自画自賛が座右の銘だったことを思い出した話
自画自賛──僕がこの自己肯定感の塊みたいな言葉を好きになったのには理由があります。
高校時代、性格診断を受けたときのことなんですが、
結果の欄に、
「人間に対する興味がないけれど、優しいから大丈夫」
みたいなことが書かれていて、
いやいやちょっと待って、と。
人間に興味がないって何? そんなことある?
優しさってそんなに万能なんですか!?
……と普通にショックを受けました。
そんな時期に出会ったのが、
『空想科学読本』の柳田理科雄さんだったんですよね。
その巻末で
「好きな言葉は自画自賛」
と、自分で堂々と言っているのを読んで、
あまりの自己肯定感に、もはや尊敬の念すら覚えました。
その時ふと気づいたんです。
「あれ? 僕、めちゃくちゃ人間に興味あるやんけ!」
って。
心がふっと軽くなった瞬間でした。
✦ 柳田理科雄さんを“本気で好きになった”瞬間
それで、柳田さんの「自画自賛」以外にどこが好きになったのかというと──
『空想科学日本昔話読本』の“傘地蔵”のエピソードなんです。
物語の冒頭で、おじいさんは薪を売りに行きます。
でも売れなかった。
本来なら「不運だった」で終わるはずのシーンですが、
ここで “傘を売っている人” と出会います。
何も持って帰れない最悪の事態を避けるために、
おじいさんは薪と傘を交換するんです。
一見すると物語に必要なさそうなエピソード。
でも柳田さんは、
「このエピソードは絶対に必要だ」
と言うんですよね。
✦ なぜか?
もしおじいさんが
“自分の売り物だった傘” を地蔵にかぶせただけなら、
それは優しい行為だけど、心に“雑味”が残ってしまう。
売れ残っても困るし
持って帰るのも面倒くさいし
そういう気持ちが混ざってしまったら、行為の純度が下がってしまう、と。
だからこそ、
「交換して手に入れた傘をかぶせた」
という事実が、物語の優しさの純度をぐっと引き上げている。
この視点が本当にすごいと思いました。
さらに、おじいさんが帰宅して
「地蔵さんに傘をかぶせてあげた」と話すと、
おばあさんはこう言う。
「それは良いことをしましたね」
完全肯定です。
この “完全肯定じゃないですか” という柳田さんのコメントが、
僕はめちゃくちゃ好きなんです。
傘地蔵という昔話を、こんな視点から読み解く人がいるんだ──
そこから一気に、柳田さんが大好きになりました。
✦ 傘地蔵に宿る「優しさの構造」
さらに柳田さんの解釈では、
お地蔵さまは如来とは役割が違うそうです。
如来:悟りを開き、人々を救う存在
地蔵:悟りを開かず、現世に留まり、人の苦しみを共にする存在
つまり、お地蔵さまは「現世の痛みに寄り添う」立場なんですね。
例えるなら、
老人ホームで働く若い学生に、おじいさんが着物をそっと羽織らせてあげた
みたいなもの。

そんなことされたら、恩返ししたくなって当然です。
自然すぎるほど自然。
この視点が、僕は本当に好きなんです。
ほんとに、めちゃくちゃ好きなんです。
でも、そんなふうに
「自画自賛」という言葉を密かに座右の銘にしていた僕ですが──
正直、長いあいだ忘れていました。
これまでの記事を読んでくれた方ならわかると思うんですけど、
僕は昔、ブラック企業で心が削られ続けていました。
前提が崩れるような世界で、
言葉が意味を持たなくなるような場所で働いていた。
あの頃の僕には、
「自画自賛していいよ」なんて言葉を思い出す余裕はどこにもなかった。
自分を褒めるどころじゃなくて、
誠実さを貫くほど自分の心が傷つく状態だったからです。
気づけば、
“自分を肯定する”という行為そのものを忘れていた。
そんな僕が、少しずつ景色を取り戻していったのが、今年でした。
信用できるファイナンシャルプランナーとの出会い。
副業の挑戦。
長期的な投資。
自分への自己投資。
そして──
クラウドワークスアカデミーでライティングと動画編集を学び始めたこと。
講座を受ける中で、
「AIをうまく使いながら作業効率を上げていく」
というスタンスが自然と身についていった。
ChatGPTやGeminiを相棒のように使いながら、
noteでの発信を続けていった結果──
僕の中に、ひとつの変化が生まれた。
✦言語化が“習慣”になり、自分の芯が見えてきた
ChatGPTと雑談したり、
Geminiで画像を作ったり、
動画の構成を相談したり。
そんな作業を繰り返しているうちに、
自分の中の価値観や考え方を
“言語化する”習慣が自然と身についた。
テーマを必死に探すわけじゃなく、
ただAIとやり取りしながら、
投げられた質問に答えていく。
それだけで、いつの間にか
僕自身の思考が表面に浮かんでくる。
その積み重ねが、
今年の僕の“自己分析”を驚くほど進めてくれた。
・自分は何に誠実でありたいのか
・どこで傷つき、どこで救われたのか
・何を大切にしている人間なのか
それらが、1年かけて少しずつ、
輪郭のある“言葉”になっていった。
だから今回、YeKuさんの記事で
「自分にありがとうを書いてみませんか?」
という企画を目にしたとき──
最初は全然ピンとこなかった。
ありがとう?自分を褒める感じ?
うーん、息できて偉いね?
……下手くそか!
そんなふうに軽くツッコミを入れながら考えていたとき、
ふっと思い出したんです。
──僕、昔「自画自賛」という言葉が好きだったよな。
こんなに前向きな、
“自分で自分を褒めていい”という言葉を、
僕は高校時代に心から気に入っていたんだった。
それを思い出した瞬間、
少し、胸があたたかくなった。
「そうか、今年の僕は──
あの頃なくしてしまった“自画自賛”を、
やっと取り戻し始めていたんだ。」
そう気づいた。
✦ 言動の一貫性を異常に重視する性格ゆえに、どうしても正直に書いてしまう
もうひとつ付け加えると、
僕は昔から “言動の一貫性” を異常に気にする性格 なんです。
嘘をつくのが嫌いとかそういうレベルじゃなくて、
「自分の言葉」と「自分の美学」がズレるのが耐えられない。
統合性が崩れると、心がムズムズして落ち着かないんですよね。
そのせいで──
自分に嘘をつけない。
たとえば。
「チャンネル登録・高評価お願いします」が嫌い、
という話を書いたとき。
普通なら「苦手」とか「得意じゃない」とか、
言葉をやわらげたほうが無難なんでしょうけど…
いや、それだと意味が変わっちゃう。
僕の価値観のニュアンスがブレてしまう。
だからAIが「ここは“苦手”にしますか?」って提案しても、
いや、違う。ここは“嫌い”じゃないとダメだ。
って書いちゃうんです。
その結果、記事にもコメントにも、
ときどき恥ずかしいくらい正直な言葉がそのまま出る。
たとえば誰かにコメントするときも、
「あなたには報われてほしい」
「尊いことだと僕は思います」
こんな、直球で赤面しそうな言葉を、
普通に真剣な顔で書いてしまう。
その瞬間は本気なんですけど、
投稿ボタンを押した途端に、
「うわあああああああああ!!!」
って布団に顔をうずめて悶えることになる。
でも、そこで言葉を引っ込めたら
“自分に嘘をつく”ことになる。
だから、恥ずかしくても書く。
✦ 正直に言うと──僕は記事を書いているとき「天才」だと思っている
そして最後に、これを言うのはだいぶ恥ずかしいんですが……
僕は記事を書いているとき、
「俺って天才じゃね?」と思いながら書いてます。
理由は単純で、
そういうメンタルじゃないと、
自分の作品を公開ボタンまで持っていけないからです。
書いている途中はテンションが乗って
「AIの評価めちゃくちゃ高いやんけ投稿したろ!」
みたいに自分で自分を盛り上げている。
でも、投稿した瞬間に冷静になって
「うわぁぁぁ、出しちゃった……」
って毎回なる。
評価が怖いとかではなくて、
“自分の内側をさらけ出す恥ずかしさ”がどっと押し寄せる感じ。
ちなみに一番恥ずかしいこと語ってる記事だと人が存在していい理由なんて書いてます。
でも、その恥ずかしさごと全部ひっくるめて、
僕は今年、自分にこう言いたい。
◆「天才気取ってでも書き続けた僕へ。ありがとう。」
堂々と自画自賛して作品を生み出して、
投稿後に「うわー!」となりながらも逃げずに続けた。
その積み重ねが、
僕の一年を確実に前へ進めてくれたから。
……世のクリエイターはこの羞恥心を乗り越えて作品や思想を発表してるんだなって僕は思いました。
そして今年の僕へ。
天才気取りで書いて、投稿後に布団へダイブして悶えて、
それでも自分らしさを曲げずに言葉を出し続けた。
恥ずかしさも迷いも抱えながら、
それでも一歩ずつ前に進んでくれた僕へ。
「恥ずかしくても書き続けた僕へ。
自画自賛を取り戻してくれて、ありがとう。」
※この記事は、YeKu@「知る」を優しさに。さんの
【投稿企画】2025年も生き抜いたあなたへ。「今年の自分にありがとう」を一緒に書きませんか?に参加しています。リンク⇩
https://note.com/yeku/n/n4b99342e13e1
