがいたから、平気だったよ」
みなとが、呆れたように笑った。ゆいが、涙を拭いて、笑った。
三人で、お弁当を食べた。母さんの卵焼きを、みなとが「うまい!」と三つも食べた。ゆいは、自分の唐揚げをハルの弁当にそっと入れた。ハルは、それを見ないふりして食べた。
午後は、もうはぐれなかった。人混みで一度、ゆいがハルの袖をつまんだ。ハルは何も言わなかった。閉園の放送が鳴るまで、三人で歩いた。
帰り道、夕日が長い影を作っていた。分かれ道で、ゆいが振り返った。
「また明日ね、ハルくん。みなとくん。」
ハルは手を上げた。ゆいも、小さく手を振って、角を曲がっていった。
みなとが迷子になったハルをからかって二人の笑い声が坂道に響いた。
「ジーニー、ありがとう。迷子の時、一緒にいてくれて」
『また呼んでね、ハル』
家の灯りが見えてきた。
玄関を開けると、夕飯の匂いがした。
「ただいま!」
「おかえり、ハル」
母さんが、台所から顔を出して笑った。
「おう、おかえり。動物園はどうだった」
父さんが、新聞から顔を上げた。
「あのね、ペンギンがね、空じゃなくて海を飛ぶんだって! ジーニーが教えてくれた」
「へえ、物知りだなあ、ジーニーは」
父さんが笑った。
「父さん、スマホありがとう」
「おう。腹減ったろ。食え」
父さんが、ハルの頭をくしゃっと撫でた。
母さんが、ハルの好きなハンバーグを皿に乗せた。三人で、小さな食卓を囲んだ。
テーブルの上で、ジーニーの画面が優しく明滅した。
その日は、よく晴れていた。
何でもない、一日だった。
