ヨーロッパの静けさの奥に――ドイツ再軍備をめぐる対話と、平和を探す目の記録
はじめに ―静けさの底で息をする問い―
いま、ヨーロッパには少し不穏な静けさがあります。
ニュースからは、軍備、同盟、抑止といった音の強い言葉が溢れています。
けれどその響きの奥に、人のぬくもりや生活の小さな呼吸が、どこか遠のいたようにも感じられます。
ドイツの作家、ファビアン・シャイドラー氏が語りかける対話「German Militarism Is Back」は、その静けさの底に沈む“未発せられた問い”を拾い上げるような響きを持っています。
彼の言葉には、怒りよりも沈黙に近い温度があります。
そして、その沈黙こそが、戦争という騒音と最も鮮やかに対峙しているのかもしれません。
ヨーロッパの空気 ―それでも春は静かに来る
シャイドラー氏は言います。
「ヨーロッパでは、戦争の言葉がまた日常に紛れ込み始めている」と。
街角でふと通り過ぎるポスターの隅、ニュース番組の背景、そして学校にまで届く“防衛”という言葉。
それは声高ではなく、むしろ静かに、だが確かに社会に染みています。
ドイツ政府は、防衛費を年間420億ユーロから1420億ユーロへと増やす方針を掲げました。
数字だけを見れば、経済の判断のように聞こえるかもしれません。
けれど、その背後には「恐れ」と「同調」の二つの影が伸びています。
彼の言葉に棘はなく、むしろ“ため息”に近い。
私たちは「敵」という枠組みに、あまりに素直に順応してしまったのかもしれません。
善と悪のあいだにある「灰色」
「今の欧州社会は、白か黒かで語りたがる」とシャイドラー氏は語ります。
善か悪か、加害か被害か。
けれど本来、人の現実はもっと曖昧で、やわらかな灰色のあいだに息づいているはずです。
戦争の語りが強くなるほど、曖昧さは押し流されていきます。
「ロシアを理解しようとする声」はすぐに“敵”とみなされ、“プーチン支持”というラベルを貼られる。
そして、対話のための時間が一つひとつ奪われていく。
その風景を思うと、戦場よりも先に、言葉の戦火が広がっているように感じます。
左派の変容と“やさしい戦争”の言葉
かつて平和を訴え続けてきた左派政党──社会民主党(SPD)や緑の党。
いま、その口から再軍備と武器支援の言葉が響くようになりました。
1970年代、彼らは「共通の安全」という理念を掲げ、敵と味方のあいだに“橋”をかけようとしていました。
「あなたの安全が私の安全であり、私の安全があなたの安全である。」
その考え方は、長い冷戦を少しずつ融かしていった希望の思想でした。
けれどいつのまにか、「共通の安全」は「共通の敵意」へと変わっていきます。
国が再び軍備を整えたとき、その名は「安心」や「連帯」と呼ばれます。
戦争を拒むための言葉が、戦争を正当化する言葉に衣替えしてしまったのです。
無言の再軍備と、失われていく平和の記憶
いま、ドイツでは制服を着た兵士が学校を訪れます。
子どもたちに「国を守る意義」を語りかける映像が流れる。
そこに出てくる言葉はやさしく、滑らかで、そしてきれいに整いすぎています。
戦後ドイツは、「二度と軍靴の音を響かせない」と誓いました。
その記憶は、資料館や追悼式では生きていても、日常の中では静かに遠のいているようにも感じます。
「戦争はもう現実ではない」と思い始めるとき、人は最も無防備になるのかもしれません。
“敵”を創り出す装置――恐怖を管理する社会
シャイドラー氏の指摘の中で、特に深く胸に残るのは「恐怖の管理」という言葉でした。
彼は、現代社会が“常時の危機”を利用して秩序を保っていると述べています。
テロとの戦い、感染症との戦い、そして今はまた新しい「敵」との戦い。
恐怖が更新されるたびに、社会は少しずつ統制を許容し、資本は利益を得ていきます。
この連鎖は、もはや政治や思想というよりも、一つの経済モデルに近い。
「危機を恐れるほど、その危機は資源になる。」
その言葉には悲しみというよりも、静かな観察がありました。
交渉という名の“失われた技術”
2022年、侵攻の直後にイスタンブールで行われた和平交渉。
その場でウクライナ中立化の提案が出され、両者は合意に近づいたといいます。
けれど、その時、外部の圧力によって交渉は中断されました。
「外交を拒む」という選択は、武力以上に深刻です。
なぜなら外交の放棄とは、人間の想像力の放棄にほかならないからです。
交渉という不完全な営みこそ、戦争を“未来の出来事”にしないための、唯一の橋だったのだと思います。
現実感を失う政治の言葉
五%という数字。
GDPの五パーセントを軍事に費やす――それは、実に国家予算の半分に匹敵します。
けれどそれを語る政治家の表情には、生活を支える重さよりも、どこか軽さが漂っています。
数字は現実のようでいて、実は現実をすり替える。
数字の背後には、年金、医療、教育、そしてパンを焼く人々の暮らしがあるはずです。
その重さが、言葉の上ではいつも省略されてしまう。
「チワワの比喩」が示す無意識
彼の語りの中で印象的だった例えがあります。
「ヨーロッパはガラスの向こうから熊に吠えるチワワのようだ」と。
この比喩は、冷笑ではなく悲しみを帯びています。
チワワは守られているからこそ吠える。
アメリカという“見えないガラス”がある限り、ヨーロッパは恐怖を安心の中で語ることができる。
けれど、もしそのガラスが取り払われたら?
その問いに、いま誰が静かに耳を傾けているでしょうか。
想像力の衰退という危機
「現代の政治は、結果の想像ができなくなっている。」
シャイドラー氏が語るこの言葉は、単なる皮肉ではありません。
戦争を知らない世代が、戦争を語るようになりました。
彼らにとってそれは、スクリーンの上の映像や戦略地図の中の線であり、
痛みの記憶ではない。
かつてビリー・ブラントらが平和政策を築いた時代、
指導者たちは実際に戦争を経験していました。
その記憶が、彼らの中で“想像”を現実に留めていたのです。
想像できない政治ほど、危ういものはありません。
静かな抵抗――若者たちの声
ドイツでは義務兵役の復活が議論されています。
けれど、若者たちはそっと首を横に振ろうとしています。
「銃を取らない」と声を上げることは、理想ではなく、日常を守るための選択です。
学生たちは、気候運動の流れを継ぎながら、反軍事ストライキを準備しています。
小さなデモや、署名活動。
それらはきっと、まだ形にはならないが確かに存在する“希望の息”です。
声を失わない知識人たち
哲学者リヒャルト・ダーヴィト・プレヒト。
彼は「ロシアにも安全保障上の不安がある」とテレビ討論で語りました。
すぐに“裏切り者”と批判されたにもかかわらず、
その声には、穏やかさと責任の響きがありました。
異論を唱えることは、敵意ではありません。
異論の場を守ることが、むしろ平和の最初の形なのだと、
彼やシャイドラー氏の存在が教えてくれるように思います。
ヨーロッパという鏡に映る「自己の喪失」
ガザでは爆撃が続き、ウクライナでは武器が送り込まれる。
どちらの悲劇にも、同じ涙が流れているはずなのに、
ヨーロッパの政治と言葉は、場所によって沈黙を選んでしまうようです。
「正義」が場所によって色を変えるとき、平和はその隙間から零れ落ちていきます。
沈黙もまた、語ることの一形態かもしれません。
けれど、沈黙が偏りを持つとき、それは支配の一部になる。
“Never Again”の再解釈
80年前の「二度と繰り返さない」という誓い。
その言葉はいま、「守るためには戦う」という形で再び使われています。
「Never Again」は何を指しているのでしょうか。
過去の惨禍そのものを、再び起こさないことなのか。
それとも、過去の痛みを自ら演じないことなのか。
シャイドラー氏の語りは、その境界を曖昧にしながらも、
「問い続けること」こそが平和であるという確かな温度を湛えています。


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1605日目
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