月の土地は誰の物?
序
桂離宮から中秋の名月を眺める――。
かつて日本人にとって月とは、愛でるものであり、詩を詠み、酒を酌み交わし、秋の訪れを感じる存在であった。月には兎が餅を搗き、桂の木が茂る。そんな優雅な想像を楽しむことこそ、月との正しい付き合い方だったのかもしれない。
しかし二十一世紀に入り、その雅な月は、いつしか「月の土地の所有権」という、いささか無粋な議論の対象となりつつある。
月の土地は、決して月兎や蟹、桂の木の所有物ではない。
では、誰の物なのだろうか。
人類全体の共有財産なのか。それとも、最初に到達した国が所有権を得るのだろうか。あるいは、未来の月面都市が独立国家となり、自らの領土を主張する日が来るのだろうか。
一見すると、SF小説のような話である。しかし、宇宙開発が急速に進む今日、この問いは決して空想ではない。月面基地の建設や資源開発は、もはや技術的な夢物語ではなく、現実の計画として語られている。
だが、ここで一つの疑問が生まれる。
そもそも「土地は誰の物か」という問いに、簡単な答えはあるのだろうか。
地球に目を向けても、世界には数多くの領土問題が存在する。歴史、条約、実効支配、民族、宗教、言語、そして国家の安全保障――。それらが複雑に絡み合い、「この土地は誰の物か」という問いに、唯一絶対の答えを与えることは容易ではない。
理想だけを語れば、世界は平和であるべきだと言える。しかし、現実には国家は自国民の生命と領土を守る責任を負っている。他国の良心だけに国家の命運を委ねることは、安全保障の思想とは相容れない。
だからといって、力だけが正義であると考えるならば、それもまた危うい。
本稿は、「月の土地は誰の物か」という、一見素朴な疑問から出発し、国家とは何か、領土とは何か、そして国際法はいかなる役割を果たしているのかを考えてみたい。
読者諸賢には、しばし地球を離れ、月まで散歩するつもりでお付き合いいただければ幸いである。
月を眺めながら始まった問いは、やがて私たちの足元――「国家とは何か」という、古くて新しい問題へと帰ってくるのである。

コラム① 月には兎がいる?
日本人にとって、月は単なる天体ではない。
『竹取物語』では、かぐや姫は月の都から地上へ遣わされ、やがて満月の夜、月の使者に迎えられて帰っていく。日本最古の物語文学は、「月は人の心を映す世界」であることを、千年以上も前から語っていた。
また、多くの人は月の模様に餅を搗く兎の姿を思い浮かべる。中国では、月には桂の大樹が茂り、仙女・嫦娥(じょうが)が住むと伝えられる。西洋では、「月の男(Man in the Moon)」の伝説が知られ、地域によっては蟹や蛙に見えるという言い伝えもある。
同じ月を見上げながら、人々はそれぞれ異なる物語を紡いできたのである。
科学は、月が岩石と砂に覆われた天体であることを明らかにした。しかし、それによって月が詩情を失ったわけではない。人類はロケットを飛ばす遥か以前から、想像力によって月へ旅をしていたのである。
もっとも、かぐや姫も月兎も、「この土地は私のものです」と所有権を主張したという話は聞かない。
困るのは、いつの時代も人間だけである。
月を眺めて和歌を詠み、『竹取物語』に思いを馳せた時代から、月面基地や資源開発を論じる時代へ――。
「月の土地は誰の物か」という問いは、科学技術の進歩が生んだ新しい問題である。しかし、その問いを投げかける相手は、千年前も今も変わらず、私たちの頭上に静かに輝いている月なのである。
第一章 国家とは何か
「国家とは何か。」
私たちは毎日、国家の中で暮らしている。戸籍があり、住民票があり、税金を納め、法律に従い、旅券を携えて外国へ渡る。しかし、「国家とは何か」と改めて問われると、答えに窮する人は少なくないだろう。
まず、国語辞典は「国家」をどのように説明しているのだろうか。
岩波書店『広辞苑』第四版は、国家を「一定の領土とその住民を治める排他的な権力組織と統治権をもつ政治社会。近世以降では通常、領土・人民・主権がその概念の三要素とされる。」と定義している。〔注1〕
また、新潮社『新明解国語辞典』第四版は、「一定の領土に住み、独立の統治組織を持つ人民の社会集団。」と説明している。〔注2〕
両者の表現には違いがあるものの、共通しているのは、「領土」「人民」、そしてそれらを統治する組織の存在である。
一般に国家は、領域・人民・政府という三つの要素によって成り立つと考えられている。
しかし、現代の国際社会では、それだけでは十分ではない。
一九三三年に締結されたモンテビデオ条約は、国家の要件として、
一 永久的住民
二 明確な領域
三 政府
四 他国と関係を取り結ぶ能力
の四要件を掲げている。
もっとも、この四要件を満たしただけで、国家が当然に安定した存在となるわけではない。
例えば、無人島に国旗を立てても国家にはならない。領域はあっても人民がいないからである。
また、多数の人々が生活していても、それを統治する政府が存在しなければ国家とは呼べない。
さらに政府が存在しても、その支配が実際に及んでいなければ、国家としての実体は極めて脆弱である。
そこで重要となるのが、「実効支配」という考え方である。
実効支配とは、単に「ここは我が国の領土である」と主張することではない。その地域に行政機関を置き、法を執行し、住民の生活を守り、公共の秩序を維持するなど、国家としての統治が現実に行われている状態をいう。
言い換えれば、地図に色を塗ることと、その土地を治めることとは全く別の問題なのである。
歴史を振り返れば、多くの領土紛争は、この実効支配をめぐって争われてきた。
「古くから我が国の領土である。」
「歴史的権利を有する。」
各国はしばしばそのように主張する。しかし国際社会では、歴史だけでも、法律だけでも結論は出ない。現実に誰が統治し、誰が責任を負っているのかという事実が、極めて重要な意味を持つ。
国家とは、単なる地図上の線ではない。
人々が生活し、政府が行政を行い、法が守られ、その秩序が継続して初めて国家は国家として存在するのである。
では、その国家同士の主張が衝突したとき、何が起こるのだろうか。
クリミア、フォークランド諸島、南シナ海、日本周辺の係争地――。
次章では、現実の世界で起きている領土問題を通して、「土地は誰のものか」という、本書の中心的な問いへと歩みを進めたい。
〔注1〕岩波書店『広辞苑』第四版、941頁。
〔注2〕新潮社『新明解国語辞典』第四版、439頁。

コラム② 国家は会社ではない。
会社は設立され、成長し、時には倒産する。
学校も開校し、やがて統廃合によって姿を消すことがある。
では、国家はどうだろうか。
「国家は永遠に存在する。」
そう思われがちである。しかし、歴史はそう教えてはいない。
第一次世界大戦後にはオーストリア=ハンガリー帝国が消滅した。
第二次世界大戦後には東西ドイツが誕生し、その後、再び一つのドイツとなった。
ソビエト連邦は一九九一年に解体され、一つの国家から十五の独立国家が生まれた。
ユーゴスラビアもまた、幾つもの国家へと分かれていった。
一方で、一九九〇年には南北イエメンが統一され、新しい国家となっている。
国家は決して不変ではない。
生まれ、成長し、分裂し、統合し、時には歴史の中へ消えていく。
人間に寿命があるように、国家にもまた歴史があるのである。
だからこそ、「この土地は昔から我が国のものだ」という言葉だけでは、今日の領有権を説明し尽くすことはできない。
国家そのものが変化する以上、領土もまた歴史の中で姿を変えてきたからである。
国家は永遠ではない。
しかし、人類は国家という仕組みを必要としてきた。
それは、人々が安心して暮らし、法の下で秩序を保ち、互いの権利を守るためである。
国家とは、地図に描かれた色分けではない。
そこに生きる人々の営みそのものなのである。
第二章 地球の領土問題
前章では、国家とは何か、その成立要件と実効支配について見てきた。
しかし、それらの原則は現実の国際社会では必ずしも明快な答えを導くとは限らない。
むしろ、国家が存在するからこそ領土問題は生まれる、と言ってもよいだろう。
もし地球上に国家が一つしか存在しなければ、「国境」という概念そのものが不要になる。
しかし現実には約二百の国家が存在し、それぞれが主権を持ち、自国の安全と利益を守ろうとしている。
その結果、「この土地は我が国の領土である」という主張が衝突するのである。
近年、最も大きな国際問題となった一つがクリミアである。
ロシアは歴史的経緯と住民投票を根拠に自国への編入を正当化した。一方、ウクライナをはじめ多くの国々は、武力による現状変更であり、国際法に反すると主張している。
どちらの主張を採るかによって、同じ出来事は全く異なる姿を見せる。
南大西洋のフォークランド諸島(アルゼンチン名・マルビナス諸島)も同様である。
イギリスは長年にわたる統治と住民の意思を重視する。
これに対し、アルゼンチンは歴史的権利を主張し、現在も領有権を放棄していない。
一九八二年には武力衝突にまで発展し、多くの犠牲者を出した。
一九九〇年、イラクはクウェートへ侵攻し、併合を宣言した。
しかし国際社会はこれを認めず、多国籍軍が武力によってクウェートを解放した。
この事例は、武力による一方的な領土変更を国際社会が容認しなかった代表例として挙げられる。
アジアへ目を向ければ、南シナ海では某国が広範囲に及ぶ権利を主張し、人工島の建設や軍事拠点の整備を進めている。
これに対して周辺諸国は国際法に基づく海洋秩序を主張し、その対立は現在も続いている。
海は国境線を引きにくい。
だからこそ、その争いは陸上以上に複雑になるのである。
日本の周辺にも、北方領土、竹島、尖閣諸島といった領土問題が存在する。
それぞれ歴史的経緯も、法的主張も、実効支配の状況も異なる。
一括して論じられる問題ではない。
しかし、そこには一つの共通点がある。
どの国も、自らの正当性を歴史によって説明し、国際法によって補強し、現実の実効支配によって維持しようとしていることである。
領土問題とは、単なる土地の奪い合いではない。
そこには歴史があり、人々の生活があり、国家の安全保障があり、そして民族の誇りがある。
だからこそ、容易に妥協することができない。
もし国際法だけで全てが解決するなら、世界から領土紛争は既に消えているはずである。
しかし現実はそうではない。
法は存在する。
けれども、それを守らせる力は誰が持つのか。
その問いは、依然として国際社会に残された最大の課題である。
次章では、国際法とは何か、そして誰がその法を守らせるのかという、さらに根源的な問題へと歩みを進めたい。

コラム③ 土地は国家間で、売買できるのか?
「国土は売り買いできるのですか。」
そう尋ねられると、多くの人は「まさか」と思うだろう。
しかし、歴史は意外な答えを示している。
一八〇三年、フランスのナポレオンは、広大なルイジアナをアメリカへ売却した。これが「ルイジアナ買収」である。
一八六七年には、ロシア帝国がアラスカをアメリカへ売却した。当時は「氷と熊しかない土地を買った」と揶揄されたが、その後、金や石油などの豊富な資源が発見され、この取引は歴史上屈指の「安い買い物」であったとも言われている。
また、一八九九年にはドイツがスペインからカロリン諸島などを買収している。
もっとも、すべてが売買という形で移転したわけではない。
香港の新界は九九年間の租借という特殊な契約によってイギリスの統治下に置かれ、一九九七年に中国へ返還された。
パナマ運河地帯も、条約に基づいて長年アメリカが管理した後、一九九九年にパナマへ返還されている。
このように、領土は戦争だけでなく、売買や租借、条約など、さまざまな方法によって歴史の中で姿を変えてきた。
もちろん、今日では事情が異なる。
現代の国際法の下では、国家の領土は単なる「不動産」ではない。そこには人々の暮らしがあり、文化があり、歴史があり、主権が存在する。
だからこそ、「土地を売れば済む」というほど単純な話ではないのである。
もっとも、「月面一区画、一坪一万円」と広告する業者があるそうだ。
夢を買うのは自由である。
しかし、その土地の登記簿を管理する法務局は、まだ月には存在しない。
第三章 誰が法を守らせるのか
前章では、世界各地の領土問題を見てきた。
クリミア、フォークランド諸島、クウェート、南シナ海、日本周辺の係争地――。
それぞれ歴史的背景も法的主張も異なる。しかし、一つだけ共通する問いがある。
「誰が法を守らせるのか。」
国内であれば、その答えは比較的明快である。
法律を破れば警察が捜査し、検察が起訴し、裁判所が判断を下す。そして判決は国家権力によって執行される。
つまり、法の背後には強制力が存在する。
では、国際社会ではどうだろうか。
もちろん、国際法は存在する。
国家間の約束を定めた条約があり、長年の慣行から形成された慣習国際法があり、武力行使を制限する国際連合憲章もある。
さらに、国家間の紛争を法に基づいて判断する国際司法裁判所(ICJ)も設けられている。
しかし、ここで国内法との決定的な違いが現れる。
国際社会には、世界政府が存在しない。
世界共通の警察もなければ、判決を強制的に執行する世界警察も存在しないのである。
国際法は、国家相互の合意によって成り立つ法である。
そのため、判決が示されても、それを受け入れるかどうかは、最終的には国家の意思に委ねられる場面が少なくない。
もちろん、多くの国は国際法を尊重している。
もし条約が守られず、約束が守られなければ、国際社会そのものへの信頼が失われてしまうからである。
しかし、国家は時として、自国の安全保障や国益を国際法より優先すると判断することがある。
そこに国際政治の現実がある。
理想としての国際法と、現実としての国家利益。
その間には、しばしば大きな隔たりが横たわる。
だからこそ、安全保障を考える上で忘れてはならない原則がある。
他国の良心に国家の命運を委ねることは、安全保障の思想とは相容れない。
これは他国を疑え、という意味ではない。
国家には、それぞれ守るべき国民があり、守るべき利益があるという現実を直視せよ、ということである。
善意は尊い。
しかし、安全保障は善意だけを前提として築くことはできない。
その一方で、力だけに依存する世界もまた危うい。
もし力だけが支配するなら、国際法は意味を失い、世界は「強い者が正しい」という時代へ逆戻りしてしまう。
だから人類は、戦争を経験するたびに、新しい条約を結び、新しい国際機関を設け、法による秩序を築こうとしてきた。
その歩みは決して完全ではない。
それでも、人類は理想を捨てなかった。
国際法とは、完成された制度ではなく、完成を目指して努力し続ける仕組みなのである。
その最も象徴的な例が、南極である。
国家間の対立を棚上げし、「人類共通の財産」という理念を掲げた南極条約は、理想と現実が歩み寄った、数少ない成功例と言えるだろう。
次章では、その「南極という例外」について考えてみたい。

コラム④ 国境は言葉で決まるのか?
「同じ言葉を話す人々は、同じ国に住むべきである。」
一見もっともらしい考え方である。
しかし、現実の世界はそれほど単純ではない。
例えば、カナダのケベック州では、現在もフランス語が公用語として広く用いられている。しかし、だからといってケベック州がフランスの領土であると主張する人はいない。
スイスでは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語という四つの言語が公用語となっている。それでも、一つの国家として今日まで存続してきた。
一方、かつてのユーゴスラビアは、民族、宗教、歴史の違いが複雑に絡み合い、ついには幾つもの国家へと分裂した。
また、世界各地には華僑や印僑のように、祖先の文化や言語を大切にしながら、居住国の国民として生活している人々も少なくない。
つまり、言葉は文化を結び付けることはあっても、国境そのものを決めるものではないのである。
国家とは、言語だけで成り立つものではない。
歴史があり、法があり、人々の暮らしがあり、互いに築き上げてきた共同体としての営みがある。
だからこそ、同じ言葉を話していても別々の国家である場合もあれば、多くの言語を抱えながら一つの国家として歩み続ける国も存在する。
言葉は国境を越える。
しかし、国家は言葉だけでは越えられない。
その違いを理解することが、領土問題や国家という存在を考える第一歩なのである。
第四章 南極という例外
地球上で最も寒く、最も乾燥し、最も風が強い大陸。
それが南極である。
氷に覆われた広大な大地には、恒久的な住民は存在しない。
人々が暮らす都市もなく、農地もなく、工業地帯もない。
しかし、この人類最後の大陸をめぐっては、かつて複数の国が領有権を主張していた。
イギリス、アルゼンチン、チリ、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、ノルウェーなどが、それぞれ自国の領土であると宣言し、一部は互いに重複していた。
もし、それぞれが自らの主張を武力によって実現しようとしていたなら、南極もまた紛争の地となっていたかもしれない。
しかし、人類は別の道を選んだ。
一九五九年に採択された南極条約は、各国の領有権主張を否定も承認もせず、「棚上げ」としたのである。
これは極めて賢明な選択であった。
「誰の領土か」という問題で争うよりも、まず平和的な利用と科学研究を優先しようという考え方である。
その結果、南極では軍事基地の設置や軍事演習が禁止され、核実験や放射性廃棄物の処分も認められていない。
世界各国の観測隊は国籍を超えて協力し、地球環境や気象、宇宙、生命科学など、さまざまな研究を続けている。
もちろん、南極条約にも課題はある。
資源開発をめぐる将来の問題や、観光客の増加による環境への影響など、新たな課題も生まれている。
それでも七十年近くにわたり、南極が大規模な国際紛争の舞台とならなかったことは、国際協力の歴史において特筆すべき成果と言えるだろう。
ここで思い出していただきたい。
本書は、「月の土地は誰の物か」という問いから始まった。
南極もまた、「誰のものか」という問いに対して、人類が一つの答えを示した場所である。
それは、「今は争わず、未来の人類のために守ろう」という選択であった。
この考え方は、そのまま宇宙へ広げることができるのだろうか。
月や火星、小惑星に眠る資源を前にしても、人類は南極と同じ知恵を持ち続けることができるのだろうか。
その答えは、まだ誰にも分からない。
しかし、南極という実例は、一つの希望を私たちに示している。
国家は対立することもある。
しかし、協力することもできる。
南極とは、その可能性を静かに語り続けている、氷の大陸なのである。
次章では、視線を再び宇宙へ向けよう。
人類がこれから向かおうとしている月や小惑星は、「第二の地球」となるのか。それとも、南極とは全く異なる未来を歩むのか。
本書の冒頭で投げかけた問いは、いよいよ宇宙という舞台で、その答えを探すことになる。

コラム⑤ 北極には条約がない?
「南極には南極条約がある。それなら北極にも北極条約があるのだろう。」
そう思われる方は少なくない。
ところが、現在のところ「北極条約」と呼ばれる包括的な国際条約は存在しない。
その理由は、南極と北極とでは成り立ちが全く異なるからである。
南極は大陸であり、その周囲を海が取り囲んでいる。
これに対して北極は、海の上に氷が浮かぶ世界である。その周囲には、カナダ、アメリカ、ロシア、ノルウェー、デンマーク(グリーンランド)などの沿岸国が存在している。
したがって、北極海の利用や資源開発については、主として国際法、とりわけ海洋法の枠組みの中で調整が図られている。
近年は地球温暖化の影響で海氷が減少し、新たな航路の利用や石油・天然ガスなどの資源開発への期待が高まっている。
その一方で、環境保護や先住民族の暮らしとの調和も重要な課題となっている。
同じ「極地」でありながら、南極は国際協力の象徴となり、北極は沿岸国の利害が交錯する舞台となっているのである。
自然はよく似ていても、法の世界では全く異なる姿を見せる。
この違いは、これから人類が向かおうとしている宇宙を考える上でも示唆に富んでいる。
月や火星は、南極のような「人類共通の財産」となるのだろうか。
それとも北極のように、国家間の利害が複雑に交錯する新たな舞台となるのだろうか。
その答えは、まだ未来に委ねられている。
第五章 宇宙は第二の地球になるのか
人類は、いま再び月を目指している。
かつてアポロ計画は、「人類は月へ行くことができる」ことを証明した。
そして今日、新たな宇宙開発は、「人類は月で暮らすことができるのか」という新しい段階へ進もうとしている。
月面基地の建設、資源開発、さらには火星への有人探査計画まで現実のものとして語られるようになった。
それに伴い、「宇宙は誰のものか」という問いは、もはや空想ではなくなったのである。
一九六七年に採択された宇宙条約は、宇宙空間、月その他の天体について、いずれの国家も主権を主張してはならないと定めている。
換言すれば、国家は月を自国の領土として編入することはできない。
この原則は、いわば宇宙版の「南極条約」の理念にも通じるものであり、宇宙を全人類の利益のために利用しようという理想に基づいている。
しかし、理想だけで未来は築けない。
仮に月で希少な資源が発見され、それを採掘する技術が確立したとしよう。
その資源は、誰のものになるのだろうか。
採掘した国か。
採掘した企業か。
それとも人類全体で分かち合うべきものなのか。
宇宙条約が制定された時代には、こうした問題は現実味を帯びていなかった。
しかし、科学技術の進歩は、法律の想像を追い越そうとしている。
さらに考えなければならない問題がある。
もし月面基地で事故や犯罪が起きたなら、どこの国の法律が適用されるのだろうか。
異なる国の宇宙飛行士同士が紛争を起こした場合、その裁判は誰が行うのだろうか。
そこには世界警察もなければ、宇宙裁判所も存在しない。
国際協力によって解決されることを期待するしかないのが現状である。
それでも私は、悲観ばかりしているわけではない。
人類は南極という前例を持っている。
対立する国家が知恵を出し合い、平和的利用という理念を守り続けてきた歴史がある。
宇宙でもまた、その経験は決して無駄にはならないだろう。
もちろん、国家の利害が完全になくなることはない。
宇宙開発もまた、安全保障や経済、科学技術と密接に結び付いている。
だからこそ、現実を直視しながら理想を失わない姿勢が求められるのである。
宇宙は第二の地球になるのだろうか。
その答えは、まだ誰にも分からない。
しかし、一つだけ確かなことがある。
地球で繰り返してきた過ちを、そのまま宇宙へ持ち込んではならないということである。
月は、争いの舞台ではなく、人類が協力する舞台であってほしい。
それは理想論かもしれない。
しかし、人類は理想を掲げることによって、現実を少しずつ変えてきた。
夜空に輝く月は、千年前も、今も、そして千年後も変わらず私たちを照らし続けるだろう。
その月を見上げる未来の子どもたちが、「あの時代の人々は、宇宙を争いの場ではなく、希望の場として残してくれた」と思える世界であってほしい。
その願いを胸に、最後の章では、本書全体を振り返りながら、「理想と現実の間」で生きる私たちの姿を、もう一度考えてみたい。

コラム⑥ 宇宙人にも国籍はあるのか?
「宇宙飛行士は、宇宙へ行くと国籍がなくなるのですか。」
そんな質問を受けたことがある。
答えは、「いいえ」である。
国際宇宙ステーションには、さまざまな国の宇宙飛行士が滞在している。
しかし、宇宙へ行ったからといって国籍が消えるわけではない。
日本人は日本人であり、アメリカ人はアメリカ人のままである。
宇宙船もまた、船舶や航空機と同じように登録された国の管轄に置かれる。
では、未来に月面都市が造られ、多くの人々が暮らすようになったらどうなるのだろう。
月で生まれた子どもの国籍は。
月で結婚した夫婦の法律は。
月で事件が起きたなら、どこの裁判所が裁くのだろう。
今はまだ、どれも教科書に載るような空想の話に聞こえるかもしれない。
しかし、百年前には「人類が月へ行く」こと自体が空想であった。
科学は、しばしば人間の想像を追い越してゆく。
法律は、その少し後ろを懸命に追いかけている。
だから法律は、決して完成されたものではない。
社会が変われば法も変わる。
技術が進めば、新しい知恵も求められる。
宇宙時代の法律もまた、その例外ではないのである。
もっとも、本当に宇宙人と出会う日が来たなら、まず考えるべきは国籍ではあるまい。
「こんにちは。」
そう挨拶できる言葉を、お互いに探すことの方が先である。
その時、人類は初めて、「国境」という言葉の意味を、今とは少し違った視点から見つめ直すのかもしれない。
第六章 理想と現実の間で
本稿は、「月の土地は誰の物か」という素朴な疑問から始まった。
その問いを追いながら、私たちは国家とは何かを考え、領土紛争を見つめ、国際法の限界を知り、そして南極という希望の実例を見てきた。
最後に、もう一度、私たち自身へ問いを返してみたい。
国家とは、何のために存在するのだろうか。
ある日、私はサッカー・ワールドカップの中継を見ていた。
スタジアムは熱狂に包まれ、国旗が翻り、国歌が響く。
人々は自国の勝利を願い、選手たちは国家の名を背負って戦っていた。
スポーツは、人々を一つにする力を持っている。
国家とは、そこに暮らす人々が共に喜び、共に涙する共同体でもある。
ところが、テレビのチャンネルを変えると、全く別の現実が映し出された。
ウクライナでは砲撃によって街が破壊され、中東では戦火の中で人々が避難を続けている。
そこでもまた、「国家」が語られていた。
国境を守るために。
主権を守るために。
安全保障のために。
同じ国家という存在が、一方では人々に誇りと連帯を与え、他方では争いの原因ともなる。
私はその落差に、一週間ほど考え込んでしまった。
国家は善なのか。
それとも悪なのか。
おそらく、その問いそのものが間違っているのであろう。
国家は善でも悪でもない。
火や刃物と同じように、人間が生み出した一つの仕組みにすぎない。
使い方によって人を温めもすれば、人を傷つけもする。
だから国家を否定することも、国家を絶対視することも、共に賢明とは言えない。
国家を必要とする現実を認めながら、その暴走を法と理性によって抑えようとする。
その不断の努力こそが、人類の歴史であった。
南極条約は、その努力が実を結んだ一つの例である。
宇宙条約もまた、その延長線上にある。
そして、これから人類が月へ、火星へと進出する時代には、さらに新しい知恵が求められるだろう。
月は誰の物なのか。
現在の国際法は、「いずれの国家のものでもない」と答えている。
しかし、本当に重要なのは、その答えではない。
その答えを、人類が未来にわたって守り続けることができるかどうかである。
理想だけでは世界は守れない。
現実だけでは世界は豊かにならない。
理想なき現実は力の支配へと堕し、現実なき理想は空論に終わる。
国家は、その両者の均衡の上にのみ存立し得るのである。
そして、夜空に静かに輝く月は、今日も変わることなく私たちを見下ろしている。
あの月を見上げるたびに、「誰の物か」と争うのではなく、「人類共通の未来」であることを願う心だけは、失いたくないものである。

終章コラム 月が美しいですね。
「I love you.」
この英語を、夏目漱石は「月が美しいですね。」と訳した――そんな逸話がある。
もっとも、本当に漱石がそう語ったのかは定かではない。
しかし、この話が今日まで多くの人に愛されてきたことには、それなりの理由があるように思う。
日本人は、思いをすべて言葉にするよりも、その場の情景に託して心を伝えることを好んできた。
満開の桜を眺め、秋の虫の音に耳を澄ませ、そして月を見上げる。
言葉は少なくとも、思いは深い。
古の人は月に兎を見た。
『竹取物語』では、月はかぐや姫の故郷であった。
和歌には幾度となく月が詠まれ、旅人は月を友とし、恋人は月に思いを託した。
やがて人類は科学を発達させ、ロケットを飛ばし、ついには月へ降り立った。
そこには、かぐや姫も兎もいないという無粋な結論を得た。
けれども、人類は一つだけ、昔の人々が知らなかった美しいものを見た。
月から眺めた、青く輝く地球である。
あの光景は、人類が初めて手にした「共通の故郷」の肖像であった。
本書は、「月の土地は誰の物か」という問いから始まった。
法律は、「いずれの国家のものでもない」と答える。
それは国際法として、きわめて重要な答えである。
しかし、この一冊を書き終えた今、私はもう一つの答えを心に抱いている。
月は、誰の物でもない。
だからこそ、誰もが見上げることができる。
国境を越え、民族を越え、宗教を越え、政治的立場を越えて、一つの月を眺めることができる。
それは、人類が太古から分かち合ってきた、最も古く、最も美しい共通財産なのかもしれない。
もし、夏目漱石が本当に「月が美しいですね。」と言ったのだとしたら、その言葉は恋人への愛だけではなく、人と人とが同じ月を見上げることのできる世界への、静かな願いでもあったのではないだろうか。
今夜もまた、月は何も語らない。
それでも、その光は世界中の人々の上に、分け隔てなく降り注いでいる。
月を見上げるとき、人は国境を忘れることができる。
その月が、いつまでも争いの対象ではなく、人類の希望の象徴であり続けることを願って、本稿を閉じることとしたい。

あとがき
「月の土地は誰の物か。」
この論考は、その素朴な疑問から始まりました。
もっとも、この問いを思い付いたのは、天文学の本を読んだからでも、宇宙法に興味を持ったからでもありません。
ある日、テレビでサッカー・ワールドカップを観戦していました。
スタジアムには歓声が響き、選手たちは国旗を胸に躍動し、人々は自国の勝利を心から喜んでいました。
ところが、その後に流れたニュースでは、ウクライナやイランで戦火に苦しむ人々の姿が映し出されました。
同じテレビ画面に映し出された、歓喜と悲劇。
そのあまりにも大きな落差に、私は一週間ほど考え込んでしまいました。
国家とは何なのだろう。
国境とは何なのだろう。
そして、人類はこれから宇宙へ進出していくというのに、地球で繰り返してきた争いまで宇宙へ持ち込むのだろうか。
そんな思いが、本稿を書くきっかけとなりました。
本稿は、法律の著でもあり、国際政治の著でもあります。
しかし、それ以上に、一人の市民として「国家とは何か」「人類とは何か」を考え続けた記録でもあります。
読者の皆様には、私の結論に賛成していただく必要はありません。
ただ、本稿を読み終えたあと、一度だけ夜空を見上げていただければ、それで十分です。
そして、静かに輝く月を前にして、
「月の土地は誰の物なのだろう。」
そう思っていただけたなら、著者としてこれ以上の喜びはありません。
最後になりましたが、この論考を最後まで読んでくださった読者の皆様に、心より感謝申し上げます。
皆様の頭上に輝く月が、いつまでも争いの象徴ではなく、人類共通の希望の光であり続けることを願って、筆を擱きます。
令和八年 猛暑の夏に
Hans(巓嚮院海老胡瓜庵)
余滴
地図を開いてみる
本書で取り上げた領土問題は、地図を見ながら読むと理解が一層深まる。国境や海峡、島々の位置関係は、文章だけでは伝わりにくいことも少なくない。
国際司法裁判所という存在
国家間の紛争を法に基づいて裁く国際司法裁判所(ICJ)は、国際法を支える重要な機関である。しかし、その権限は各国の同意を前提としており、国内裁判所のような強制力を持つものではない。
宇宙法は今も発展途上
月や小惑星の資源利用が現実味を帯びるにつれ、宇宙法もまた新たな課題に直面している。人類が宇宙へ活動の場を広げるほど、「誰の物か」という本書の問いは、ますます現実のものとなっていくであろう。
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