日本銀行券
仕事を終えて、整形外科へ向かった。
リハビリの日だった。
道を半分ほど走ったところで
今日が祝日だったことを思い出した。
そうか、休みか。
仕方がないので、通り道にある
馴染みの珈琲屋へ寄ることにした。
珈琲を飲み始めてから
今朝会社へ持って行った桃のコンテナを
そのまま置いてきたことに気がついた。
「ああ!ぐぬぬ。うんちめ!」
珈琲を飲み終えて、また会社へ戻る。
珈琲屋の帰りには「 いつものお礼」と言って
また松茸を持たされた。ごち。
桃を配って、松茸をもらう。
昔から、こんなことは珍しくない。
胡瓜が採れすぎたからと抱えさせられたり
とうもろこしを渡されたり
庭の野菜を分けてもらったり。
今日は帰りに、買ったのに住んでいない家に寄り
植えてある植物へ水をやって
スベリヒユを摘んできた。
結局、コンテナを取りに行っただけなのに
帰る頃には荷物が増えている。
そんな日はよくある。
昔、私は現金のことを
「日本銀行券」と呼んでいた。
少し他人行儀だった。
嫌いだったわけではない。むしろ気にはなってた。
ただ、私の暮らしの中では交換の主役ではなかった。
桃が松茸になった。
スベリヒユがイタリアンの夕飯になり、
「ありがとう」が
次の誰かへの土産になって巡っていく。
そんなことの方がずっと多かった。
だから紙のお札は、
「日本銀行が発行している便利な交換券」
くらいの認識だった。
最近は違う。
日本銀行券も好きだ。大好きだ。
むしろ愛している。ください。
約束を守るためにも必要だし
家を維持するためにも必要だ。
働いた対価として受け取りまた誰かへ渡っていく。
考えてみれば
水と愛とキャッシュは循環している。
昔は、物々交換とわらしべ長者で何とかなると思っていた。
今でも結構なんとか出来る。
だからといって
日本銀行券を遠ざける理由にはならなかった。
その輪の中に
日本銀行券もちゃんと居場所があった。
もう黄金の光のように振り注いでくれていい。
いくらでも循環する。
いつでもWelcomeになった。
水と愛と現金は流通させるべきだ。
うむ。
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大変嬉しゅうございます。すき。