#2キャリア②筆記用具を忘れた僕を、社長は「面白い」と笑って内定を出した
こんばんは、40代のメガネです。
SNS初心者の私が、40代という人生の折り返し地点を過ぎて、ふと「自分の歩みを形に残したい」と思い立ち始めたこの連載。
前回は「安定」を疑い、泥にまみれた学生時代を振り返りました。今回は、そんなモラトリアム全開の私を拾ってくれた「1社目」の物語。失敗と挫折、そして昭和の残り香が漂う新橋での日々を綴ります。
1. 崖っぷちの就活、救世主は「筆記用具」を忘れた私を笑った
大学4年の10月。周囲が次々と内定を決め、卒論に追われる中、私の手元には一枚の内定通知もありませんでした。魅力的な求人は消え、エントリーシートを出しては落とされる日々。親の視線が痛い。
「これがラストチャンスだ」と背水の陣で挑んだ、社員50人ほどの設計コンサルタント会社。 そこで私は、人生最大級の失態を犯します。なんと、入社試験に「筆記用具を忘れて」行ったのです。
「あ、もう終わった……」 面接官に半笑いで「君、筆記用具を忘れるなんて……」と言われた瞬間、不合格を確信しました。
しかし、事態は予想外の方向へ。
隣の女性の優しさで筆記用具を貸してもらい(それが後ほど、私の妻になります)、なんとか受験させてもらえることに。
私の海外放浪やりんご農家の話を面白がった社長が、「色々な経験をしている。面白いじゃないか」と、まさかの採用。
失敗すらも「個性」として拾い上げてくれたその会社には本当に頭が上がりません。何ものでもない、何もできない私を救っていただいた社長は私にとって、人生最大の恩人です。
2. 「環境室長」への抜擢と、新橋の芋焼酎
(筆記用具忘れという)鳴物入りで入社。社長には本当に目をかけてもらいました。入社2年目、私は「環境室長」という大役を任されました。 社長の鞄持ちとして地方自治体へ営業に同行し、プレゼンを重ね、1件の受注をもぎ取る。若手ながらに「開発と環境の両立」を熱く語る日々は、充実感に満ちていました。
当時のオフィスは新橋。
週4回は烏森口近くの赤提灯で飲み明かすのが「社風」でした。
ボトルキープの霧島(芋焼酎)のお湯割り
お通しはエイヒレ、メザシ、枝豆、小松菜炒め
酔った先輩の「男なら仕事も酒も全力だ!」という怒鳴り声
今思えば、そこには色濃い昭和の企業文化が残っていました。ただ、勢いだけではカバーできない現実もありました。当時の私は、設計ミスや納期遅れを繰り返し、顧客からの評価はイマイチ。理想ばかりが高い口だけの男、社長に厚遇されていることで周りの目も厳しく、実力が伴わない自分に、静かに焦燥感が募っていきました。
3. リーマンショックと「事業仕分け」の嵐
平穏な日々は長く続きませんでした。2008年、「リーマンショック」が世界を襲います。 さらに政権交代による「事業仕分け」の嵐。社会に出てすぐの私には、何が起きているのかよく分からないまま、大きな変化が起きたのです。公共事業を主戦場とする私たちの業界は、一気に「削減対象(コストカットの対象)」という烙印を押されました。
業界全体の予算(公共事業費)が3割カット。会社でもリストラが始まり、年収カットが断行されました。
「家族をどうやって食わせるんだ!」 社長に詰め寄る先輩社員の悲痛な叫びを、私はただ黙って聞くことしかできませんでした。「自分はこの業界で生き残れるのか?」という不安が、冷たく足元から忍び寄ってきました。
4. 「技術士」合格。暗闇の中で掴んだ一筋の光
混乱する社内で、尊敬する先輩たちが次々と去っていきました(優秀な人から転職していきました)。
給与の低い若手だった私はリストラを免れましたが、心境は「生存者罪悪感」に近いものがありました。同時に痛感したのは、「この荒波を生き抜くには、武器(資格)が必要だ」ということ。学生時代と社会人では厳しさが全然違う、とにかく生き残ることが大事だと、「生存本能」のスイッチを発動させる機会になりました。
そこから、猛烈に勉強を始めました。 睡眠時間を削り、休日はすべて参考書に捧げる日々。入社3年目、最難関と言われる国家資格「技術士」の合格通知を手にした時、ようやく職場における自分の存在意義が持てた気がしました。
「これでようやく、ペーパー上のお墨付きを得られた」
安堵と同時に、ふと鏡の中の自分に問いかけました。
「資格は取った。でも、これからどう生きる?」
答えの出ない問いを抱えたまま、物語は「転職編」へと加速していきます。
(次回、③転職編その1へ続きます。ぜひフォローしてお待ちください!)
