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接触前に勝敗は決まる③――聯合艦隊 図上演習『日本海海戦』

明治三十八年二月。

朝鮮 鎮海湾 停泊中の 戦艦三笠 後甲板。

冬の海風が灰色の海面を渡っていた。

GF司令部主催の図上演習開始前、将官、参謀、艦長たちが三々五々集まりつつある。海図台には覆布が掛けられ、その端が風に鳴った。

「えらく今日は寒いな」

誰かが外套の襟を立てる。

「……あちらはマダガスカル、熱帯でさぞ暑かろう」

一同、どっと笑った。

笑いは長く続かなかった。

バルチック艦隊。

北海を出て以来、世界半周を続けるロシア第二太平洋艦隊は、なおマダガスカル近海に停滞中との報告が続いている。

「しかし、未だマダガスカルに居続けているのか?」

誰かが呆れたように言った。

「寒いロシアから暑い所まで、ご苦労な事だ」

再び笑い。

「それに艦底へ牡蠣や海藻も付着する」

「速力は相当に落ちましょうな」

「一体何ノットで歩いて来るんだ?」

また笑いが起きた。

だが、その笑いは単なる嘲笑ではなかった。

長距離航海が艦隊をどう削るか、彼ら自身がよく知っている。

石炭。

機関。

缶水。

船底汚損。

そして人間。

「病人も沢山出ておるでしょうな」

今度は笑いが消えた。

熱帯。

蒸気機関。

石炭粉塵。

睡眠不足。

湿気。

赤痢。

熱病。

壊れるのは艦だけではない。

「脚気や鳥目は大丈夫か?」

再び笑い。

そこへ艦尾側から声。

「CGF、御出席――」

空気が変わる。

東郷平八郎 以下、GF幕僚が後甲板へ姿を現した。

永田泰次郎 GF副官が一同を見回す。

「全員揃われましたか? 宜しいですか?」

小さく頷きが返る。

「――では参謀長」

加藤友三郎 GF参謀長が静かに口を開いた。

「まず永田副官から敵状の報告をさせます」

永田中佐、一歩進み出る。

「では、まず駐英武官及び陸軍の 明石元二郎 大佐の報告を読み上げます」

後甲板が静まる。

「まずバルチック艦隊は ドッガーバンク事件 に於いて英国漁船を誤射、相当数の砲弾を発射した模様なるも、命中率はかなり低いとの判定です。又、誤射原因は漁船群を我駆逐艦と誤認した事に依るとの事です」

誰かが小さく呟く。

「……すでに、柳を幽霊か?」

(笑)

永田副官の口元にわずかな笑みが浮かぶ。

「明石大佐からは、ロシア人民は反戦気質大なり――と」

「ロマノフさんも大変ですな」

また笑い。

「現在はマダガスカル、 ノシ・ベ島 に停泊中との事であります」

「甲板は焼けてどうにもならんぞ」

「暑くて眠れぬだろうに」

すると 鈴木重道 軍医総監が静かに口を開いた。

「赤痢や精神の異常も考えられます」

後甲板が一瞬静まり返る。

その時、誰かが軽口のように言った。

「これで負ければ切腹もんだ」

空気が止まる。

鋭い声。

「誰だ!」

沈黙。

「……失礼しました」

加藤参謀長は表情を変えぬまま続けた。

「一応報告は以上でありますが、敵は第三太平洋艦隊を編成、追従の模様です」

島村速雄 第二戦隊司令官が問う。

「編制内容は」

「老朽艦の寄せ集めと報告が来ています」

「しかし大砲は積んでいるんだろ」

失笑。

「は、はい。勿論ですが旧式です」

「いや、旧式でも大砲は大砲だ」

後甲板の空気が再び締まる。

加藤参謀長は海図へ視線を落とした。

「では、自由質疑と参ります」

「敵は来ますか?」

「それが分かれば苦労はないぜ」

(笑)

すると 秋山真之 GF先任兼作戦参謀が前へ進み出た。

「まずシンガポール付近にⅢFより一戦隊を派遣していただいております」

秋山は海図上へ指を置く。

「台湾西方より對馬に至る海面を、碁盤の目の如く区分。各地点に哨戒艦を配備致します」

「ほう、ヒトマルマル、フタマルサンもあるぞ」

「フタマルサンですか!」

(笑)

二〇三高地 を思い出した者たちの笑いだった。

(余談ながら、実際に信濃丸がバルチック艦隊を発見した地点が203地点であった)

加藤参謀長が、 加藤寛治 砲術長へ向き直る。

「砲術長、命中率と測敵は?」

「はっ。命中率は約十%、測距は相当正確です」

「バルチック艦隊の命中率は分からんだろうな」

(笑)

「いいえ。かなり低いと見て構わないと考えます」

「魚雷は、中々当たらんようだが」

すると 鈴木貫太郎 第四駆逐隊司令が真っ赤な顔で反論した。

「命中率は開戦時に比べて遥かに上がっています!」

「マアマア、鈴木怒るな怒るな」

(笑)

秋山真之が静かに続ける。

「第一段階として駆逐艦による夜襲を考えております」

「夜に敵を発見できるのか?」

「しかし集まっている敵艦隊をばらす事にならんか?」

秋山が口を開きかける。

「しかし、その――」

だが加藤参謀長が制した。

「イロイロご意見は御座いましょうが、すでにGFで作戦計画に織り込もうと考えておりますので」

別の声。

「加藤参謀長、明け方や昼に敵を発見したらどうなりますか?」

加藤友三郎は静かに答えた。

「その際は主力艦同士の戦いに、ならざるを得ない覚悟です」

後甲板が静まり返る。

誰かが低く呟いた。

「……死ぬか」

「死ぬだろうな」

島村速雄 第二戦隊司令官が、事も無げに遮った。

その淡々とした響きに、誰も言葉を返せなかった。

島村は海図上の「丁の字」の接点――敵前大回頭の位置を見つめたまま続ける。

「死ぬだろう。だが、敵を全滅させねば、この国が死ぬ」

狂気にも似た静謐が、鎮海湾の冷気と混ざり合う。

戦争とは結局、 国家が、人間の命を使って、国家を延命する行為なのかもしれなかった。

秋山真之 は表情を変えぬまま頷いた。

「左様。我ら幕僚の仕事は、その『死』を無駄死にに終わらせぬための算術に過ぎません」

後甲板に重い沈黙が落ちる。

その時、慎重な声が上がった。

「しかし司令長官は、畏れながら陛下に対して撃滅を奉答したと聴くが――」

冬風だけが吹く。

東郷平八郎 司令長官は僅かに頷いた。

「はい」

その短い返答の重さに、一同は息を呑んだ。

そしてその時だった。

後方に而立していた一人の水兵が、思わず小さく呟いた。

「……大丈夫かなぁ」

誰も笑わなかった。

東郷は静かに海図から視線を上げ、對馬へ続く冬の水平線を見つめた。

そこには、 戦艦三笠 以下の鋼鉄の艦隊だけではない。

この国の命運を背負って沈む覚悟を決めた、数万の生身の人間たちがいた。

三笠の煙突から吐き出される黒煙が、鉛色の空へ吸い込まれていく。

戦いは、まだ始まってさえいない。

だが、この後甲板に集った者たちの胸中には、冷徹な算術と、それを超えた「覚悟」という名の航路が、既に深く刻まれていた。

「……解散」

加藤友三郎 参謀長の短い号令。

将官たちは、それぞれの艦へ戻るため三々五々と散ってゆく。

鋼鉄の甲板を叩く足音だけが、鎮海湾の冷たい海へ、重く長く響き渡っていた。

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Hans (巓嚮院海老胡瓜庵) 資料収集や文献購入に、充てたいと思っております。