江戸のトイレ事情パートII お漏らしで改易
武士の威信や家名を重んじる時代において、排泄にまつわる「粗相」が原因で人生や家運が暗転した例は、いくつか記録に残っています。
特に有名なのは、江戸時代初期の山内忠義(土佐藩2代藩主)にまつわる話や、実際に処罰を受けた旗本などのケースです。
1. 蜂須賀正辰(阿波徳島藩・家老クラス)の「不敬」
厳密には大名本人ではありませんが、大名に準ずる立場での有名な事件に、徳島藩の蜂須賀正辰(はちすか まさとき)の例があります。
事件: 1667年、将軍・徳川家綱の法会のために増上寺に参詣した際、こともあろうに増上寺の廊下で放尿してしまいました。
結果: この「不謹慎・不敬」な振る舞いが幕府の知るところとなり、正辰は改易(除封)・切腹を命じられました。聖域を汚したという罪は、それほどまでに重いものでした。
2. 旗本・内藤正友の「玄関先での粗相」
大名ではありませんが、将軍直属の旗本にも記録があります。
事件: 1701年(奇しくも赤穂事件の年)、旗本の内藤正友が、江戸城内または役宅の玄関先で粗相(失禁)をしてしまいました。
結果: 「武士としての体面を著しく汚した」として、改易(領地没収)、および親族への預け替えという厳しい処分が下されています。現代で言えば「体調不良」で済む話かもしれませんが、当時は「自己管理能力の欠如=武士の資格なし」と見なされました。
3. 山内忠義の「危機一髪」
土佐藩2代藩主の山内忠義には、あわや改易かという逸話があります。
事件: 江戸城での会合中、緊張のあまりか、あるいは急な腹痛か、忠義は城内の廊下で粗相をしてしまいました。
対応: 本来なら改易必至の醜態でしたが、居合わせた老中たちが「これは何かの間違い(あるいは見間違い)だ」とあえて無視したり、家臣が身代わりになって汚れを清めたりして、なんとか沙汰止みにしたと伝えられています。
なぜ「粗相」が改易に繋がるのか?
江戸時代の法体系において、大名や武士が処罰される理由は単なる「汚れ」ではありません。
不敬罪: 江戸城や寺社などの聖域を汚すことは、将軍や神仏への反逆と見なされました。
武士の嗜み(たしなみ): 「身の回りの管理ができない者は、一国一城を治める資格がない」という論理です。
狂気の疑い: 公共の場で粗相をすることは「精神に異常をきたした」と判断される材料になり、それが「お家騒動」の火種になるのを防ぐために、幕府は早めに改易という手段を取りました。
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