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法学博士カール・ムックの栄光と挫折――ワーグナーが託した《パルジファル》、聖杯騎士の伝統

第一部 法学博士から世界的指揮者へ

音楽史において、法学博士の学位を持つ世界的指揮者は極めて稀である。カール・ムック(一八五九―一九四〇)は、その数少ない例の一人であった。

十九世紀末から二十世紀初頭のヨーロッパにおいて、博士号は単なる学位ではなかった。それは学問の世界に身を置き、大学人として歩むことを許された証であり、いわば知識人としての資格証でもあった。

ドイツ南部ダルムシュタットに生まれたムックは、幼い頃から音楽に親しみながらも、まず学問の道を歩んだ。ハイデルベルク大学、続いてライプツィヒ大学で法学を学び、法学博士号を取得する。

当時のドイツの大学には、「メンズール」と呼ばれる学生同士の決闘が盛んに行われていた。刃を交えることで勇気と名誉を重んじるこの風習は、傷痕さえも男子の勲章と考えられていた。ムックの頬にも生涯消えることのない傷が残り、その精悍な面差しは後年の肖像写真にもはっきりと見て取ることができる。

博士号を得た青年の前には、学者あるいは法律家として将来を約束された道が開けていた。しかし、ムックが選んだのは、安定した学問の世界ではなく、音楽という険しくも不確実な道であった。

各地の歌劇場で経験を積んだムックは、その卓越した才能によって次第に頭角を現す。そして一九〇一年、ワーグナーの聖地バイロイト祝祭劇場の指揮者に迎えられた。

そこでムックは、リヒャルト・ワーグナーの未亡人コジマ・ワーグナーの厚い信頼を得る。とりわけ《パルジファル》では、初演指揮者ヘルマン・レーヴィから受け継がれた演奏理念を忠実に継承し、その精神を後世へ伝えるという重要な使命を担った。後に彼が「バイロイト精神の最後の真の使徒」と称えられることになる原点は、まさにここにあった。

一九〇六年には渡米し、ボストン交響楽団音楽監督に就任する。当時すでに全米屈指のオーケストラであった同楽団を、さらに世界最高水準へと押し上げた功績は計り知れない。

ムックのリハーサルは厳格で、一音たりとも妥協を許さなかった。しかし、その厳しさは独裁ではなく、作品に対する徹底した誠実さの表れであった。団員たちは畏敬の念を抱きながら彼に従い、ボストン交響楽団は緻密さと気品を兼ね備えた名門オーケストラとして国際的な名声を確立していく。

その後、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世のたっての要請により帰国し、ベルリン宮廷歌劇場を率いることとなる。皇帝から真珠のネクタイピンを下賜されたという逸話は、ムックが芸術家としていかに高い信頼と敬意を集めていたかを物語っている。

再びボストン交響楽団へ迎えられたムックは、二度目の音楽監督として円熟の時代を迎える。その統率力は一段と磨かれ、後にアルノルト・シェーンベルクはムックの指揮するボストン交響楽団を「世界最高のオーケストラ」と讃えている。

一九一七年、ムックはボストン交響楽団とともにワーグナー、ベルリオーズ、チャイコフスキー等の作品の歴史的録音を残した。当時はアコースティック録音(ラッパ吹き込み)の時代であり、一枚のレコードに収められる演奏時間はわずか数分であった。それでも、その限られた時間の中には、揺るぎない構築力と端正な様式感が刻み込まれている。

後年、初めて自らの録音を蓄音機で耳にしたムックは、思わずこう呟いたという。

「誰だ、私と同じ演奏をしているのは?」

それは決して驕りではない。理想と現実を常に見つめ続けた、一人の芸術家ならではの率直な驚きだったのである。

しかし、この輝かしい栄光の日々は、第一次世界大戦という未曾有の激流によって、思いもよらぬ方向へと流されていくことになる。

第二部 戦争は芸術にも中立を許さなかった

二十世紀初頭、ヨーロッパを覆った戦火は、やがて大西洋を越え、アメリカ社会そのものを大きく変えていった。

開戦当初、アメリカはなお中立を保っていた。当時のアメリカ・ビクター社は、交戦各国の国歌を次々と録音・発売し、これらはベストセラーとなった。人々は敵味方を問わず、それぞれの国歌に耳を傾け、音楽はなお国境を越える存在であり得たのである。

しかし、一九一七年四月、アメリカが参戦すると空気は一変した。昨日まで親しまれていたドイツ音楽は「敵国の文化」と見なされ、反独感情は社会全体を覆い始める。

その流れは音楽界だけではなかった。ハリウッドでは反独映画が次々と製作され、オーストリア生まれのエーリヒ・フォン・シュトロハイムは冷酷なドイツ軍将校役で人気を博した。チャールズ・チャップリンは戦時公債購入を呼びかける映画『The Bond』を制作し、世界的テノールのエンリコ・カルーソーは愛国歌「Over There」を録音するなど、多くの芸術家が国家の要請に応える時代となっていた。

その渦中に立たされたのが、ボストン交響楽団音楽監督カール・ムックであった。

ムックは政治家ではない。熱烈な愛国主義者でもない。彼が生涯守ろうとしたのは、音楽の尊厳であり、芸術の独立であった。

一九一七年、ボストン交響楽団の演奏会で、アメリカ国歌「星条旗」を演奏するよう求められたムックは、演奏会は政治的示威の場ではないとの信念から、これを拒否した。

しかし、その判断は芸術上の信念として受け止められることはなかった。「敵国ドイツへの忠誠」と報じられ、新聞は連日のように彼を攻撃し、世論は一気に反ムックへと傾いていく。

やがてムックは「敵性外国人」として拘束され、ジョージア州オーグルソープ砦の収容所へ送られた。正式な裁判で有罪を宣告されたわけではない。それでも、戦時下では法よりも世論が、芸術よりも国家が優先されたのである。

終戦後、釈放されたムックはドイツへ送還され、二度とボストン交響楽団の指揮台へ立つことはなかった。彼がアメリカに残した数多くの録音も長く顧みられることはなく、その芸術は歴史の陰へ埋もれていく。

しかし、ムックが受け継いだものまで失われたわけではない。

ヘルマン・レーヴィから託された《パルジファル》の精神は、バイロイトで守り続けられ、後にハンス・クナッパーツブッシュへと受け継がれていく。「聖杯騎士の伝統」は、時代の激流にも消えることはなかったのである。

芸術家である前に、国籍で判断された時代であった。

第三部 聖杯騎士の伝統

《パルジファル》は、バイロイトのためだけに生まれた作品である。

リヒャルト・ワーグナーは、この最後の作品を単なる歌劇ではなく、「舞台神聖祝祭劇(Bühnenweihfestspiel)」と名付けた。そして、自ら創設したバイロイト祝祭劇場のみで上演されるべき作品として世に送り出した。

それは劇場という建物を意味するだけではない。演出、歌唱、管弦楽、そして指揮法までも含めた「バイロイト精神」の継承こそ、《パルジファル》の本質だったのである。

一八八二年の初演では、ヘルマン・レーヴィが指揮台に立った。ワーグナー没後はコジマ・ワーグナーがその遺志を守り、この神聖な作品を託すことのできる指揮者を厳しく選び続けた。

その絶大な信頼を勝ち得た人物こそ、カール・ムックであった。

一九〇一年、ムックは《パルジファル》の指揮者としてバイロイトに迎えられた。それは一度限りの客演ではなかった。以後約三十年間、この神聖な作品を一身に託され続けたのである。バイロイトの歴史を振り返っても、これほど長きにわたり《パルジファル》の伝統を担った指揮者は他に例を見ない。僅かにこれに比肩するのは、ムックの《パルジファル》を知り、その伝統を受け継いだハンス・クナッパーツブッシュのみである。

ムックの演奏には、指揮者自身を誇示する華やかさはない。

音楽はゆったりと嫋やかに流れ、劇的な効果をことさらに求めることもない。派手な強奏で聴衆を圧倒するのではなく、旋律そのものに語らせる。それは、指揮者が作品を支配するのではなく、作品に奉仕する姿勢であった。

初めてムックの録音を聴く人は、そのあまりに淡々とした演奏に戸惑うかも知れない。劇的な煽りも、聴衆を圧倒するような強音もない。しかし、それこそがムックの真髄なのである。彼は音楽に自らの感情を投影するのではなく、作品そのものを静かに語らせようとした。ゆったりと嫋やかなテンポの中を音楽は揺蕩うように流れ、聴き進むほどに、その深い精神性が静かに心へ沁み込んでくる。

一九二七年、イギリス・コロンビアはバイロイト祝祭劇場で《パルジファル》の電気録音を行った。これはバイロイトにおける最初期の電気録音であり、今日では音楽史上極めて貴重な記録として知られている。

さらに、この録音には現在では失われた「パルジファルの鐘」の響きが刻み込まれている。ワーグナーが理想としたあの荘厳な鐘の音色を伝える、ほとんど唯一の歴史的証言である。

その後、ベルリンではエレクトローラへの録音も行われた。そこに刻まれた演奏は、いずれも指揮者の技巧を誇示するものではなく、作品への深い敬意に貫かれている。ムックは自らを語るためではなく、ワーグナーの精神を後世へ伝えるために指揮棒を振ったのであった。

一九三〇年、ムックは約三十年に及ぶバイロイトでの活動に静かに終止符を打つ。

しかし、彼が守り続けた《パルジファル》の伝統は終わらなかった。

後にバイロイトで《パルジファル》を指揮したアルトゥーロ・トスカニーニでさえ、この作品では約五時間にも及ぶ異例の長大な演奏を残している。それほど《パルジファル》とは、レーヴィからムックへ、そしてハンス・クナッパーツブッシュを経て後の世へと受け継がれた「聖杯騎士の伝統」に支えられた、比類なき作品なのである。


第四部 栄光の彼方へ

第一次世界大戦終結後、カール・ムックはアメリカを去り、祖国ドイツへ戻った。

戦前、ボストン交響楽団を世界最高峰の一つへと育て上げた名声は、もはや失われてしまったわけではない。しかし、その栄光には、祖国を愛したが故に敵国人として拘禁され、追放されたという消えることのない傷跡が刻まれていた。

ベルリンでは再び指揮台に立ち、ベルリン国立歌劇場をはじめ各地で活動を続けたが、往年のように世界を股に掛ける生活へ戻ることはなかった。

彼の最後の録音と覚しいものは、一九三〇年、ベルリン放送管弦楽団との帝国放送協会(RRG)によるワーグナー《ジークフリートの葬送行進曲》であろう。そこには、青年期の輝きとは異なる、人生の重みを知り尽くした老芸術家の境地が刻み込まれている。

英雄ジークフリートを送る荘厳な音楽が、奇しくもムック自身の芸術人生を締めくくる最後の響きの一つとなったことは、いかにも象徴的である。

この頃、日本の若き指揮者・子爵近衞秀麿もムックを訪ね、その薫陶を受けている。バイロイト精神はヨーロッパに留まることなく、海を越えて日本へも静かに受け継がれていったのである。

やがてムックは静かに第一線を退き、一九四〇年三月三日に世を去った。

その葬儀では、棺は列車で妻の眠るグラーツへと運ばれ、多くの人々が最後の別れを惜しんだ。

しかし、ムックの真の遺産は、その演奏活動の数や肩書ではなかった。

《パルジファル》は単なる楽劇ではない。

ワーグナー自身が「舞台神聖祝典劇(Bühnenweihfestspiel)」と名付けたこの作品は、宗教的儀式にも似た特別な精神世界を舞台上に現出するために創作されたものである。

その精神は、初演指揮者ヘルマン・レーヴィからカール・ムックへと受け継がれ、さらにムックの《パルジファル》に学んだハンス・クナッパーツブッシュへと引き継がれていった。

それは単なる指揮法の継承ではない。

作品に奉仕し、自らを誇示することなく、静かにワーグナーの世界を築き上げる精神そのものが、百年近くにわたり受け継がれてきたのである。

幸いなことに、ムックの遺した録音は、今なお比較的容易に入手することができる。

百年前のバイロイトとボストンの響きは、今日も静かに私たちの耳元で息づいている。

初めてムックの録音を聴く人は、そのあまりに淡々とした演奏に戸惑うかもしれない。

しかし、それはムック一人の個性ではない。

同時代のフェリックス・ワインガルトナーやリヒャルト・シュトラウスの録音にも、同様の演奏様式を聴き取ることができる。今日の演奏と比べれば、感情を過度に表出することなく、作品そのものを端正に語ろうとする姿勢は、いささか淡白に映るであろう。

しかし、それは現代という時代から過去を眺めているからである。

二十世紀初頭、このような演奏こそが聴衆に最も自然な音楽表現として受け入れられていた。指揮者が自己を前面に押し出すのではなく、作品そのものに語らせる──それが当時の理想であり、ムックもまた、その理想を最も純粋な形で体現した芸術家の一人であった。

我々が今日、それらの演奏を「古臭い」と感じる最大の理由は、二十世紀半ば以降に成立した新しい演奏様式を無意識の尺度としているからである。ムックやワインガルトナー、リヒャルト・シュトラウスの録音は、当時の美意識そのものを、今日まで伝える歴史的証言なのである。

ムック事件は、一人の芸術家の悲劇に終わらなかった。

ボストン交響楽団は、その後アンリ・ラボー、ピエール・モントゥー、セルゲイ・クーセヴィツキーらを音楽監督に迎え、次第にフランス音楽やロシア音楽の伝統を育んでいくことになる。

少なくとも現在に至るまで、カール・ムック以後、ボストン交響楽団がドイツ人を音楽監督に迎えたことはない。

この事実と一九一八年の事件との因果関係を断定することはできない。しかし、ムックの退任が、ボストン交響楽団の芸術的歩みに一つの転機をもたらしたことは、歴史の流れを見れば否定し難いように思われる。

カール・ムックは、生前、その功績に比して必ずしも正当な評価を受けたとは言えない。

だが、芸術とは、一時代の名声によってのみ測られるものではない。

1926年当時、高名だった音楽評論家リヒャルト・シュペヒトは、ムックを評してこう記した。

「バイロイト精神の最後の真の使徒。」

これほど的確にカール・ムックという芸術家を言い表した言葉を、私は他に知らない。

《パルジファル》という作品の中に、そして静かに語りかける数少ない録音の中に、ムックの芸術は今なお生き続けている。

聖杯騎士の伝統は、決して途絶えることはなかったのである。

現在入手可能なカール・ムックの録音です。


米 ボストン交響楽団の自主制作CD
BSO CLASSICS 171002


墺 PREISER RECORDS
90269


英 Appian Publications and Recordings
APR 5521


英 Pearl
OPAL CDS 9843 (2CDs)


西ドイツ BASF/ACANTA
HB 22863-0 4LP

以上です。

参考資料 パルジファールの演奏時間の記録

指揮者 主な年 演奏時間(概数)

ヘルマン・レーヴィ 1882年 4時間04分

初演。ワーグナーの直接の指導。

カール・ムック 1901年 4時間27分

荘重・神秘的。

アルトゥーロ・トスカニーニ 1931年 4時間48分

バイロイト屈指の長大な演奏。


ハンス・クナッパーツブッシュ 1951年 4時間33分

壮麗で瞑想的。


クレメンス・クラウス 1953年 約4時間20分

推進力と歌心の均衡。


アンドレ・クリュイタンス 1955年頃 約4時間18分

流麗で透明感のある音楽。


ピエール・ブーレーズ 1970年代 約4時間15分

明晰で構築的。


ホルスト・シュタイン 1980年代 約4時間20分

伝統と近代の折衷。

バイロイト祝祭劇場の「幕係の記録」より。
各前奏曲を除く場合があるので注意しなければなりません。

各幕毎の演奏時間の記録

指揮者  第1幕 第2幕 第3幕 合計

レーヴィ(1882)

1:47 1:02 1:15 4:04

ムック(1901)

1:56 1:07 1:23 4:26

トスカニーニ(1931)

2:06 1:12 1:30 4:48

クナッパーツブッシュ(1951)

1:56 1:10 1:21 4:27





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