エッセイ|滑る身体、整列する因果
「廊下にワックスかけるなや」
突然そう言われて、私は少し驚いた。
私がワックスをかけたかどうかを、彼は私に確認していない。
そもそも、私はワックスなど持っていない。
とはいえ、彼のこうした言動は今日に始まったことではない。
腹が立つというより、むしろその「直線因果のショートカット」があまりに見事で、それがどのように生成されているのか、考えずにはいられなかった。
おそらく彼の中では、次のような順番で物語が組み立てられている。
出来事を再生すると、こうだ。
「俺は廊下で滑った」
↓
「ワックスがかかっていたから滑った」
↓
「お前がワックスをかけた」
↓
「ワックスをかけるな」
私の行為が一直線に彼の転倒へと結びつく構造が、そこにはある。
彼の言葉を日本語のまま追っているうちに、因果がきれいに整列していることに気づいた。
その並び方は、まるで中学生の英語構文を私に思い出させた。
I slipped.
↓
The hallway was waxed.
↓
You waxed the hallway.
↓
Don’t wax the hallway.
主語・動詞・目的語が一直線に並ぶと、因果もまた一本の線に固定される。
その直球さが、少し怖い。
もちろん、英語が本質的に単純因果を強制するわけではない。
ただ、この場合のSVO構文は「直線因果」を説明する比喩として、あまりにわかりやすいのだ。
ここで起きている流れを整理すると、こうなる。
転倒(偶発的出来事)
不安・恥・怒り
原因の外在化
他動詞で固定(You caused me to slip.)
滑るという身体的ショックは、自尊心を揺らす。
そう考えると、社会の言葉にも同じ構造を見かける。
• X destroyed our country.
Xが国をダメにしたと言われることがある。
• They stole your jobs.
「彼らが仕事を奪った」という言い方がある。
• Immigrants are changing our culture.
「移民が文化を変えている」と語られることがある。
これらは、原因の単純化、感情の集中、敵の明確化を同時に行う。
主語を明示することで因果を閉じ、直線化する。
直線因果は動員に向いている。
一方で、英語の教科書には他動詞と自動詞が並んで載っていたはずだ。
その違いを思い出すと、因果の扱い方にも別の道が見えてくる。
他動詞から自動詞へ、さらに状態変化や相互作用の文へと視点を移すと、因果の形が段階的に変わっていく。
Immigrants destroyed jobs.
( 「移民が仕事を奪った」という言い方がある。)
↓
Jobs decreased.(仕事が減少した)
↓
Economic conditions shifted.(経済状況が変化した)
↓
Policy and market forces interacted.(政策と市場の力が相互作用した)
因果は単線から多因子へと分散する。
ここではまだ「悪者」は固定されていない。
その空白に、関係性や文脈を考える余地が生まれる。
余白があると、暴発する前の「ワンクッション」が置ける。
解決のための知恵も入り込める
──おお、なんだかプルラリティ的になりました😮
つまり、「あなたが悪い」から「この場で何が起きたか」へ焦点が移る。
他者理解は、人格を分析することではなく、出来事の共有地図をつくることに近いのかもしれない。
話を戻す。
彼の転倒を「自動詞モデル」で書き直すと、こうなる。
I slipped.(まず自分の身体の変化)
The floor is slippery.(その場の状態)
I lost my balance.(原因は未確定)
そこから導かれうる言動は、次のように分岐する。
【状態確認型】
The floor feels slippery.
床が滑りやすいね。
Did something spill?
何かこぼれたのかな?
【身体中心型】
I slipped.
滑ってしまった。
I wasn’t careful.
注意が足りなかった。
【共同確認型】
That was surprising.
びっくりしたね。
Is the floor always this slippery?
いつもこんなに滑りやすかったかな?
こうしてみると、
社会的なマクロの因果モデルと、
家庭内のミクロの因果モデルは、
同じ構造で動いていることが浮かび上がる。
できることなら、どちらも「敵」の生成が始まる前で止まってほしい。
けれど、家庭内のミクロモデルで、私は彼にそこまでを望むつもりはない。
家父長としての役割を長く果たしてきた彼を、私は立派だと思っている。
ひょっとすると、彼はその役割を引き受けることで、語彙を増やす機会に恵まれなかったのかもしれない。
そう思うと、少し気の毒に感じることもある。
だからこれは、まず私の内側で起きている出来事として引き受ける問題だ。
彼を変えるのではなく、私の中の因果の受け止め方を整える必要がある。
そういった意味では、私もまた、物語を作る人間の一人だ。
それにしても、昭和的な家父長の発言ひとつを、中学生英語で整理しようとしている私の頭は、どうかしてしまったのかもしれない。
けれど、中学生英語レベルは構造が露出しているぶん、思考の癖を観察しやすいことに気づくことができた。
単純化された文法は、単純化された因果の模型としてちょうどいい。
話すための英語ではなく、
整理するための言語として、もう一度学び直してみようか。
そんな気持ちになっている。
