3・11から15年 その7・最終回
『避難所』の視点から震災当時を振り返ってみました。
書きながら思い出すことも多く、長い連載になってしまいました。読んでくださった皆様、ありがとうございました。避難所に特化したので、放射線の問題や新学期に向けて学校がどんな取り組みをしていたのか、浜通りの学校はどのように再開を模索したのか、等については触れていません。また、次の機会に記したいと思います。
避難所の運営では、津波で家を流された家族や親族と連絡が取れなくなっている方など、被災の実態を目の当たりにしました。故郷から避難した多くの方々と接する1ヶ月を経て、「自分の経験は『被災』と呼ぶにはあまりにも小さい」と感じてしまいました。皆さんの心情を思うとき、震災・被災について語ってはいけないような気持ちになりました。
震災から5年後、初めて校長として会津若松市の高校に赴任しました。この頃の私は、生徒の前で震災を語ることはほとんどありませんでした。
一方、会津大学短期大学部の構内に設置されていた大熊中学校の仮設校舎を訪ねたり、美術部が作品を避難している皆さんに届けるような場面には、積極的に関わっていました。
数年後、定年退職まで残り2年というタイミングで、福島市内の高校に赴任しました。「震災から10年」が経とうとしていました。自分に何ができるのか、校長として生徒に何を伝えるべきなのか、自分に問いかける毎日でした。
この頃から、「自分の経験や思いを素直に語っていいんだ」「語るべきだ」と思うようになりました。震災から10年後の3月11日。コロナ禍により集会形式はとれませんでしたが、放送室から素直に自分の思いを伝えました。
あれから5年が経ち、震災から15年となりました。
話を避難所に戻します。
正直なところ、震災直後の先が見えない状況では、「校長が避難所を引き受けなければ良かったのに」と思ったこともありました。自分なりに一生懸命避難所運営に当たっていたつもりだったのに、当時の校長から「避難者にかまけて何やってんだ」と校務の遅れを叱責されたこともありました。「理不尽なことだなぁ」と、涙が出ました。
結果として、福島県で最も古い歴史があり、地域一番の進学校である安積高校が避難所を運営したことには、大きな意義がありました。勉強は何のためにやるのか、難関大学に進学した先に何があるのか、学校が社会に果たす役割は何か、等、考える機会になりました。「安積高校で良かった」と避難されていた皆さんに好印象を持っていただいたことは、安積高校に勤務している者として、嬉しいことでした。
もっとも、情報というのは真実が伝わりにくい体験もしました。これはSNS全盛の今も15年前も変わりません。「安積は何もしていない!!」という事実誤認も甚だしい噂が広まったのです(広めた人もわかっています)。更に、同窓会長がそれを信じてしまう、という事態になりました。これは教頭としてとても悲しく、残念な出来事でした。
同窓会長には、避難所の様子等を手紙にしたためて送付し、誤解を解きました。「見もせずに噂を信じる」ことの危うさは、当時も今も変わらないのです。
今年の3月11日も、福島市のまちなか広場で開かれた『キャンドルナイト』に出かけました。非常勤で勤務している桜の聖母短期大学もブースを出しています。聖母短大のブースには多くの学生が協力し、教職員もたくさん顔を出していました。隣の国立大学は、ちょっと寂しい状態でした。
今日(3月15日(日))は、映画「ロッコク・キッチン」を観ました。原発事故の被災地双葉郡を縦貫する国道6号線沿いの暮らしをキッチンの視点から見つめる物語です。

住んでいる人も、クリエイターも、それぞれに3・11と向かい合う日々は、まだまだ続いていきます。
