アナログ派の楽しみ/スペシャル◎やぶにらみ芥川龍之介(創作大賞2026応募作)
やぶにらみ芥川龍之介
百足 ちっとは足でも歩いて見ろ。
蝶 ふん、ちっとは羽根でも飛んで見ろ。
――芥川龍之介著『侏儒の言葉』より
◎芥川龍之介 著『蜘蛛の糸』
まっさかさまに地獄へ
転落した罪人のその後は
芥川龍之介の作品のなかで、わたしがとくに興味を掻き立てられるのが『蜘蛛の糸』(1918年)だと言ったら奇異に聞こえるだろうか。理由はこうだ。華々しく文壇にデビューして間もない時期に、鈴木三重吉が創刊した雑誌『赤い鳥』のために初めて児童文学を書いたという経緯から、とかく一言一句まで技巧を凝らしがちな芥川にしては平明なつくりで、そのぶん、かれの心底にあったものが垣間見えるように思えるからだ。
あらすじを紹介するまでもないだろう。ある日、お釈迦さまが極楽の蓮池を覗くと、はるか下方の地獄ではおびただしい罪人たちが苦しみもがく光景が広がっていたところ、そこに犍陀多(かんだた)の姿を認める。この男は人殺しの大泥棒なのだが、かつて小さな蜘蛛を救ってやったことがあったので、せめても報いようとお釈迦さまは一本の蜘蛛の糸を垂らしてやる。すると――。
犍陀多はこれを見ると、思わず手を拍って喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいることさえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられることもなくなれば、血の池に沈められることもあるはずはございません。
かくして犍陀多は勢いよく登りはじめたのだが、ふと自分のあとから大勢の輩がついてくるのに気づいて追い払おうとしたとたん、手元で糸が切れてまっさかさまに転落してしまう。そのありさまを眺めたお釈迦さまは悲しげな顔をして、またぶらぶらと歩きだしところで終わる。
この物語はドイツ系アメリカ人の作家、ポール・ケーラスが1894年に発表した仏教説話がもとになっているそうだ。もとより完全な創作で、仏教本来の教えに沿うものかどうかは疑わしく、もしお釈迦さまが犍陀多のなかにささやかなりとも善意を見出したのならば、わざわざ蜘蛛の糸を垂らすといった小細工など弄さずにさっさと引き上げてやると思うのだが、どうだろうか。
むしろ、ここに描かれた極楽と地獄の構図は、あの世の話ではなく、まさに煩悩にまみれたこの世の上下の格差を反映したものと見なしたほうがいいのではないか。さらに芥川自身の立場に即して言うなら、東京帝国大学在学中に同人誌『新思潮』に掲載した作品が文豪夏目漱石に激賞されて新進作家のスタートを切った当時、明暗を分かつごとく、文壇の底辺ではどす黒い情念を孕んだ労働文学が台頭しつつあった状況とも重なって見えてくるのである。
たとえば、宮嶋資夫の『坑夫』(1916年)では、常陸(茨城県)の奥深くにあるタングステンの鉱山を舞台として、文字どおり地獄のような暗黒の地下に生きる労働者たちの姿が描かれる。主人公の石井金次は坑夫として優秀な腕を持っていたが、荒々しい気性で、同僚の不在中にその妻を平然と犯したり、酒に酔った勢いで喧嘩をはじめた相手に匕首をふるって半殺しにしたり……。そんなかれであっても、わが身にまといつく得体の知れない死の影を感じ取ると葛藤が去来するのだった。
彼れは、そのいまわしい脱(のが)れる事の出来ない死の手に抱かれる為に、身を苦しめて働いて疲れたり、怒ったり憎んだり慄えたりして、貧しく果敢ない寂しい日を送らなければならないかと思うと、檻に入れられた獣のような窮屈と疲労を感じた。――世の中にはもっと自由に楽しく生きている人もある――坑夫だって立派な生産を営んでいる以上、それ等の人と同じ生活を為し得る権利のある事を彼れは朧ろげながらも知っていた。
この述懐は、そのまま犍陀多のものだとしてもおかしくないのではないか。芥川の視点は極楽のお釈迦さまとひとつになって微動だにしないのに対して、宮嶋の視点ははっきりと地獄の犍陀多の側に立って放埓なエネルギーを発している。そして、いまは血の池を這いずりまわることしかできないかれらも、労働文学からプロレタリア文学へと向かう巨大なうねりのなかで、やがて大挙して蜘蛛の糸をよじ登っていくことになる。たとえほとんどがやはり地獄に転落したにせよ、ついに最初のひとりが極楽に到達したとき何が起こったろうか?
だが、芥川はその成り行きを見届けようとはしなかった。かれが自死するのは『蜘蛛の糸』の執筆から9年後のことだった。
◎菊池 寛 著『恩讐の彼方に』
作者がそこに込めた
本来のテーマは?
ことによると、菊池寛という作家をわれわれはよく知らずにきたのではないか? かれの作品はだれにでもわかりやすい「テーマ小説」と呼ばれて、菊池本人もこうした面をことさらアピールしたフシがある。それは、雑誌『文藝春秋』を創刊して芥川賞・直木賞を打ちだした実業家としての資質が言わせたものでもあったろうが、代表作のひとつ、『恩讐の彼方に』(1919年)を最近久しぶりに読み返してみて、どうやらそうそうひと筋縄で済ませられる事情ではなさそうだと思い知らされた。
この短篇小説はまさしくテーマそのものをタイトルに掲げ、だれでも安心して読み進めて納得できる仕掛けになっているけれど、あらためて考えるまでもなく、プロの作家がのっけからネタバレさせてしまうとはいかにも無邪気に過ぎるのではないか。むしろ、そこにはなんらかの意図があるはずだと疑ってみたら、面白いことに気づいた。作品は四つのチャプターから構成されるのだが、それらが以下のようにはっきりと起・承・転・結をなしているのだ。
【起】江戸の旗本の家来・市九郎は、主人の愛妾・お弓と密通したのがバレて手討ちにされかけたところ反撃して、主君殺しの大罪を負ってお弓とともに出奔する。
【承】ふたりは街道の峠で茶屋を開きながら、その実、人斬り強盗をなりわいとしていたが、お弓の指図で健気な若夫婦を殺めたことで市九郎は罪悪感に駆られて逃げだす。
【転】市九郎はある僧侶の慈悲によって出家し、半生の罪業を償うための旅に出て、豊後国で多くの行人が命を落としてきた難路の掘削に立ち向かい、18年の歳月が流れた。
【結】市九郎のかつての主君の遺児・実之助は仇討ちを決意して各地を行脚し、ついに宿敵と出くわしたものの、半死の態が懸命に槌をふるう相手の姿を目の当たりにして……。
こんなふうに因数分解すると、起・承・転・結のそれぞれが固有のテーマを持ち、ばらばらに独立させても立派に小説として成り立つことがわかる。逆にいえば、それらがまるで紙芝居のように数珠つなぎにされ、タイトルの『恩讐の彼方に』も最後のオチを指し示すに過ぎないせいで、作品全体をとおしてのテーマが作者によってあえて隠蔽されているかのような印象がある。
そこで、もっと距離を取って作品を眺めてみよう。明治の終わりに東京の第一高等学校に入学した菊池寛は、周知のとおり、4歳年下の芥川龍之介らと出会って同人誌『新思潮』に参加して文学の道を志す。ところが、ある学友の不祥事の責めを負って退学処分となり、京都大学に移って、芥川が華々しく文壇にデビューしたありさまをはるか遠くから望むしかなかった。そんなかれに新人作家の登竜門たる『中央公論』からようやく原稿依頼の声がかかったのは1918年(大正7年)のことだった。
菊地はこのとき四つの作品を発表した。まず、7月号に『無名作家の日記』。これは私小説のスタイルを借りて自分のこれまでの不遇の日々を洗いざらい吐露したもので、そこには芥川をモデルにした「山野」という人物が登場して、みずからの才能を鼻にかけてさんざん「俺」をいたぶるいやらしい役回りなのだが、のちに菊地が認めたようにフィクションでしかなく、それだけに『中央公論』編集部は芥川との関係を危惧したにもかかわらず、菊池はそのままのかたちで公にした。ついで、9月号には徳川家康の孫にあたる若い越前藩主がおのれの権力に血迷っていく『忠直卿行状記』、11月号には上記の自分を都落ちさせた学友との凄まじい愛憎模様を描いた『青木の出京』と続き、そして、翌年の1月号にひと区切りとして発表したのが『恩讐の彼方に』だった。
どうだろう? これらの四つの作品も見事なまでに起・承・転・結をなして、菊池がこの時期、ひたすら自己の文学のテーマにしたものが浮かびあがってきはしまいか。「内なる狂気」――。青雲の志を文学の道に託し、そこで芥川という天才と出会った体験によってかれが疾風怒濤の狂気を発し、いよいよみずからも文壇に乗りだすにあたってそんな内面に決着をつけずにいられなかったのも当然だろう。『恩讐の彼方に』もまた、全体をとおしての本来のテーマは主人公・市九郎の「内なる狂気」だったはずだ。ついに隧道が岩盤をくり抜いた最終場面で、かれは実之助に向かってこう告げる。
「いざ、実之助殿、約束の日じゃ。お切りなさい。かかる法悦の真ん中に往生いたすならば、極楽浄土に生るること、必定疑いなしじゃ。いざお切りなされい」
それは、菊池が芥川とのあいだの疾風怒濤の狂気にケジメをつけるために吐きだした言葉でもあったろう。実際、この作品が世に出て間もなく、ふたりは市九郎と実之助のごとく手を取りあって大阪毎日新聞の客員として文筆専業の生活に飛び込み、菊池は新聞連載『真珠夫人』を大成功させて一躍流行作家の仲間入りを果たして、『文藝春秋』創刊へと突き進んでいったのである。
◎芥川也寸志 作曲『オーケストラのためのラプソディー』
音楽は
心臓音につながっている
作曲家・芥川也寸志の没後30年記念として、2019年の春、新交響楽団が池袋の東京芸術劇場で行ったコンサートのことを憶えている。日本の現代音楽の普及に熱心な湯浅卓雄の指揮のもと、芥川の『オーケストラのラプソディー』を冒頭に置き、バルトークの『舞踏組曲』、シベリウスの『交響曲第2番』に進むという、アマチュア団体としては野心的なプログラムだった。
言うまでもなく芥川也寸志は、だれひとり知らない者はないだろう作家・芥川龍之介の三男だ。父親が文名をほしいままにしながら、1927年に「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」から服毒自殺を遂げたとき、也寸志はまだ2歳の幼児だった。が、その書斎に残された手回し蓄音機とささやかなSPレコードのコレクションによって、音楽家の道へといざなわれる。とくに『火の鳥』や『ペトルーシュカ』のストラヴィンスキー作品がお気に入りだった、と本人が述懐している。
一体、どういうものなのだろう? 自身の記憶にないとはいえ、近代文学史上に輝かしい足跡を残し、しかもセンセーショナルな最期によっておそらくは未来永劫、人口に膾炙し続けに違いない、そうした父親のもとに生まれた息子の心情とは……。やがて長じるにつれ、おのれの血をどう受け止め、どうやって独自の人生を切り開いていこうとするのだろうか。
凡人のわたしには想像の彼方にある、そんなラチもない思いをめぐらせながら聴いているうち、音楽は次第に熱を帯びて混沌としたエネルギーがふくれあがり、こちらの血圧も高まってくるのがわかる。この『オーケストラのラプソディー』(1971年)は、46歳のときの作品で、15分ほどをかけて律動的なメロディを執拗に反復させていくオスティナートの手法が用いられている。当日の公演プログラムに、作曲者の生前の発言が引用されていたので孫引きさせてもらおう。
食事の前に心臓音をとっておいてテープで回してわりと大きく増幅して、食事のあと聴いてごらんなさい、一分以内に完全に同じ心臓になりますよ。〔略〕それをスライダクターで回転を早め、少しずつスピードを上げていって、ある速さに達したらテープを止めておいて、心臓音を聴いてごらんなさい。〔略〕止まりはしないけれども、猛烈なショックを受けることは確かだ。音楽というのは、そういうところにつながってないとウソだと思うんだな。
音楽はみんなのもの、と繰り返し訴えて、一部の特権階級の手から解き放つことを宿願として、ソ連の社会主義への共感を示し、うたごえ運動や反核の活動に取り組み、テレビ番組ではいつもにこやかに万人に語りかけ、そして、みずからが設立したアマチュア・オーケストラの新交響楽団の指揮台にしばしばのぼって、颯爽とタクトをふるってみせた英姿がわたしの目にも焼きついている。その63年の生涯を一途に走り抜けた芥川也寸志の心底には、上に引用したとおり、音楽は心臓音につながっている、みんなが生きていることの証だとの確信があったようだ。
それはまた、自殺した高名な父親への息子なりの態度でもあったはず、と受け止めるのは穿ちすぎか。いや、そうでもなかろう。父親自身が晩年のアフォリズム集『侏儒の言葉』(1927年)のなかで、「罪」と題してこんな文章を書き残しているのだから。
「その罪を憎んでその人を憎まず」とは必(かならず)しも行うに難いことではない。大抵の子は大抵の親にちゃんととこの格言を実行している――。
◎宮本顕治 著『敗北の文学』
「野蛮な情熱」――
のちの日本共産党議長の出発点
1988年(昭和63年)2月6日、土曜日、たまたま自宅でNHKテレビの国会中継をつけていたところ、午後6時の放送終了の直前、衆議院予算委員会の浜田幸一委員長がいきなり日本共産党の質問者に向かって「宮本顕治君(実際はミヤザワケンジと言い間違えた)は人を殺した」と叫んで大騒ぎになった。その光景をいまでもはっきり覚えているのは、戦前のスパイ査問事件の疑惑よりも、当時79歳で政治の表舞台から姿を消して久しい日本共産党議長がいまなお政局を揺るがすだけの存在感を示したせいだった。
そんな宮本がかつて、あの「評論の神様」小林秀雄を打ち負かしたことはよく知られている。1929年(昭和4年)に雑誌『改造』が懸賞論文を募集した際、まだ東大在学中の学生でありながら、芥川龍之介の自死を題材とした『敗北の文学』によって、競争相手の小林を退け見事に一位当選を果たしたのだった。その論文はいま読み返してみても、若々しいエネルギーの横溢する力強い分析に瞠目しないではいられない。たとえば、芥川の『侏儒の言葉』のなかの「シェイクスピアも、ゲーテも、李太白も、近松門左衛門も亡びるだろう。しかし、芸術は民衆の中に必ず種子を残している」というアフォリズムをめぐって、こんなふうに論じている。
「いつかは滅びるであろう」いつか、酷薄な社会的現実は、氏の芸術観に、悲壮な認識を与えずにはおかなかった。しかも、芥川氏は「落莫たる百代の後」、氏の作品を愛する誰かに美しい夢を見せることを信じようとしている。氏の軽蔑していた民衆こそ、偉大なる創造力をもって、ゲーテを――そして、氏をも乗り越して突進するものであることを認めた時、芥川氏は、小ブルジョアジイのイデオローグに過ぎない氏の文学も、いつかは没落しなければならないという告知を、新興する階級の中に聴いたであろう。〔中略〕これは、事実上氏自身が自らに向けた否定の刃ではないか。あらゆる天才も時代を越えることは出来ないとは、氏の度々繰り返したヒステリックな凱歌であった。こうした絶望そのものが、「自我」を社会に対立さす小ブルジョア的な魂の苦悶でなければならない。
いかにも快刀乱麻というにふさわしい筆先の勢いに、わたしは鼻づらを引きずりまわされる思いがする。試みに、このとき7歳年上の小林秀雄が応募した論文『様々なる意匠』の冒頭部分も引用してみよう。
吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉という吾々思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。
確かに、小林は高尚な問題意識に立ってレトリックを駆使しているけれど、そのぶん曖昧模糊とした雰囲気がつきまとい、こと論旨の明晰さに関するかぎり宮本のほうが優っているのではないか。もしわたしが懸賞論文の審査員のひとりだとしても、やはり宮本に一票を投じたに違いない。だが、そうした評価の一方で、この論文にはじわじわとこちらを落ち着かない気分にさせるものがある。それは、芥川龍之介の自死という題材を扱うにあたって臆面もなく、今日の言い方では「上から目線」に立ち、あたかも昆虫好きの少年が採集した虫をピンで標本箱に留めて観察するような、圧倒的な厚かましさに由来するだろう。かくして、芥川が小ブルジョア・インテリゲンチャの限界から抜け出せないまま自死へと至る過程をつぶさに辿ったあげく、つぎの結論に達する。
我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判し切る野蛮な情熱を持たねばならない。我々は我々を逞くする為に、氏の文学の「敗北」行程を究明して来たのではなかったか。
「敗北」の文学を――そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて往かねばならない。
小林が『様々なる意匠』に書きつけた文章を待つまでもなく、世の中にひとつとして簡単に片付く問題がないことは小学生だって知っていよう。それにもかかわらず、あえて世の中の神羅万象を敗北と勝利のふたつに割り切って理解しようとするのは、たんに「野蛮な情熱」と開き直って済ませられるものだろうか。とまれ、この『敗北の文学』を出発点として、戦前戦後の激動の時代にそうした生き方を堂々と貫いてみせたのが宮本顕治という存在だったとするなら、あの日、政界の暴れん坊として鳴らしたハマコーが蟷螂之斧をかざして立ち向かったのは、みずからをはるかに上回る昭和のドン・キホーテだったのかもしれない。
◎『芥川龍之介写真集』
ふん、ちっとは
羽根でも飛んで見ろ
芥川龍之介が35歳で自死したのは1927年(昭和2年)7月24日だから、今年(2026年)、百回忌を迎えることになる。没後一世紀を経て、いまだにこれほど文名が盛んなのはもはや奇観というべきだろう。それにはジャーナリズムに聳え立つ芥川賞のゆえと見る向きもあろうが、しかし、他に有名作家にちなんだ文学賞は数多いけれども注目度において遠くおよばないのは、むしろこの賞が芥川の名前を冠したことでめざましい神通力を発揮してきたと見たほうが妥当ではないか。
こんなふうに思いめぐらしたのは、『芥川龍之介写真集』(秀明大学出版会 2024年)のページを繰りながら、あらためてそのただならぬ存在感を受け止めたからだ。
日本近代文学館が編纂した大判176ページの図録は、第1章「芥川龍之介の生涯」。第2章「中国旅行」、第3章「芥川龍之介の家」の三部構成で、芥川の肖像写真約140点を一堂に会したのはまさに圧巻だ。序文で、中島国彦・日本近代文学館理事長がこれらは同館の写真データベースに収蔵されているものであり、「若き日の初々しい姿から、晩年の鬼気迫る表情まで、活躍した二十年足らずの肖像が浮かび上がります。写真が普及する時代となり、残された鷗外や漱石の写真と比べ、数も格段と多くなって、さまざまな個性のある芥川の姿が残されているのです」と述べている。
確かに、幼少期からはじまって加齢とともに変遷していく芥川の風貌が記録されているものの、わたしは不思議な発見をした。華々しく文壇にデビューした大学在学中から、「ぼんやりとした不安」により睡眠薬自殺を図った最期の直前まで、中島理事長の指摘するさまざまな個性というより、むしろどれもこれも同じような顔つきに見受けられるのだ。そう、われわれが芥川龍之介という名前に対して思い浮かべる、黒髪が盛りあがった細面の、広い額の下から鋭い眼差しを向け、口元をきりりと引き結んだ、いかにもインテリゲンチャにふさわしい顔つきだ。
その澄んだ瞳で世界を見据えるかのごとき表情は一体、何を意味しているのだろう? わたしはふいに気づいたのである。芥川は若年にして流行作家となりおおせたときから、たんに写真の普及のせいばかりでなく、みずからあえてジャーナリズムに対して「芥川龍之介」を演じはじめたのではなかったか、と――(その意味では、後年の三島由紀夫を先取りしていたのかもしれない)。
芥川は最晩年の『侏儒の言葉』(1927年)で、「作家」と題してつぎのようなアフォリズムを書きつけている。
百足 ちっとは足でも歩いて見ろ。
蝶 ふん、ちっとは羽根でも飛んで見ろ。
すなわち、かれはここで、時代の寵児としてひたすら「百足(むかで)」のごとく地に足をつけて歩こうとしてきた自己を揶揄してみせたのではなかったか?
実は、この写真集のなかでたった一枚、まるで異なった顔つきの芥川をとらえた写真がある。1924年(大正13年)7月20日、東京・田端の自宅書斎で新潮社が撮影したもので、和服を着込んだ芥川は右手に吸いかけのタバコを持ち、左手を書棚に掛けて、満面の笑みを浮かべている。そもそも歯をむきだしにした表情は他に見当たらない。前後の脈絡から切り離して、これだけを目にしたなら、おそらくわたしも芥川だとは判別がつかないだろう。いわば、このワンショットはまさに、かれが足で歩く「百足」から羽根で飛ぶ「蝶」へと転じた瞬間を記録したものだったのだ。
もしこんなふうに羽根をのばし肩から力を抜いて、別の顔つきの「芥川龍之介」をジャーナリズムで演じていたならば、あるいはもっと長い人生を過ごせたのではないだろうか。ただし、その場合は、果たして一世紀後の現在に至るまで文名を誇ることができたどうかわからないけれど……。
