【読後雑記】メルロ=ポンティ 可逆性(鷲田清一):①現象学を記述する
要旨:
本稿は、鷲田清一『メルロ=ポンティ 可逆性』を読み解きながら、メルロ=ポンティの「可逆性(見るものと見られるものが入れ替わる関係)」を論理的に整理するものである。鷲田の詩的表現を尊重しつつ、難解な概念を再構成する。最終的に、「論理」と「体験」の統合を提案する。
はじめに
私たちは普段、「見る主体」と「見られる客体」を区別して生きている。しかしメルロ=ポンティは、「見ること」と「見られること」が可逆的(reversible)であると指摘する。たとえば、自分の手をもう一方の手で触るとき、触る側と触られる側が瞬時に入れ替わる―この体験が可逆性の典型である。
鷲田清一は、この可逆性を「肉(la chair)」という言葉で表現する。「肉」とは、世界と私をつなぐ感覚的な土台である。視覚や触覚を通じて、私と世界は分離不能な関係にある。
鷲田の文章は詩的で美しい一方、論理の流れが曖昧になる危険もある。そこで本稿では、以下の3点を整理する:
可逆性が主体と客体の境界を溶かす仕組み
可逆性の運動性(常に変化し続けること)
「肉」という概念が論理と体験の橋渡しをする理由
1. 鷲田清一の主張:可逆性とは何か
鷲田は、メルロ=ポンティの「可逆性」を通じて、現象学的な経験の非二項的性質を表現しようとする。主な論旨は以下の通りである。
主体/客体の二項対立を超える: メルロ=ポンティは、知覚主体と知覚対象の古典的二項対立を離れ、経験の生成そのものに注目する。鷲田は、例えば「身体が世界に触れ、触れられることにおいて、主体と客体は互いに溶け合う」と述べ、固定的な立場を離れた視点を提供する。これは、現象学の核心である「世界との直接的関わり」を体感させる工夫と言える。
可逆性とは、運動の中で役割が互換可能であること: メルロ=ポンティの例として、「触る手と触られる手の互換性」が挙げられる。右手が左手を触るとき、右手は主体、左手は対象だが、条件が変われば役割が逆転する。鷲田はこの可逆性を、身体的・知覚的運動の動的な特性として描く。
包含・折り返しのイメージ: 鷲田は、可逆性を単なる役割の入れ替え以上のものとして、運動の中で互いを含む(包含)構造として表現。たとえば、「表と裏は、運動の中で折り返し合い、互いに始原をなす」と述べ、現象学の体験的アプローチを反映する。
鷲田の手法は、論理的説明よりも読者に可逆性を「感じさせる」ことを優先し、現象学の伝統に忠実である。しかし、この詩的で反復的な文体は、論理的明快さを求める読者に「言葉の迷路」の印象を与えることがある。
2. 可逆性を運動として整理する
メルロ=ポンティの「手袋の表裏」の例は、表と裏が互いに反転可能な一つの全体を形成することを示す。可逆性の論理を整理すると、以下のポイントがその本質を捉える。
1. 表や裏は偶然的・現象的に現れるに過ぎない
二項対立(表/裏)は固定された本質ではなく、運動の中で一時的に現れる。
表/裏は現象の表面にすぎず、本質は運動そのものにある。
2.可逆的運動によって、表=裏=始原のどれにでもなり得る
状態は変化し、生成過程が重要。運動は一方通行ではなく、連続的・反復的である。
たとえば、触る/触られるの関係は、運動の中で役割が入れ替わる動的プロセスを表す。
3.表面の現象ではなく、運動そのものを捉えるべき
可逆性は、表/裏の入れ替え可能性ではなく、運動としての生成・変換の全体を指す。
観察の対象は、二項対立ではなく、その背後にある動的構造である。
この整理は、論理的明快さを求める読者にとって、可逆性を理解する助けとなるだろう。ただし、鷲田の詩的表現は、こうした論理的整理を超えて、読者に可逆性の「感覚」を直接伝えることを目指しており、現象学の体験的本質を重視するアプローチとして評価できる。
3. 鷲田の手法の価値と限界
鷲田の文章には、現象学的体験を再現する独自の価値がある一方、限界も存在する。
3.1. 価値:体験の再現と現象学の伝統
体験の再現:鷲田の「解きほぐす」「折り返す」といった表現は、読者に可逆性の動的感覚を追体験させる工夫である。たとえば、「身体は世界に織り込まれ、織り込む」は、メルロ=ポンティの知覚的身体の思想を体現する。
直感的理解の促進:論理的説明では捉えにくい可逆性の「感覚」を、詩的表現を通じて伝える。これは、現象学が目指す「世界との生きた関わり」を体現する試みとして価値がある。
3.2. 限界:言葉遊びに終わるリスク
論理的明快さの欠如:繰り返される「表/裏/始原のズレ」「包含」などの表現は、論理的結論に至らず、読者を「言葉の迷路」に導くことがある。
読者の苛立ち:体験の再現に重きを置くあまり、概念の整理を求める読者には不十分に感じられる。
バランスの課題:鷲田の手法は現象学的体験を優先するが、論理的分析とのバランスが不足し、「現象学=言葉遊び」という誤解を招くリスクがある。
この両面を踏まえると、鷲田の手法は現象学の体験的アプローチを忠実に反映する一方、論理的理解を求める読者への配慮が不足している。
4. 結論
本書から得られる教訓は以下の通りである。
可逆性の理解には論理と体験の両方が重要:
論理的に整理すれば、可逆性は運動の中で表/裏/始原が変換可能な動的構造として理解できる。同時に、鷲田の詩的表現は、可逆性の「感覚」を伝える現象学的アプローチとして価値を持つ。鷲田の手法は現象学の強みと危うさを映す:
体験再現を重視する手法は、現象学の核心を体現するが、言葉遊びに終わるリスクを伴う。読者は、鷲田の意図を理解しつつ、論理的整理を補完的に用いることで、より深い理解を得られる。現象学の挑戦を考える契機:
本書は、現象学的概念を文章で伝える難しさと可能性を示す。鷲田の試みは、その挑戦の一例として、批判と擁護の両面から評価されるべきである。
最後に
鷲田清一『メルロ=ポンティ 可逆性』は、現象学的体験を文章で追体験させる試みとして意義深いが、論理的明快さを求める読者には挑戦的な一冊である。鷲田の詩的表現は、可逆性の動的感覚を伝える現象学の強みを体現するが、論理的整理を補うことで、より幅広い読者に訴求できる。可逆性を理解するには、運動そのものを捉え、表面や二項対立に依存しない視点が有効であり、鷲田の手法と論理的アプローチを組み合わせることで、現象学の深みをより豊かに味わえるだろう。
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