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【哲学再考】ウィトゲンシュタイン再読:④確実性の問題へ

要旨:
最晩年の『確実性の問題』を扱い、疑いそのものを成立させている非疑問的な地盤としての「確実性」を考察する 。確実性は命題の性質ではなく、行為の中で前提されている「川床」としての態度であり、本連載が扱ってきた「沈黙」と同一の機能を担っている 。独我論・沈黙・確実性が同一構造の別表現であることを示し、世界を二つの位相が切り替わる運動そのものとして捉える視座を提示する。


はじめに:なぜ「確実性」へ至るのか

本連載はこれまで三稿にわたり、ウィトゲンシュタインの思想を独我論・沈黙・私的言語という観点から再構成してきた。第一稿では、『論理哲学論考』を独我論の極限として読み直し、沈黙が理論的敗北ではなく、語ることに対する倫理的態度として理解されうることを確認した。第二稿では、中期から後期への移行を理論の進化としてではなく、観察者から実践者への位置取りの変化として捉え直し、第三稿では『哲学探究』における私的言語問題を、可能性の否定ではなく、観察と実践という二つの位相の分岐として再定義した。

こうして積み上げてきた議論は、ある一点に収束する。
それは、語ることも、疑うことも、意味づけることも成立する以前に、私たちはどのような地点に立っているのか、という問いである。本稿の主張は明確である。前三稿の議論は偶然に似た構図へ到達したのではなく、論理的必然として『確実性の問題』における問題設定と同型の地点へと導かれている。この一致は単なる類似ではない。同一の構造が別の仕方で言い表されているにすぎないのである。


1. 懐疑論の外側へ――問題の置き直し

『確実性の問題』においてウィトゲンシュタインが取り組んでいるのは、何が真であり、何が証明されうるのかという従来の認識論的問いではない。彼はむしろ、疑うことそのものがどのような条件のもとで成立しているのかを問うている。懐疑論を論破することが目的なのではなく、懐疑が可能であるための前提を明らかにすることが主題なのである。

ここで重要なのは、彼が「疑うためには疑わないことがなければならない」と述べるとき、その言葉が単なる心理的事実の指摘ではないという点である。すべてを疑おうとすれば、疑いという行為そのものが空転する。つまり、疑いは無制限には広がりえず、常に何らかの非疑問的な地盤に依拠している。この地盤は、疑いによって到達されるものではない。それはむしろ、疑いが成立する以前から、すでに引き受けられているものである。


2. 川床としての確実性――語られない前提

ウィトゲンシュタインはこの関係を、命題の流れとそれを支える川床との比喩によって表現する。命題は流動し、疑われ、検証されるが、その運動は常に安定した基盤の上でしか成立しない。この基盤は通常意識されず、言語化されることもないが、それがなければいかなる意味づけも成立しえない。

ここで決定的なのは、この川床が知識の一種として把握されるべきものではないという点である。それは「確実に知られている」ものではなく、「すでにそうしている」もの、すなわち行為の中で前提されている態度である。言い換えれば、確実性とは命題の性質ではなく、命題が成立するための前提条件である。

この構造は、前三稿で「沈黙」として捉えてきたものと一致する。沈黙とは語ることができない領域ではなく、語ることが成立するための限界条件であり、同時に前提でもあった。語られないから無意味なのではなく、語られることの意味を支えているがゆえに語られないのである。この意味で、沈黙と川床は同一の機能を担っていると言うことができる。


3. 私的言語の位置――問いの無効化

この地点から私的言語問題を見直すと、その意味は大きく変わる。一般に私的言語は不可能であるとされるのは、それが規則に従っているかどうかを確認する公共的基準を持たないからだと説明される。しかしこの説明は、すでに実践の位相に立っていることを前提としている。

実際には、問題は私的言語が可能か不可能かではない。問題は、その問いがどの地点で成立しているのかである。言語が使用され、規則が適用され、正誤が問題となる場に入った瞬間、言語は不可避的に共有的な構造に組み込まれる。そのとき私的言語は成立しない。しかしそのような場に入る以前、すなわち観察の位相にとどまる限りにおいては、私的言語は成立するとも不可能であるとも言えない地点にある。

『確実性の問題』が明らかにするのは、まさにこの「問いが成立しない地点」である。私たちは通常、「ここに手がある」ということを知っていると主張しない。それは疑う余地がないからではなく、疑うという言語ゲームがそもそも開かれていないからである。この地点では、知識や疑いといった区別自体がまだ成立していない。確実性とは、この区別が立ち上がる以前の層に属している。


4. 独我論の転位――命題から態度へ


この構造は独我論にもそのまま当てはまる。独我論は一般に、世界が私の意識に還元されるという主張として理解されるが、本連載で明らかにしてきたのは、それがむしろ世界への関わり方に関する態度であるという点であった。世界が私の経験として立ち現れるという事実は否定されえないが、それを普遍的命題として主張しようとする瞬間に、独我論は意味を失う。

実践の場に入るとき、言語は他者との共有の中で機能し、世界は必然的に共有的なものとして現れる。このとき独我論は成立しない。しかし観察の位相において、世界を私の経験として受け取る限りでは、独我論は依然として有効な態度として存続する。この意味で独我論は、真偽を問われる理論ではなく、世界をどのように引き受けるかという態度の問題へと転位する。

確実性もまた同様である。それは正しい知識の集合ではなく、疑いを成立させるためにあらかじめ引き受けられている態度である。ここにおいて、独我論・沈黙・確実性は同一の構造の異なる表現であることが明らかになる。


5. 結論:往還を支える地盤としての確実性

以上の議論を踏まえると、ウィトゲンシュタインの思想は、前期から後期、そして最晩年へと進むにつれて、何かを否定し乗り越えていく運動としてではなく、同一の構造を異なる位置から捉え直していく運動として理解されるべきである。前期においては観察者として沈黙が引き受けられ、後期においては実践者として言語ゲームの内部が記述され、最晩年においてはその両者を支える地盤そのものが問題化される。

ここで重要なのは、私たちがこれらのいずれか一つの立場に固定されているのではないという点である。私たちは、沈黙のうちに世界を受け取る観察の位相と、言語の中で世界に関与する実践の位相とのあいだを絶えず往還している。そしてこの往還を可能にしているのが、語られず、疑われず、しかし常に前提されている確実性の層である。

したがって、『確実性の問題』は、前三稿の議論に外部から付け加えられる補遺ではない。それはむしろ、独我論・沈黙・私的言語という問題を突き詰めたときに必然的に現れる帰結である。世界は独我的でも共有的でもなく、その二つの位相が切り替わる運動として現れている。そして確実性とは、その運動そのものを支える見えない地盤にほかならないのである。

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