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アナログ派の楽しみ/スペシャル◎講義「女性誌が果たす役割」

このたび〈バレエ◎プロコフィエフ作曲『ロミオとジュリエット』〉と題した記事で、わたしが20年近く前に慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスで行った講義「女性誌が果たす役割」の一部を使用しましたところ、熱心な読者の方からぜひ全容を知りたいとのリクエストを頂戴しました。そこで、当日、約200名の男女学生に向かってレクチャーしたことをできるだけ記憶に沿って以下に再現してみます。もとより、この間に社会状況が大きく変化し、とくに雑誌を取り巻く環境はすっかり様変わりしてしまったので、いまでは通用しない個所も含まれていますが、そのぶん過ぎ去った時代の証言としての価値もあろうかと考えて、あえて内容の訂正は行わず、読みやすさの面から小見出しをつけました。


みなさんは太陽ですか?


みなさん、こんにちは。中央公論新社からやってきました堀間といいます。本日は「女性誌が果たす役割」のテーマでお話ししたいと思います。

なぜこうしたテーマを立てたかといいますと、もちろん、雑誌というメディアにはさまざまな種類があるなかで、大きく分類して女性を読者対象とする雑誌が販売部数のうえでも広告収入のうえでも圧倒的なシェアを占めていて、このジャンルを抜きにしては日本の雑誌市場が成り立たないといっても過言ではないでしょう。じゃあ、そこにはどんな意味があるのか? わたし自身、『婦人公論』という女性誌の仕事をしてきましたので、そうした体験を踏まえて頭にあることをお伝えしたいと考えたのです。

いま女性誌が雑誌市場を支えているといいましたが、日本に女性誌が現れたのはそれほど大昔のことではありません。ざっと100年前ですから、みなさんの「ひいおばあさん」の時代ですね。『青鞜』〔と板書する〕という雑誌が1911年(明治44年)に誕生して、これが日本で初めての女性誌といわれています。セイトウのトウの字は「踏」ではなく「鞜」で、英語のブルーストッキングの訳語です。近代のイギリスで起こった女性解放運動のメンバーがシンボルとしてブルーのストッキングを身に着け、具体的には政治に参加する権利を要求しました。そのころのこんな映像記録を見たことがあります。上流階級の人々が集まった競馬場で、ひとりの淑女が参政権を訴えてコースへ飛びだすなり馬にぶつかって死んでしまう、すると、紳士たちはレースが妨害されたと怒ったんですね。おそらく、当時の男性にとって女性は愛すべき存在であっても、参政権などといったら、まるでペットの犬猫が政治に参加したいと口にしたかのように感じたのでしょう。日本の『青鞜』も、そうした女性たちの社会的な戦いの気運のなかから生まれてきたのです。

この雑誌の創刊号の巻頭に、編集長の平塚らいてう(雷鳥)は「元始女性は太陽であった」と書きました。それがいまや他の光に照らされる蒼白い月になってしまった、女性たちよ、みずからの手でふたたび太陽の光を取り戻そう、と呼びかけたのです。どうですか、みなさんからすると古臭い言葉でしょうか? でも、ちょっと立ち止まって考えてみてください。現代の女性はもちろん参政権も手にして、のびのびと人生を謳歌しているように見えますけれど、だからといって、みなさんは本当の意味で太陽になったのかどうか、と〔学生たち、息を呑む音がする〕。

さて、『青鞜』の志は非常に高かったものの、いかんせん素人の女性たちがつくったものだったので5年足らずで廃刊になってしまいます。そこで、レッキとした出版社がこれを引き継ぐようにして、1916年(大正5年)に創刊されたのが『婦人公論』だったのです。わたしが大学を出て会社に入り、すぐに『婦人公論』の編集部に配属されたのは1981年(昭和56年)で、ちょうど『青鞜』から数えて70年目のことでしたが、さあ、ぼくも女性解放のためにがんばるぞ! と大いに意気込んだことを覚えています。

ロミオ、ロミオ、どうしてあなたは?


ところが、です。初めて編集会議に出席したわたしの前に、およそ想像もしなかった現実が待ち構えていました。いきなり中年男性の編集長から「若いの、きみは女のオナニーについてどう考える?」と問いかけられたのです。わたしは面食らって「アノ、女性もそんなことするんでしょうか」と口ごもって答えたら、向かいの席の男性次長が助け舟を出してくれて「女がやっているとわかるんだよね、アソコが大きくなるから」と発言しました。クリトリスのことですね。すると、わたしの隣に座っていた女性次長がタバコをくゆらせながら「あーら、そうなの? 男のひとも大きくなるわけ?」と応酬したのです。ここは一体、なんなのだろう、と呆然としたものです〔学生たち、忍び笑い〕。

そもそも編集会議がこんな調子ですから、そのころの『婦人公論』はさかんに性の問題を取り上げていました。販売的には毎月数十万部も売り上げていましたが、ともするとエロ公論とかセックス公論とか批判されて、わたしものちに女性集会に呼ばれて吊るし上げを食ったことがありました。ただし、ここで急いで説明しておかなければなりません。いくら性の問題を取り上げたからといって、男性誌の扱い方とはまったく別なのです。男向けのエロ雑誌は基本的に、どうやって女性を口説いて、どうやってエッチをするかに尽きるわけで、いわば射精がゴールなのです。まことにもって幼稚としかいいようがない。それに較べると、女性誌のアプローチはずっと真剣です。

こんなところでシェイクスピアを引き合いに出すのは畏れ多いのですが、みなさんよくご存じのロミオとジュリエット、出会ってはいけなかったふたりが出会っていっぺんに恋に落ちる。ジュリエットは叫びます、『ああ、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?』と。こんな熱に浮かされたようになるのも、みなさんと同じ年ごろだからなんですね〔学生たち、笑う〕。
 
このロミオとジュリエットのドラマはたった5、6日の出来事なんですね。そんな短い期間だったから、熱烈に愛しあい、熱烈に死を迎え、永遠の悲恋のヒーローとヒロインになったのでしょう。もしふたりが死なずに生き永らえていたらどうなっていたかといいますと、双方の親は決して結婚を許さないので、駆け落ちするしかありません。何不自由なく育ったお坊ちゃんとお嬢ちゃんの貧しい生活がはじまります。ロミオはイケメンであっても手に職はありませんから、働けども働けども稼げない。一方のジュリエットは至って健康ですから、間もなく子どもが生まれます。まあ可愛らしい赤ちゃんなんていっていられるのは束の間で、やがて昼も夜もギャアギャアギャアギャア泣きわめき、ジュリエットはすっかり育児ノイローゼになってしまう。で、夫のロミオはと目をやると、仕事に出かけたはずなのに、若い女の子にちょっかい出して遊んでいるんですね。ジュリエットは叫びます、『ああ、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの?』と〔学生たち、爆笑する〕。
 
そうなんです、女性にとってセックスはゴールなんかじゃない。ここから本当の生活、本当の人生がスタートするのです。彼氏とエッチをして気持ちがよかっただけでは済みません。女性は考えはじめます、コイツとはここまでの関係にするのか、それとも結婚して人生をともにするのか。そして、いざ結婚となればふたりだけのことではなく、相手の親やきょうだいとどんな関係を結べばいいのか、やがて子どもができて家庭を形成したときにはどのように家計を成り立たせるのか……と。こうした重大な問題がつぎつぎと立ち現れてくるわけです。

あなたに性欲はありますか?


わたしが『婦人公論』の仕事をしていたころ、歴史的なスクープ記事が生まれました。アメリカで大がかりな女性の性意識調査を行った『ハイトレポート』が話題を巻き起こしたのを受けて、こちらも『日本版ハイトレポート』と銘打ち、全国の女性にアンケート調査を実施した結果を掲載したのですが、そのなかのひとつの項目がとくに注目を浴びました。「あなたに性欲はありますか?」との設問に対して、70%以上が「はい」と答えたのです。これが大変なスクープでした。おわかりになりますか? 女性に性欲があることがスクープなのではありません、そんなことはだれでも知っています。そうではなくて、日本の女性の70%以上が自分には性欲があると答えたことがスクープだったのです。たとえば、女子校などでは当たり前のようにリョウサイケンボ教育を標榜していました。さすがに最近はあまり見かけなくなったので、文字で書くと「良妻賢母」〔と板書する〕。良き妻、賢い母。つまり、女性の人生とは夫との関係、子どもとの関係によって規定され実現されるという考え方です。それに対して、自分には性欲があるとは、妻である前に、母である前に、自分はひとりの女性なんだ、ひとりの人間なんだという主張を意味し、「良妻賢母」なんてものをぶちこわしてしまうパワーがあったんですね。

やはり古臭い話でしょうか? みなさんは彼氏に対して可愛い女の子を演じるだけでなく、ちゃんとひとりの女性であり人間であることを主張できていますか?

ことほどさように、女性にとって性のあり方を問うとは人生のあり方を問うこととイコールだったのです。ですから、わたしたちはありとあらゆる角度から性のテーマにアプローチして、『婦人公論』が突き進んだあとには草木も生えないといった勢いでした。ところが、そこに飛んでもない事態が起こりました。1989年(平成元年)にマガジンハウスの雑誌『アンアン』が「セックスできれいになる!」という特集を組んで大評判を呼び、たちまち100万部以上を売り上げたのです。あのときのショックは忘れません。わたしたちの頭には自分がきれいになるためのセックスなんて浮かびもしなかった、あくまで性のテーマを他者との関係性のなかでのみ捉えていたことに気づかされたのです。このとき『婦人公論』が過去のものになったような気がしました。

もちろん、時代の流れのなかで最前線に立つ女性誌が移り変わっていくのは必然的な宿命です。さらにいえば、将来は紙の雑誌ではなくインターネットの雑誌が主役になるのかもしれません。であったとしても、日本の女性たちが性のテーマと真剣に向き合い、そこから人生の幸福を見出していこうとするかぎり、それに寄り添って女性誌が果たす役割は変わらず続いていくものとわたしは考えています。もしみなさんのなかにも、こうした仕事に意欲を感じる方がいらっしゃれば、ぜひともいっしょに女性誌の新たな未来を切り開いていただけたら嬉しいかぎりです。

本日の話はここまでとします。ご清聴ありがとうございました。
〔このあと、質疑応答〕



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