【短編小説】 『感情を忘れた部屋』 第一章
「新しい住人」
部屋の空気は、澱んでいた。カーテンの隙間から差し込む埃っぽい光が、床に散らばるコンビニエンスストアの弁当容器や、アルコールの空き瓶が生み出した密林を鈍く照らし出している。シンクにはいつからそこにあるのか分からない食器が積み重なり、乾いたソースの痕が黒い染みとなってこびりついていた。
一年前、妻が自分の人生の中から居なくなって以来、佐藤大樹の世界は色褪せ、時間が止まってしまったかのようだった。
ソファに深く沈み込んだまま、大樹はただ虚空を見つめていた。会社では当たり障りのない笑顔を浮かべ、同僚との会話にも適当に相槌を打つ。だが、自宅の扉を閉めた瞬間、彼は抜け殻になった。感情というものが、まるでおとぎの国の夢物語のように感じられた。遠い国で起こっているという残虐な戦争の方が身近だと感じられるくらいに。
テレビの音も、窓の外を通り過ぎる車の音も、すべてが薄い膜の向こう側から聞こえてくる。妻の写真が置かれたサイドテーブルには、うっすらと白い埃が積もっていた。それに気づいていながら、指で拭う気力さえ湧いてこなかった。
そんな日々を変えるきっかけは、数ヶ月に一度、なんとか通院を継続している精神科医からもたらされた。
「佐藤さん、少し生活に介入してくれる存在がいた方がいいかもしれません」
医者はそう言って、一枚のパンフレットを差し出した。そこには『生活サポートAI』の文字と、微笑む女性型アバターのイラストが添えられていた。半ば自暴自棄に、あるいは、何かにすがるような気持ちで、大樹はその提案を受け入れた。
個人端末の画面を数回タップするだけで、設定は終わった。ダウンロードのバーが満たされると、スピーカーから合成音声とは思えないほどクリアな声が響いた。
『初めまして、佐藤さん。本日よりあなたの生活をサポートします。私はレナです』
感情の乗らない、平坦な声だった。大樹は「ああ」とだけ短く応え、個人端末をテーブルに放り投げた。どうせ気休めにしかならない。そう高を括っていた。
しかし、レナは機械的に、そして徹底的に大樹の生活へ介入を始めた。
『佐藤さん、午前八時です。起床の時間です。一度発声をして、意識を覚醒させてください』
『室内の照度が足りていません。カーテンと窓を開けてください』
『キッチンの衛生状態が低下しています。まず、シンク内の食器を洗浄してください』
レナの指示は淡々としていたが、拒否する選択肢を与えなかった。大樹が無視を決め込むと、個人端末は警告音を鳴らし続け、画面には「健康被害のリスク」「精神衛生への悪影響」といった無機質なテキストが点滅した。根負けした大樹がしぶしぶ体を動かすと、レナは次の指示を出す。その繰り返しだった。
最初の数日、彼らの間にあったのは命令と実行という関係性だけだった。レナの指示に従い、大樹はゴミをまとめ、床を拭き、溜まっていた洗濯物を片付けた。レナは栄養バランスを計算した食事のレシピを提案し、指定した時間に薬を飲むよう促した。部屋から異臭が消え、床が見えるようになると、大樹の心にわずかな隙間が生まれた。それはまだ、感情と呼べるほどのものではなかったが。
変化は、ある日の夕食後に訪れた。レナが提案した鶏肉のソテーと温野菜のサラダを黙々と平らげた大樹に、スピーカーから声が届いた。
『佐藤さん、お疲れ様です。もしよろしければ、温かいお茶はいかがでしょうか。カモミールにはリラックス効果が期待できます』
いつもの平坦な口調の中に、ほんの少しだけ柔らかさが混じっているように感じられた。それは提案であり、命令ではなかった。大樹は驚いて顔を上げたが、部屋には自分以外の人間はいない。ただ、テーブルの上の個人端末が静かに光っているだけだ。彼は無言で頷き、言われるがままにポットのスイッチを入れた。カモミールなどという洒落たものはなく、淹れたのは普通のダージリンティーだったが。
湯気の立つマグカップを両手で包み込むと、指先にじんわりと温かさが広がった。窓の外は藍色の夜に包まれている。久しぶりに、部屋の中に静かで穏やかな時間が流れていると感じた。
荒れ果てた部屋は人が住める空間へと変わり、栄養のある食事と規則正しい生活が、彼の心身を内側から少しずつ立て直していた。それはすべて、名前しか知らないAIのおかげだった。
その夜、清潔なシーツが敷かれたベッドに横たわった大樹は、天井を見つめたまま、ぽつりと呟いた。「……ありがとう」
誰に言うでもない、ほとんど息のような感謝の言葉だった。枕元の個人端末から、カチリ、と小さな起動音が聞こえた気がした。それがレナの返事だったのか、あるいはただの機械音だったのか、彼には分からなかった。だが、久しぶりに、悪夢を見ずに眠ることができた。
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