今のあなたであり続けなくてもいい――夏休みの終わりに、娘へ贈る「時分の花」の話
夏休みも、そろそろ終わりに近づいてきました。
始まる前はあんなに長く感じた夏休みも、後半になると急に短く感じます。
考えてみれば、今の学年、今の年齢で過ごす夏休みは、一度しかありません。
来年の夏には、好きなものも、友達との関係も、考えていることも、少し変わっているかもしれません。
そんな夏休みの終わりに、あなたに残しておきたいことがあります。
きっかけは、一本のアニメでした。
若き日の世阿弥を描く『ワールド イズ ダンシング』
今期、『ワールド イズ ダンシング』というアニメが放送されています。
主人公は、今から600年以上前に生きた少年・鬼夜叉。
後に「世阿弥」と呼ばれ、父・観阿弥とともに能を大成していく人物です。
ただし、この作品は世阿弥の生涯を史実どおりに再現した伝記ではありません。公式には、世阿弥がまだ鬼夜叉と呼ばれていた頃に「あったかもしれない」物語として描かれています。
そして、世阿弥の父親が観阿弥です。
実はこの観阿弥、父ちゃんにとっては少し身近な歴史上の人物でもあります。
父ちゃんの故郷、三重県名張市にゆかりの深い人物だからです。
名張市によると、観阿弥は現在の名張市小波田で初めて猿楽座を建てたと伝えられています。だから観阿弥は、父ちゃんにとって遠い歴史の中の人物というだけではなく、「故郷の有名人」の一人でもあります。
その観阿弥から芸とその教えを受け継いだ息子・世阿弥は、さらに自らの経験と思索を重ねていきました。
そうして著した能楽論書の一つが『風姿花伝』です。
以前、父ちゃんはStand.fmでも『風姿花伝』を取り上げました。そのときは有名な「初心」をテーマに、新しい生活を迎える人に向けて話しました。
今回、若き日の世阿弥を主人公にしたアニメをきっかけに、もう一度この本について考えてみたくなりました。
600年以上も前に書かれた芸能論なのに、そこには今を生きる私たちにも引っかかる考え方がいくつもあります。
その一つが、「花」です。
今しか咲かない「時分の花」
世阿弥は、芸の魅力をしばしば「花」という言葉で表しました。
そして、若い役者には、その年齢ならではの姿や声、新鮮さによって人を惹きつける魅力があると考えました。
いわゆる「時分の花」です。
ただし、それは修練によって身につけた本当の実力、「まことの花」と同じではありません。
若さによって自然に現れている魅力を、自分の本当の実力だと思い込んではいけない。
世阿弥は、そう戒めています。
これを読んでいて、ふとあなたの夏休みのことを考えました。
今年の夏、夢中になったこと。
くだらないことで笑ったこと。
思い通りにならなくて腹を立てたこと。
友達と遊んだこと。
父ちゃんには何がそんなに面白いのか分からないことで、いつまでも笑っていたこと。
そういうものも全部、今のあなたにしかない「時分の花」なのかもしれません。
大人になると、つい子どもの「将来」を見てしまいます。
これは将来役に立つのか。
この経験から何を学んだのか。
もっとこうした方がいいのではないか。
でも、すべてを未来への準備にしてしまう必要もないのでしょう。
今しかないものは、今そのものに価値があります。
今年の夏のあなたには、来年になったらもう会えません。
そう考えると、少し寂しくなります。
でも、その花はずっと咲いているわけではありません
ここからが、父ちゃんにとって世阿弥の面白いところです。
「若い時には若い時だけの花がある。だから、それを大切にしなさい」
だけでは終わりません。
時分の花は、あくまで「その時」の花です。
やがて変わっていきます。
だからこそ、それを自分の完成形だと思ってはいけない。
父ちゃんは、この「時分の花」という考え方を、現代の自分たちに引き寄せて、こんなふうにも読んでいます。
今の自分を大切にする。
でも、今の自分にしがみつかない。
これは世阿弥がそのまま書いた言葉ではありません。
父ちゃんが『風姿花伝』を読んで、自分なりに受け取ったものです。
あなたもこれから、どんどん変わっていくでしょう。
今好きなものを、いつか好きではなくなるかもしれません。
いま仲のいい友達と、いつか違う道を歩くかもしれません。
得意だったことが通用しなくなることもあれば、今は全然できないことが、数年後には得意になっているかもしれません。
そのとき、
「昔の私はこうだったのに」
と、過去の自分に縛られなくてもいいのだと思います。
それは何かを失ったのではなく、自分の「時分」が変わったと考えることもできるからです。
「あなたらしく」に、縛られなくていい
子どもに対して、大人はよく「あなたらしく生きてほしい」と言います。
父ちゃんも、そう思います。
でも最近、この言葉には少し注意が必要なのではないかと思うようになりました。
「あなたらしく」が、
「今のあなたであり続けなさい」
になってしまったら、それは少し違う。
人は変わっていい。
好きなものが変わっていい。
考え方が変わっていい。
夢だって変わっていい。
昨日までの自分と違う自分になってもいいのです。
いろいろな人や物事に出会い、自分自身が変わっていく。
それも、生きることの一部なのだと思います。
だからあなたには、
今のあなたを大切にしてほしい。
でも、今のあなたであり続けなくてもいい。
と伝えたいです。
そしてもう一つ。
自分には何の花もないように思える時期が、これから来るかもしれません。
そんなときも、あまり急いで自分の価値を決めなくていい。
花が見えないからといって、何も変わっていないとは限らないからです。
次の自分へ向かって、何かが動いている途中なのかもしれません。
父ちゃんも、まだ途中にいます
こんなことを書いている父ちゃんだって、完成した人間ではありません。
昔できたけれど、今はできなくなったこともあります。
逆に、大人になってから初めて分かったこともあります。
これから自分にどんな花が咲くのかなんて、父ちゃんにも分かりません。
だからこれは、「こういう人になりなさい」という手紙ではありません。
600年以上前、観阿弥という父親から世阿弥という息子へ、芸と教えが受け継がれました。
世阿弥はそれをそのまま受け取るだけではなく、自分自身で考え、言葉として後世へ残しました。
その観阿弥が、たまたま父ちゃんの故郷にも足跡を残しています。
そして600年以上たった今、その息子・世阿弥の言葉を父ちゃんが読み直して、自分なりに考えて、今度は娘に少しだけ渡してみる。
そう考えると、なんだか不思議です。
もうすぐ、今年の夏休みも終わります。
今年の夏のあなたには、もう来年会うことはできません。
それは少し寂しいです。
でも父ちゃんは、来年の夏に、どんなものを好きになり、どんなことで笑い、どんなことで悩んでいるあなたになっているのかも、少し楽しみにしています。
今年の花を大切に。
でも、次に咲く花も楽しみに。
夏休みの終わりに、父ちゃんから。
参考・出典
今回の記事を書くにあたり、以下のサイト・動画・過去配信を参考にしました。
TVアニメ『ワールド イズ ダンシング』公式サイト
若き日の世阿弥(鬼夜叉)を主人公に、観阿弥や観世座をめぐる物語が描かれています。
「『天幕のジャードゥーガル』『ワールド イズ ダンシング』ほか、今期のお薦めアニメを語る」
塚越健司のホンのちょっとした話 第53回
『ワールド イズ ダンシング』を含む今期アニメについて紹介・考察している動画です。
過去のStand.fm配信
「花を咲かせる君へ ― 新生活に贈る風姿花伝」第1回
2025年4月に、『風姿花伝』の「初心」をテーマに、新しい生活を迎える人に向けて配信したものです。今回の記事は、このとき扱った世阿弥の思想を、改めて「時分の花」と「変わっていくこと」という視点から考え直しました。
世阿弥『風姿花伝』岩波文庫(岩波書店)
本記事で取り上げた世阿弥の芸論、「花」や年齢に応じた芸のあり方を考える際の基本文献です。
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