今の私からあの日母になった私へ
母になるというのは、生命が宿ってから、あるいは生まれてから母になるものだと思っていた。しかし、実際は全く違う。
子どもが生まれてから、周りは「〇〇ちゃんのママ」と呼ぶけれど、私の心はなかなか追い付かなかった。周りからそうラベリングされているだけで、当の本人はそのラベリングからはみ出さないように、世間一般の母親像に自分を寄せていくことに一生懸命になっていたように思う。
このときの理想の母親像というのは、基本「尽くす」姿勢であった。
ごはんは子どもたちが食べてくれるように、子どもの好きなおかずになる。ショートケーキのイチゴは子どもにあげる。
自分の洋服を選ぶより、子どもの洋服ばかり選んでいる。
子どもたちが先に寝るまで、ひたすらトントン。しょっちゅう寝落ちして、途中で起きて残りの家事をやる。
子どもたちに喜んでもらいたくてなにもかも、「~してあげる」ことだった。
ほとんどの判断基準が子供ファーストになって、次第に「~しなきゃいけない」の思考になっていったら自分が一体何をしたいのかわからなくなった。
子どものために頑張っているのに、満たされない。逆に文句やわがままが多くなり空回りすることばかりで、スムーズに事が進まずいつも怒ってる。
だんだん苦しくなって、自分も家族もギクシャクしていたころ瞑想と出会った。
そこで「今の気持ち」に意識をむけるようになった。
そしたら、この思考の安易な罠に気が付いた。
それは”自分”が、と考えるより、”子どもが”、と考える方が楽だから。
何かあれば、子どものせいにできるという責任放棄の罠。また、育児書にそう書いてあったからと、それに従うような育児をするのも思考停止の罠だ。
以前の理想像には私が甘えられなくて寂しい思いが強く残っていた。
だから、育児書や世間の価値観を参考にしながらも、自分の寂しさを埋めるために、過剰に尽くす母親像が理想となっていた。
周りからどう見られるかという視点より、いかに「母でも妻でもない自分は何がしたいのか」自分を俯瞰して見るようになってから、物事の見方も変わったように思う。
例えば、長女はよく食事中に立つ。そして、突然踊りだすのだ。小学生になって幾分落ち着いたが、それでもまだ席を立つことがある。
昔は、集中力の欠如にずいぶんいらだった。わけもなく、よく怒った。
いらだちに意識すると、早く食べ終わって、片付けを早く終わらせたい。という、自分本位によるものからくることだとわかった。
今は、席を立った際に、ドレッシングや小皿など何か足りないものを持ってくるよう頼むことにした。なかったとしても、とがめない。踊りが面白くて、みんなで笑うこともある。
また、自分は何がしたいのかを考える。
私は、香味野菜が好きだ。しかし、子どもたちは苦手なため昔は控えていた。私しか食べないなら、作るのは面倒だと。
今は、自分が何を食べたいか考えることにした。子どもたちにくさいといわれても、パクチーや春菊のサラダがあるだけで、私の心が喜ぶのがわかるから。
子どもたちを愛することは、自分も愛せるし、子育てを楽しめる。
彼女たちに感謝、そして、これまでの自分にも感謝を伝えたい。
