【現代異考】なぜ足りなくなるのか ― ①バランスシート不況というメカニズム

要旨:
かつて日本経済の長期停滞を説明する概念として、「バランスシート不況」という言葉が注目された。リチャード・クーは、バブル崩壊後の企業が利潤最大化ではなく債務最小化を優先し、金融緩和をしても投資が回復しない状況をこの概念で説明した。
本稿では、この議論を、マクロ/ミクロ、ストック/フロー、総量/分布の区別から読み替える。結論を先に言えば、民間主体がストックを見て防衛的に行動するからこそ、国家はフローを見なければならない。国家の役割は、民間のバランスシートを肩代わりすることではなく、経済の循環を止めず、目詰まりを観測し、学習可能な状態を保つことにある。
はじめに:「バランスシート不況」という言葉が見ていたもの
通常の不況であれば、金利を下げれば企業は借入を増やし、投資を行い、経済は回復へ向かう。ところが、バブル崩壊後の日本では、金利を下げても企業は借りようとしなかった。むしろ、借金を返済し、現金を積み上げ、投資を抑制した。クーは、この現象を「バランスシート不況」と呼んだ。
この見方の重要性は、「金利を下げれば借りる」という主体像が、危機後には成立しないことを示した点にある。資産価格が下落し、負債だけが残った状態では、企業の最優先課題は成長ではなく生存になる。
ただし、「企業のバランスシートが傷んだから投資しない」と言うだけなら、「投資がないから成長しない」という話に近い。あるいは、「将来不安があるから投資しない」という一般論を会計用語で言い換えているだけにも見える。
そこで本稿では、バランスシートとは何を示すのか、民間部門を一つの主体として見ることにはどのような限界があるのかを考える。
1.クーの主張――利潤最大化から債務最小化へ
通常の企業は、利潤最大化を目指す主体として理解される。投資によって利益が得られると見込まれるなら、企業は借入を行い、設備投資をし、生産を拡大する。したがって、金利を下げれば投資は促される。
しかし、バブル崩壊後にはこの前提が崩れる。資産価格が急落すると、資産価値は下がるが、負債はそのまま残る。すると企業は、新規投資よりも借金返済を優先する。
ここで企業の行動原理は変わる。通常時の企業は利潤最大化主体である。しかし危機後の企業は、債務最小化主体になる。バランスシート不況とは、企業が「借りて投資する主体」から「返済して守る主体」へ変化した状態である。
その結果、金融政策は効きにくくなる。中央銀行がいくら資金を供給しても、借り手がいなければ投資は増えない。そこでクーは、民間が借りないなら政府が借りるしかない、と考える。民間部門が支出を減らすなら、その穴を政府支出で埋めなければ、経済全体が縮小していく。

2.バランスシートを見るとは何を見ることなのか
損益計算書は、一定期間の売上、費用、利益を示す。これはフローである。これに対して貸借対照表は、ある時点における資産、負債、純資産の状態を示す。これはストックである。
通常の景気循環論では、今期の売上、利益、投資、所得、GDPといったフローに目が向きやすい。しかし企業はフローだけで生きているわけではない。いま黒字であっても、過去に積み上がった負債が重ければ、自由に投資できない。
企業はフローで稼ぐが、ストックで死ぬ。
この点を強調したことに、クーの議論の意味がある。バランスシート不況とは、単に「企業心理が悪化した」という話ではない。過去に積み上がった負債や資産価格の下落が、現在の行動を拘束するという話である。
つまり、バランスシートとは、過去の履歴が現在の行動へと変換される場所である。ここまでは、クーの議論は有効である。問題はここからである。
3.「民間部門のバランスシート」は本当に一つなのか
クーの議論では、しばしば「民間部門」が一つの主体のように扱われる。民間部門がバランスシートを傷めた。民間部門が借りなくなった。だから政府が赤字を引き受ける必要がある。
マクロ経済を考えるうえで、この集計は有効である。しかし、民間部門の内部にある偏在性は見えにくくなる。現実の企業のバランスシートは一様ではない。資金が潤沢な企業もあれば、資金繰りに苦しむ企業もある。資金はあるが投資機会を見出せない企業もあれば、成長余地はあるが資金調達が難しい企業もある。
つまり、問題は単なる総量ではない。民間全体として見れば資金はあるかもしれない。しかし、その資金を持っている主体と、投資機会を持っている主体が一致しているとは限らない。
資金を持つ企業には投資機会がない。投資機会を持つ企業には資金がない。銀行には資金があるがリスクを取れない。家計には預金があるが消費に回らない。
この状態では、「民間部門のバランスシートが傷んでいる」と言うだけでは不十分である。問題は、民間部門全体の健全性ではなく、資金と投資機会の接続不全にある。したがって、バランスシート不況とは、民間内部で資金、負債、リスク、投資機会が偏在し、それらがうまく接続されなくなった状態として読み替えるべきである。
4.問題は「総量不足」なのか、「目詰まり」なのか
日本型の長期停滞を考えると、企業は内部留保を積み上げ、家計は預金を抱え、銀行には資金があり、金利も低い。それなのに、さらにマネーを供給して意味があるのか、という疑問が出てくる。
これは、いわゆる「糸で押す」問題である。中央銀行が資金を供給し、金利を下げても、借り手が借りようとしなければ投資は増えない。
ただし、問題は本当に総量不足なのか。それとも、流れの目詰まりなのか。
総量不足とは、経済全体に資金や需要が足りない状態である。この場合、政府支出や金融緩和によって総量を増やすことには意味がある。しかし目詰まりとは、総量としては存在しているものが、必要な場所へ流れていない状態である。この場合、単に総量を増やすだけでは不十分である。
同じ一兆円の支出でも、既存企業の延命に使われるのか、新産業への投資につながるのか、家計所得を支えるのか、研究開発を促すのかによって、意味は異なる。重要なのは、どれだけ流れているかだけではなく、どこへ流れているかである。

5.それでも総量政策が必要な理由
ただし、「目詰まりが問題だから総量政策は無意味だ」と結論してはならない。
総量政策には、循環を起こすことで、どこに目詰まりがあるのかを観測可能にするという意味がある。経済が停滞している状態では、どこに投資機会があるのか、どの産業が反応するのか、どの制度がボトルネックなのかが見えにくい。
水を流してみなければ、どの管が詰まっているのかは分からない。
この意味で、政府が総量を増やすことは、単なる需要穴埋めではない。経済の回路に圧をかけ、どこが動き、どこが動かないのかを観測するための条件を作ることでもある。
もちろん、支出の仕方を誤れば、既存の滞留構造を強化してしまう可能性もある。それでも、循環そのものが止まれば、学習もできない。経済政策は「正しい政策を選ぶ」問題というより、実行し、反応を見て、修正し、再び試す過程である。
総量政策の意味は、この動きを維持することにある。クーの議論も、このように読み替えると、民間がストック防衛に入ったとき、フローの崩壊を防ぎ、次の学習可能性を残すための政策として位置づけられる。
6.政策効果はなぜ見えにくいのか
仮に政府が総量を増やし、経済に流れを作ったとしても、その政策が本当に何をもたらしたのかを識別することは難しい。
景気が回復したとして、それは財政支出の効果なのか。金融緩和の効果なのか。海外需要の増加なのか。為替の影響なのか。技術革新なのか。労働分配率の変化なのか。あるいは、単なる景気循環なのか。
現実の経済では、これらの要因が同時に動く。しかも、政策を実行している間に、技術、国際情勢、資源価格、人口構造も変わっていく。つまり、経済政策とは、固定された対象への介入ではなく、変化し続ける対象への介入である。
この識別不能性のために、経済論争は終わりにくい。同じ現象でも、立場によって読み方が変わる。成功も誤認されるし、失敗も誤認される。
だからこそ、政策は一回限りの正解実装ではなく、継続的な探索と学習として捉える必要がある。国家は、正解を知っている主体ではない。試行錯誤を継続するための条件を整える主体である。
7.民間はストックを見る。だから国家はフローを見る
バランスシート不況とは、民間主体がストックを見て、防衛的に行動するようになった状態である。企業は資産、負債、手元資金、返済能力を見る。家計は所得不安の中で預金を積み上げる。金融機関はリスクを避ける。
これは個別主体としては合理的である。企業は倒産すれば終わる。家計は生活が破綻すれば終わる。金融機関は不良債権を抱えれば危機に陥る。だから、それぞれが自らのバランスシートを見て防衛的に行動することは当然である。
問題は、それが全体として循環停止を生むことである。すべての企業が投資を控え、すべての家計が消費を控え、すべての金融機関がリスクを避ければ、誰かの支出が減り、誰かの所得が減り、経済全体が縮小する。
ここで国家の役割が生じる。ただし、その役割は、単に民間のバランスシートを肩代わりすることではない。国家が見るべきなのは、民間部門全体の平均的なバランスシートではなく、経済のフローがどこで止まっているのかである。ここに逆説がある。
民間には、バランスシートを見る合理性がある。
だからこそ国家は、バランスシートだけを見てはならない。
国家が見るべきフローとは、単なるGDPではない。所得が流れているか。投資が起きているか。資金が成長領域へ届いているか。人材が移動しているか。企業が挑戦し、失敗し、再配置されているか。資本が滞留せず、必要な場所へ届いているか。
もちろん国家にも、財政赤字、政府債務、通貨信認、インフレ、国際収支、政治的支持といったストック制約はある。しかし国家は、課税権を持ち、通貨制度を持ち、世代を超えて継続する制度である。だからこそ、民間よりも長い時間軸でフローを維持する役割を担う。
国家は、ミクロのすべてを完全には把握できない。だからこそ、流れを止めてはならない。流れがなければ観測できない。観測できなければ学習できない。学習できなければ修正できない。国家とは「正解を実装する主体」ではなく、「学習を継続させる主体」である。

おわりに:バランスシート不況から「循環の経済学」へ
バランスシート不況という概念は、バブル崩壊後の日本経済を説明するうえで大きな意味を持った。企業が利潤最大化ではなく債務最小化へ向かう。金融緩和をしても借り手がいない。民間が黒字化しようとするなら、政府が赤字を引き受けなければ経済全体が縮小する。
しかし、それだけでは十分ではない。
「民間のバランスシート」と言ったとき、そこには無数の企業、家計、金融機関が含まれている。マクロで見れば健全に見えるものも、ミクロで見れば偏在している。総量としては足りているように見えても、必要な場所へ届いていないことがある。
したがって、問題は単なる総量不足ではなく、循環の目詰まりとして捉える必要がある。政府が総量を増やすことにも意味はあるが、それは単に金額を積み増すことではない。経済の流れを維持し、どこが動き、どこが止まり、どこに資金が届かないのかを観測するための条件を作ることである。
民間はストックを見る。
国家はフローを見る。
この役割分担こそ、バランスシート不況を読み替えた先に見えてくる結論である。
そしてこの視点は、金融だけに限られない。あるものが総量としては存在しているのに、必要な場所へ届かない。全体としては足りているように見えるのに、局所では不足が起きる。こうした構造は、物流や資源供給の問題にも現れる。
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