アナログ派の楽しみ/スペシャル◎やぶにらみ黒澤映画(創作大賞2025応募作)
やぶにらみ黒澤映画
わかんねえ、
さっぱりわかんねえ。
――杣売のセリフ(『羅生門』より)
『七人の侍』
それは「談合」の呪いを
解くための戦いだった
もう20回目ぐらいになるだろうか。久しぶりに『七人の侍』を鑑賞して、またぞろ新しい発見と出くわしたのに驚いた。野武士の来襲を迎え撃つために街道筋へ侍のリクルートにやってきた村人たちが、いつまでも条件の合う人材を見つけられないことに業を煮やす。こうなってはもはや「野伏せりと談合するほか手はねえ」と万造(藤原釜足)が言い出したのに、利吉(土屋嘉男)が「今度は何を出して談合するだ、お前んとこの娘出すつもりか」と食ってかかる。その「談合」という表現に、目からウロコの落ちる思いがして唸ってしまったのだ。
冒頭のシーンで、野武士の集団が馬を駆って眼下の村を襲おうとすると、頭目(高木新平)が制止して、ここは去年の秋にコメをかっさらったばかりで何もあるまい、あのムギが実ってからにしよう、と告げる。それを物陰で聞いた村人の通報で慌ただしく集会が開かれるわけだが、ここに至った経緯を要約すれば以下のようになるだろう。この山間の村では春から秋にかけてコメ、秋から春にかけてはムギの二毛作を行っていて、去年の秋に野武士がやってきたときには収穫したばかりのコメを奪われただけでなく、あとで明らかになるとおり利吉の妻を差し出すことで「談合」が成り立ち、かろうじて平穏を維持したのだ。
しかし、食糧と女性とはすなわち生存と生殖の源であり、それらを失うのは村の存続にかかわるという以上に、当事者たちにとって最大の屈辱以外のなにものでもなかったろう。そうした「談合」からまだ半年も経過しないうちに、ふたたび同じ事態が出来しようとしていることに対して、長老の儀作(高堂国典)は断固として戦いの方針を示し、復讐心にはやる武闘派の利吉だけでなく、穏忍自重派の万造たちも結局は呑み込まれていったわけだ。かくして、ざっと50人におよぶ野武士集団と対決するために、プロの戦闘要員である侍を農民が雇うという身分の上下を逆転させたドラマが動きだす。
ここで留意しておくべきは、リクルートされた7人の侍との交流と並行して、儀作や万造、利吉たちは半年前の「談合」を通じて野武士の連中をよく知り、心ならずも不埒な交渉で結ばれた抜き差しならない間柄にあったわけで、かれらはみずからが組み込まれた関係を完全に払拭するには相手をひとり残らず殲滅する必要があった。実際、村ではこれまで落武者狩りを盛んに行ってきた過去がある以上、そうした生命のやりとりの意思は一時の気の迷いなどではなく、いざとなったら女子どもを含めた村人すべての死も覚悟しての決断だったはずだ。
これを野武士のサイドから眺めると、かなり事情は異なっていたろう。連中は助太刀の侍たちには容赦しなかったものの、村人には食欲と性欲の対象を依存している以上、はなから皆殺しの意図はなかった。それが証拠に、戦いの火蓋が切って落とされるやいなや、離れの3軒の家屋と水車小屋は焼き払いながら、以降は繰り返し村内を侵しても放火の挙に出ることはなかった。もし本気でやっつけるつもりなら火を使うのは定石だし、そうなったら村は文字どおり灰燼に帰していたろう。それを行わなかったのは、連中が侍を倒したのちにまた村人との「談合」を目論んでいたからで、こうした姿勢が自滅を招いたのである。
その戦いは村人が「談合」の呪いを解くためのものだったとするならば、7人の侍はしょせん主役ではなかった。おそらく、かれらのなかで状況を理解していたのはただひとり、百姓出身の菊千代(三船敏郎)だけだったろう。だからこそ、かれは最後にわが身を捨て、野武士の頭目の前に立ちはだかってもろともに死を遂げたのだ。侍のリーダー、勘兵衛(志村喬)が戦闘を生きのびて、村人が総出で田植えにいそしむ光景を眺めながら「勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない」とつぶやく有名なラストシーンのセリフも、そうした内実を表していたのに違いない。
『七人の侍』が完成したのは、太平洋戦争が日本の無条件降伏によって終結した9年後のことだ。荒廃した焦土にはダグラス・マッカーサー元帥をトップとするGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が置かれ、いわば戦勝国アメリカと敗戦国日本との「談合」にもとづく占領政策が実施され、そこでは映画も厳しい検閲の対象となって、侍が刀を振りまわすチャンバラは軍国主義的として全面禁止された。そして、1951年にサンフランシスコ講和条約が成立して主権を取り戻すなり、黒澤明監督が満を持して取り組んだのが史上最大規模のチャンバラ映画の企画だった。
この作品自体、新たな時代に向けて日本人が「談合」の呪いから解き放たれるためのものだったのである。いまだに日本映画のベストワンにランキングされるゆえんだろう。
『天国と地獄』
情が支配する時代劇の国、
法が支配する西部劇の国
黒澤明監督の『天国と地獄』(1963年)を、わたしは学生時分に映画館のリヴァイヴァル上映で初めて鑑賞したのだが、そのときに忘れられないできごとがあった。
大手靴メーカーの重役・権藤金吾(三船敏郎)が豪邸で社内抗争の秘策を練っているところに、ふいに電話が鳴って、男の声が、あんたの息子を誘拐した、身代金3000万円を用意しろ、警察には知らせるな、と告げる。電話が切れたのち秘書が警察へ連絡しようとすると、かれは「ばか、ジュンの命が危ない」と怒鳴りつけて止めさせる。ところが、すぐに犯人は誤って住み込み運転手の息子のほうを連れ去ったことが判明し、権藤は打って変わって「警察へ電話だ!」と命じた。その瞬間、緊迫感が途切れ、映画館の観客からどっと笑い声が湧きあがったのだ。
この映画は、エド・マクベインのサスペンス小説『キングの身代金』(1959年)を原作とすることがクレジットされているものの、黒澤監督の「ほんの一部分を借りただけです。マクベインのものとしては、はっきりいえばいい作品ではないですね」という発言もあって、あまり重視されてこなかった感がある。わたし自身、今度、作家・堂場瞬一による新訳版が出たのを機にようやく手に取った次第だが、一読して唸ってしまった。とてもそんなふうに簡単に割り切れるハナシとは思えなかったからだ。
というのも、こちらの大手靴メーカーの重役であるダグラス・キングは、誘拐犯人の脅迫電話が掛かってくると、(まださらわれたのは自分の息子だと信じている段階で)迷うことなくただちに警察へ通報しているのだ。つまり、黒澤監督は主人公の事件に対する態度を原作から変更したわけで、もしオリジナルのままだったとしたら映画館の観客の笑いを誘うこともなかったろう。
それだけではない。実は、権藤とキングの態度にはこのあともっと重大な違いが生じる。両者とも社内抗争にともなう株の争奪戦に全財産を賭して、もし資金がほんのわずかでも欠けたら破滅しかねない状況にありながら、他人の子どもを救うために、権藤は3000万円、キングは50万ドルの支出を迫られる。そして、さんざん煩悶を重ねたあげく、権藤は銀行預金を引きだして犯人の要求にしたがう決断を下し、あまりにも有名な特急「こだま」を利用しての身代金引き渡しの場面へと接続していくのに対して、キングのほうは周囲の説得にも耳を貸さず断固として拒みとおし、最後には新聞紙を詰め込んだカバンを携えて車で身代金の受け渡し場所に向かい、大立ちまわりの末、みずからの手で犯人を捕まえるのだ。こうして眺めてみると、そこには情が支配する時代劇の国と、法が支配する西部劇の国のあいだの精神風土の違いが横たわっていそうだ。
キングはおのれの行動原理について、こんな言葉で説明している。
「ああ、悪党どもは要求してきた。しかし、何で奴らが勝手にルールを作ったんだ? どうして私が、奴らのルールに従ってゲームをしなくちゃいけないんだ?」
私のゲームは私のルールで行う、他人のルールにはしたがわない。この発想は、われわれ日本人にはちょっと馴染みにくいものではないか。実際、映画において身代金が犯人の手に渡り、運転手の子どもが無事に帰ってきて、ストーリーの主軸が戸倉警部(仲代達矢)を中心とする捜査陣が凶悪な医学生(山崎努)を追いつめていくプロセスに移ると、たちまち権藤の存在感が希薄になってしまうのは、他人のルールにしたがった者の宿命だろう。その反面で、マスコミ報道により事件の内実を知った人々から同情と賞賛の声が寄せられ、あれだけ傲慢だった男が奥床しい聖人君子のような雰囲気さえまとっていく成り行きに、映画館の観客は心安んじて鑑賞を終えるという寸法だ。
しかし、そんな形にまとめてよかったのだろうか? というのは、『天国と地獄』が公開された1963年(昭和38年)3月1日以降、全国各地に誘拐事件が続発し、同月31日には東京・台東区で昭和犯罪史に特筆大書される「吉展ちゃん誘拐殺人事件」も発生して、当時、映画の影響がこうした社会現象を引き起こしたとされ、ひいては刑法225条(誘拐罪)の厳罰化へとつながっていった経緯があるからだ。わたしはひそかに考えてみる。もし、原作の『キングの身代金』どおりに、主人公の権藤が他人のルールにしたがわず、あくまで自分のルールを貫いていた場合に、たとえ映画館の観客の不興を買ったにせよ、果たして模倣犯めいた事象があとに続いただろうか、と――。
さらに思い至るのである。昨今世界を震撼させているランサムウェアといった身代金要求型サイバー攻撃にあたっても、われわれの目に見えないところで、こうした日本とアメリカの精神風土がまるで異なる対応をもたらしているのかもしれないことを。
『馬』
そこには生命への
とめどない畏怖の念が
ノルマン種の牝馬が横たわり汗だくになって全身をわななかせている。人間と馬が同居する「南部まがり家」にあって、5月の遅い春、いましも分娩がはじまろうとしているのだ。そのありさまを正視できず、娘のいねは母親へ食ってかかるようにこんなやりとりを交わす。
「人間でもあんなに切ないもんだべか」
「バカこけ。おめえを産むとき、お母ちゃんかてなんぼか切なかったか」
そして、ようやく父親の手が取り上げた仔馬が家族全員に見守られながらひとりで立って歩きだすところが、山本嘉次郎監督の『馬』で最も感動的なシーンだろう。
岩手県の寒村にひっそりと暮らす一家が妊娠馬を預かり、こうして誕生した仔馬を立派に育てあげて、軍用馬として高く買い取られていくまでをセミドキュメンタリー・タッチで描いた映画は、中国大陸で長い戦争が行われていた1941年(昭和16年)に完成した。冒頭にいきなり東条英機陸軍大臣の名前で「飼育者の心からなる慈しみに依ってのみ優良馬=将来益々必要なる我が活兵器=が造られるのである」という言葉が映しだされるとおり国策映画で、国民全体の戦争協力を促すものだっただけに、一頭の馬の出産がもたらす生命への畏怖の念がいっそう輝きを帯びて迫ってくるのだ。
当時としては莫大な資金を投じ、撮影に3年の春夏秋冬をかけ、東北各地のロケ現場で4人のカメラマンが各々得意とする季節を担当するという、現在ではありえないほどの贅沢な方法で制作された。主人公のいねを演じた高峰秀子はこの間に15歳から17歳に成長して、子役から女優へと羽ばたいていくきっかけとなった。そして、長期におよんだ撮影中、チーフ助監督で実質的な監督の役割もつとめたという若き日の黒澤明に恋愛感情を抱いて結婚まで思いつめたことをみずから告白している。
結局、高峰の養母の志げが強硬に反対し、映画会社の思惑もあいまって、両人の仲はあえなく終わりを告げたものの、日本映画のファンにとっては幸いだったと言うべきかもしれない。なぜなら、その3年後、黒澤が自分の監督作品『一番美しく』(1944年)に主演した矢口陽子と結婚すると、彼女は映画界を引退して内助の功に徹したことに鑑みれば、もし高峰が黒澤と結ばれていたらのちの大女優は存在しなかった可能性もあるのだから。
それはともかく、高峰の自伝『わたしの渡世日記』(1976年)には、このとき養女の恋愛沙汰に憤懣の収まらなかった志げが、ある朝、出勤前の食事の膳にいきなり箸を乱暴に投げつけて叫びだした情景が記述されている。
「お前なんか、人間じゃない! ケッカイだ」
「ケッカイ……って、なに?」
「ケッカイっていうのは、血のかたまりのお化けだよ! 赤紫色をしたグジャグジャのこんなものさ」
母は両手で、さも汚らしそうに、ブヨブヨとした丸いものを形づくって見せた。
「女はね、お産のあとで、グジャグジャの汚いものを出すんだよ。お前は、その汚い血のかたまりだって言ってるのさ」
どうやら、ケッカイとは「血塊」を指すらしい。男にはとうてい口にできそうもない凄まじい言葉だ。しかし、映画の馬の出産シーンでいね役の高峰秀子が口走るセリフとは対極的ながら、その養母が激情に駆られて吐きだした言葉もまた、この無明の世界にあって、生命へのとめどない畏怖の念が込められていたのではないだろうか。わたしはそんな思いがするのである。
『生きる』
困った傑作。この主人公のような
ひとりよがりのヒロイズムはありえない
困った傑作だ。黒澤明監督がつくった30作品のなかでも、『生きる』(1952年)は一、二を争う傑作と見なされている。わたしも高校生のときに出会って以来、これまで10回近く鑑賞を繰り返して、そのたびに感動を新たにしてきた……と言いたいのだが、実のところ、主人公の渡辺勘治(志村喬)と同じ50代に自分が達したころから、とんと心動かされなくなってしまった。こうした心境の変化はわたしひとりだけとは思えないのだが、どうだろう?
市役所の市民課長・渡辺は定年間近のいま、ハンコを押すだけの無気力な毎日を送っていたが、病院の検査で、どうやら自分が胃がんで余命いくばくもないらしいことを知る。かれは男やもめで息子夫婦と同居していたが、心中の苦衷を切り出せない。思い乱れて夜の歓楽街をさまよったり、元部下の若い女性につきまとったりしたあげく、その女性のひと言から、モノをつくって残すことで生きた証にしようと決意する。ここまでが前半。後半はいきなり渡辺の通夜の席となって、そこに集った市役所の同僚たちが酔いにまかせて故人の思い出を語りあううち、かれが自身の病気を知りながら死力を振り絞って、住民から嘆願されていた児童公園の建設を成し遂げたことが明らかになっていく……。
前半の仮借ない絶望の描写と、後半の「倒叙法」で真相が判明するスリリングな展開に、若い時分のわたしは圧倒され、まさに生きることの意義を見出して感涙をこぼしたものだ。しかし、いまや還暦も過ぎてわかったのだ。これまでがんその他の病気により幾人も見送ってきて、渡辺のような行動を取った人物は皆無だったばかりか、そもそもひとは老いや病気と対峙してこうしたひとりよがりのヒロイズムに走ることはありえない、と。
この映画を撮ったとき、黒澤は42歳。まさに気鋭の映画監督としてエネルギッシュに驀進する途上にあり、およそ自己の内部に老いや病気を見出す状況ではなかった。つまり、ここにおいて老いや病気のテーマは、ひとえにドラマを成り立たせるための素材として扱われているに過ぎない。その証拠に、黒澤はつぎにはハリウッドの西部劇の向こうを張った大活劇『七人の侍』(1954年)に取り組み、そこにも志村喬以下、この映画に出演した俳優たちを引き続き起用しているのだから。このへんのさっぱりした割り切り方が、黒澤映画をどんな年代の観客にもわかりやすくする半面、ときにテーマの掘り下げに物足りなさを感じさせるゆえんでもあろう。
では、どうすれば『生きる』はより大きな説得力を獲得できたのか。はなはだ僭越を承知のうえで、わたしなりの対案を示してみたい。実は、黒澤が「倒叙法」を用いるのはこの作品が初めてではなく、芥川龍之介の短篇小説をもとに映画化した『羅生門』(1950年)で見事な成功を収めていることは周知のとおり。その前例を踏まえて、こうしてみたらどうだろう?
映画で渡辺の通夜のシーンは、弔問客たちが引き上げて静寂を取り戻したのち、息子が妻に向かって、「階段の下に貯金通帳と印鑑、退職金受領手続きの書類があった。オヤジもひどいよな、胃がんなら胃がんと言ってくれたら。なぜもっと早く……」と涙ながらに告げて結ばれている。ここが引っかかるのだ。親子の断絶を強調したいにせよ、いくらなんでも同じ家で寝起きして、実の父親が胃がんの末期に至って痩せさらばえ、食事もままならなくなった容態にまったく気づかぬはずはあるまい。
そうではなく、息子は葬儀の席上、市役所の同僚たちに向かって言明するのだ。自分たち夫婦はちゃんとオヤジの病状を知っていた、そして、医師と相談して必要な措置を講じながら最後の仕事をサポートしてきた、つまり、あの児童公園の完成はわれわれ父子の連携プレーといっても過言ではない、オヤジはその喜びと安らぎのなかで夜のブランコに揺られて『ゴンドラの唄』をうたったのだ、と――。もとより、この新たな証言がどこまで信用できるのか、果たして真相を解き明かしているのか、あるいはたんに世間体を慮っての絵空事なのか、そのへんは映画の観客に委ねればいい。観客はみずからの家庭の内実に照らしてそれぞれに判断するだろう。
『羅生門』
そこに描かれた
「藪の中」が意味するものは?
黒澤明監督の『羅生門』(1950年)については、公開時に必ずしも評価が高くなかったところ、翌年にヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞したことで一転して日本映画史上の至宝になったと語られるのがつねだ。今日の目ではそんな神棚に置くのが当然の傑作と思えるだけにむしろ、なんだってはじめは不評だったのか、わたしは興味が湧く。というのも、当時の評論家や観客だけでなく、他ならぬ黒澤監督本人までもつぎのような発言を残しているからだ。
「受賞祝賀会のときにも僕は言ったのだけどね、日本映画を一番軽蔑してたのは日本人だった、その日本映画を外国に出してくれたのは外国人であった。これは反省する必要はないか、と思うのだな。〔中略〕『羅生門』も僕はそう立派な作品だとは思ってません。だけどあれはマグレ当りだなんて言われると、どうしてすぐそう卑屈な考え方をしなくちゃならないんだ、って気がするね」(『黒澤明、自作を語る』1970年)
いかにも歯切れの悪い言葉はどうしたことだろう? その意味するところを探るためには、いったん『羅生門』を神棚の高みから降ろして虚心坦懐に見返してみる必要がありそうだ。
周知のとおり、映画は芥川龍之介の平安時代を舞台にしたふたつの小説、『羅生門』(1915年)と『藪の中』(1921年)が原作となっている。ただし、双方は対等の関係ではない。『藪の中』のフェーズでは、若狭の侍・金沢武弘とその妻・真砂、盗賊の多襄丸が山科の街道から外れた藪のなかで刃傷沙汰を起こして、武弘の刺殺体が発見され、いまの警察にあたる検非違使庁の庭で三者が(死んだ武弘は巫女の口を借りて)それぞれことの顛末に関してまったく異なる陳述を行う。そして、『羅生門』のフェーズでは、こうした不可思議な事態に立ち会った杣売(そまうり)と旅法師が都のさびれた羅生門で雨宿りしながら、下人とのあいだに議論を繰り広げるという建てつけになっている。すなわち、ドラマの本体はあくまで『藪の中』であって『羅生門』は装飾に過ぎず、逆にいえば、『羅生門』の装飾によって『藪の中』の本体が包み隠されているとも見なせよう。
さらに、『羅生門』と『藪の中』の関係をめぐっては重大な論点が存在する。『羅生門』のフェーズでは、秋の終わりを思わせる冷たい雨が打ちつけて、杣売、旅法師、下人は焚火で暖を取っているのに対して、『藪の中』のフェーズでは、ぎらぎらと照りつける太陽の光は夏の盛りのもので、武弘、真砂、多襄丸はおびただしい汗にまみれている。黒澤監督一流のデフォルメといってしまえばそれまでだが、とうてい同じ時間・空間の出来事とは思えないほどで、時間が固定されている以上、われわれは無意識のうちにも空間のほうを大幅に引き延ばして矛盾を解消しようとする心理の働く気がする。
そこで留意したいのは、太平洋戦争後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領統治下にあって、メディアに対しては厳しい検閲が行われるという、敗戦国の現実のまっただなかからこの映画が誕生したということだ。つい先年まで極東軍事裁判が行われて、東京では東條英機以下のA級戦犯が死刑に処せられる一方で、横浜やマニラをはじめ世界49か所の軍事法廷では多数のBC級戦犯が被告となり、そこでは東南アジアや南洋群島などを舞台とする現地住民・敵国捕虜に対する虐待・殺害などの容疑がかけられ、まさしく『藪の中』の論議がと繰り広げられた。そう、あの検非違使庁の庭の光景さながらに。こうしたイメージが『羅生門』の観客を戸惑わせて不評に向かわせたり、黒澤監督の歯切れの悪いコメントをもたらしたりしたのではないだろうか。
それは、日本国内にかぎった話ではないのかもしれない。映画プロデューサーの森岩雄は、この作品が黒澤監督の与り知らぬところでヴェネチア国際映画祭へ出品された際の現地の反響として、一部に「日本人は殺伐で、野蛮で、至極危険な国民である。それは『羅生門』にはっきりと出ている」という声があがったことを報告している(『私の芸術遍歴』1975年)。だとすれば、映画祭の審査にあたっては、太平洋戦争における日本人のおよそキリスト教世界の倫理観からかけ離れた行動原理をめぐって、この映画に驚嘆すべき解析を見て取ったことがグランプリ受賞につながった可能性もあるのではないか。
そんなふうに考えると、作中で『羅生門』のフェーズと『藪の中』のフェーズを往還する唯一の登場人物、杣売がしきりに反芻するセリフの重みがあらためて伝わってくる。「わかんねえ、さっぱりわかんねえ」と――。
いまわたしの目の前に興味深い一枚の写真がある。映画のおもだった出演者たち、左側から順に、加東大介、志村喬、三船敏郎、京マチ子、森雅之、上田吉二郎、千秋実の7人が横一列に並び、それぞれ本番の衣裳をまとってことさら大袈裟なポーズをつくってみせている。黒澤監督は俳優たちを早く役柄に馴染ませるため、撮影前にこうしたリハーサルをしばしば行ったという。ただし、わたしの興味を惹いたのはそのことではない。かれらのうち、加東大介は戦時中にニューギニア島へ送られて死線をさまよい、志村喬はみずから出征することはなかったものの実弟を南方戦線で失っている。また、三船敏郎は中国大陸の満州、千秋実は樺太の日ソ国境で軍隊体験を持つ。日本映画の金字塔、『羅生門』はそうした地平を出自とすることを忘れてはならないのだろう。
