【読後雑記】リベラリズムはなぜ失敗したのか(パトリック・デニーン) ― ②「最低限」という欺瞞と国家への依存

要旨:
前編では、デニーンの議論を踏まえつつ、リベラリズムの問題を「成功したから失敗した」というより、もともと内在していた自己矛盾が露出したものとして捉え直した。リベラリズムは国家からの自由を求めながら、同時に国家による自由な環境の保障を求める。この二重要求が、国家を最小化する原理と国家への依存との非対称性を生んでいる。
後編では、この見方に対して想定される反論を検討する。特に、「国家が保障するのは最低限の条件にすぎない」という主張を取り上げ、その「最低限」という言葉自体が価値判断を覆い隠しているのではないかを論じる。結論として、リベラリズムが失敗したのは、単に成功したからではなく、成功によって内在する自己矛盾が制度的に顕在化したからだと考える。
5.「最低限」という欺瞞
リベラリズムを擁護する立場からは、国家が保障すべきなのは各人の望む人生そのものではなく、自由に生きるための最低限の条件にすぎない、という反論がある。国家は特定の善を押し付けるのではなく、各人がそれぞれの善を追求できる基礎的環境を整えるだけだ、という考え方である。
しかし、ここには問題がある。自由に生きるための「最低限の条件」は、社会の価値判断から切り離して決められないからである。
たとえば表現の自由を考えてみよう。ある人の表現を、別の人は侮辱や差別だと受け取るかもしれない。このとき国家や制度は何を基準に調整するのか。表現を広く認めれば傷つく人が出るかもしれないし、保護を優先すれば表現の自由は制限されるかもしれない。
ここで重要なのは、「衝突を最小化する」という判断自体が、すでに価値選択を含んでいるという点である。どの衝突を許容し、どの衝突を許容しないのか。その線引きは決して中立ではない。
これは表現の自由に限らない。平等、福祉、教育、安全、差別是正、宗教、文化。どの領域でも自由同士は衝突する。そして、それを調整するには、国家や制度が何らかの基準を設定しなければならない。
つまり、国家は単に「最低限」を保障するだけでは済まない。最低限を定義する時点で、すでに価値判断を行っているのである。
にもかかわらず、リベラリズムはその価値判断を「最低限」という言葉で中立化しようとする。私は特定の価値観を押し付けているのではない。ただ、自由に生きる条件を求めているだけだ、と。しかし、自由な個人が複数存在し、それぞれ異なる価値観を持つ以上、「自由に生きる条件」は一つには定まらない。
誰もが自由であるなら、誰もが異なる自由を求める。誰もが尊重されるべきなら、誰の尊重を優先するかが問題になる。その調整を国家や制度に求めるなら、それは決して単純な「最低限」ではない。
そしてここで、リベラリズムの矛盾が露出する。国家には高度な調整を求める。しかし、国家がその調整を行うための強制力は警戒する。国家に結果は求める。しかし、国家による介入は拒否する。この構造は不安定である。

6.「リベラリズムの主張通りであれば」という内部検証
この矛盾をはっきりさせるには、リベラリズムの原理を極端に純化してみればよい。
もし国家の干渉を最小限にすべきだと考えるなら、国家は「法に抵触しない範囲では、個人間で自由に解決してください」と言うだけでよいはずである。国家は暴力や明白な権利侵害だけを扱い、それ以外は各人が引き受ける。これはリベラリズムの一つの筋を徹底した帰結である。
もちろん、これは現実には厳しい社会になる。力の強い者が有利になり、社会的分断が深まるかもしれない。だからこそ、現代のリベラリズムは国家による保障や調整を求める。
しかし、そこに矛盾がある。国家の干渉を最小限にするなら、調整は個人が引き受けるべきである。国家に調整を求めるなら、国家の介入は増える。この二つを同時に求めることはできない。もちろん、リベラルな立場は完全な非干渉を求めているわけではない、と反論するだろう。国家には、自由が成立する条件を整える役割がある、と。
だが、その「一定の役割」はどこまでなのか。社会が複雑化し、自由の要求が多様化するほど、その役割は拡張していく。生命や身体の安全だけでなく、生活保障、教育、差別是正、心理的安全、アイデンティティの承認へと広がっていく。
問題は、それを求めながら、国家の介入や価値判断を否定することである。
国家に多くを求めるなら、国家は強くならざるを得ない。国家を弱くしたいなら、多くを求めてはならない。この単純な関係を、リベラリズムは曖昧にしている。

7.デニーンの立場から見れば
ここでデニーンに戻るなら、彼はおそらく、まさにそれこそがリベラリズムの帰結だと言うだろう。
個人を第一に置く。共同体や伝統を弱める。各人が自分の自由を主張する。その自由同士が衝突する。衝突を調整するために国家が介入する。国家は肥大化する。個人は国家に依存する。実際、デニーン自身も次のように述べている。
「その自由の理想は強い国家の力を利用しなければ実現しないのである。自由の拡大が法によって保障されるなら、現実にはその逆も真となる。自由の増大は法の拡大を必要とするのだ。」
つまり、リベラリズムは国家からの自由を求めながら、結果として国家への依存を強める。この意味で、デニーンの診断はやはり鋭い。ただし、本稿の立場からすれば、それは「成功したから失敗した」というより、最初から自己矛盾を抱えていたと見るべきではないか。
リベラリズムは国家から自由であることを求める。しかし、自由を社会的に成立させるためには、国家による調整が必要になる。国家による調整を求めれば、国家の役割は拡大する。だが、その拡大はリベラリズムの非干渉原理と衝突する。
この構造は、リベラリズムが失敗した後に生まれたのではない。最初から内包されていたのである。リベラリズムが社会に浸透したことで、その矛盾が制度的に露出したにすぎない。
8.「ぼくの考えるリベラリズム」の時代
現代社会では、誰もが自分の自由を語る。自分の生き方を尊重してほしい。自分の表現を制限しないでほしい。自分の尊厳を傷つけないでほしい。それぞれの要求は単独では理解できる。
しかし、それらが社会全体で同時に主張されるとき、問題は複雑になる。なぜなら、すべての自由は調和するわけではないからである。ある人の自由は、別の人の自由を圧迫する。ある人の安心は、別の人にとっては沈黙の強制になる。
ここで必要になるのは調整である。だが、リベラリズムは、その調整を誰がどの基準で行うのかを明確にしない。むしろ、各人が自由であることを前提にするため、共通の目的関数を設定しにくい。
その結果、「リベラリズム的なもの」だけが社会に広がる。自由は大事だ。多様性は大事だ。国家の介入は危険だ。しかし、国家は自分の自由な生活を保障すべきだ。このような感覚が、各人の中で都合よく組み合わされる。
つまり、現代に広がっているのは、一貫したリベラリズムではない。むしろ、「ぼくの考えるリベラリズム」の乱立である。
そして、その乱立を調整するために国家や制度が呼び出される。だが、国家が調整しようとすると、今度は国家による干渉が問題視される。この循環こそ、現代リベラリズムの困難である。
9.リベラリズムはなぜ失敗したのか
では、リベラリズムはなぜ失敗したのか。
デニーンは、それが成功したからだと言う。しかし本稿の立場から言えば、リベラリズムは成功したから突然失敗したのではない。むしろ、最初から実現困難な自己矛盾を抱えていた。
その矛盾とは、国家を最小化する原理と、国家に依存する実態を同時に持つことである。個人の自由を守るために国家を縛る。しかし、自由同士が衝突するため、国家による調整が必要になる。国家による調整が増えると、国家は強くなる。国家が強くなると、再び国家を縛ろうとする。だが、国家を縛れば調整能力は弱まる。
リベラリズムは、国家を疑いながら国家に期待する。国家を制限しながら国家に保障を求める。国家の権力を警戒しながら、国家に高度な調整を委ねる。ここに根本的な非対称性がある。
責任は国家へ、権限は制限へ。保障は求めるが、介入は拒否する。この構造が続く限り、リベラリズムは安定しない。

おわりに:成功によって露出した自己矛盾
デニーンの『リベラリズムはなぜ失敗したのか』は、現代社会を考えるうえで重要な問題提起をしている。リベラリズムは、人間を自由にしたのか。それとも、共同体から切り離された個人を、市場と国家に依存させただけなのか。
ただし、本稿では、その問いを少し言い換えたい。リベラリズムが失敗したのは、それが成功したからだけではない。リベラリズムは、成功する以前から自己矛盾を抱えていた。その自己矛盾が、制度として展開されることで、現代の不調和として現れている。
自由を求める。しかし、自由同士は衝突する。衝突を調整するには国家が必要になる。しかし、国家の介入は自由を脅かす。だから国家を縛る。だが、国家を縛れば調整と保障は難しくなる。
デニーンが言うように、リベラリズムは「成功したために失敗した」。ただし、より正確にはこう言うべきではないか。リベラリズムは、成功したから失敗したのではない。成功したことで、もともと内包していた自己矛盾が露出したのである。
国家を拒否し、国家に依存する。ここに、現代リベラリズムのもっとも深い矛盾がある。
