ハードボイルド書店員日記【238】
「まだ暑いのに悪いね」
メンターの口元で金歯がきらめく。少し前に借りた本を返しに来たのだ。
11坪の町の本屋。かつて指導してくれた人がひとりで支えている。いまでも店長としか呼べない。心のなかでは永遠にメンターだ。
「最近どうですか?」
「見ての通りだよ」
レジの後ろに座り、新聞を読んでいる。私の職場ではあり得ない。
「君の方は?」
「平日は似たようなモンですね」
「それでも週刊誌を欠かさず買いに来る常連さんがいるでしょ」
「コミックの新刊や時代小説の文庫を定期的に購入してくれるお客さんも」
「これからの書店はカフェだイベントだと騒がれてて、まあ新しい取り組みはたしかに必要だよ。でも我々の日常を本当に支えてくれてるのは誰なのか? そこを軽く見るのはちょっと違う気がするかな」
「ですね」
狭い車道をトラックが通り過ぎ、また静寂に包まれた。
「……君のnote、時々読んでるよ」
反射的に顔を見る。前回訪れた際にアカウントの存在を伝えたかもしれない。
「日曜に出してる掌編小説はフィクションだよね?」
「実際にあった出来事をアレンジして盛り込みつつ」
「でも読んだ人は、君を本当にああいう能力と気質を持ったスーパー書店員だと思うかもしれない」
実体は異なるって話じゃないけど。笑いながらフォローしてくれた。
「たまに近い声を頂戴します」
「重荷にならない?」
「最近までは少し」
「いまは?」
「ないです」
「何かきっかけでも」
「まさにその本が」
カウンターの上へ置かれた一冊を指差す。エンターブレインから2003年に出版された「ハリウッド・ハルク・ホーガン ハルク・ホーガン自伝」だ。著者は業界史上最も偉大なひとりと讃えられる人気プロレスラー。今年7月に71歳で亡くなっている。
「しばらく読んでないけど、そんなこと書かれてたっけ?」
「142ページを」
そこにはこんな文章が記されている。
俺はいい人間に変わり始めていて、子どもたちに見せたキャラクターはとても純粋でとても前向きだった。テリー・ボレア(引用者注:ホーガンの本名)はハルク・ホーガンから見て4段階くらい下にいるような人間だったが、”ホーガン”のおかげで向上することができた。ハルク・ホーガンが何を象徴しているか理解し始めた俺は、それに近づくように努力した。
ハルク・ホーガンが助けたのは子どもたちだけではない。ハルクは俺自身をも助けたのだ。
ハリウッド・ハルク・ホーガン&マイケル・ジャン・フリードマン著 ルミエール訳
エンターブレイン 142P
「……なるほどね」
パラパラ捲りながら頷く。
「たしかにぼくもウチの棚をネットメディアに褒められた時、これ見てお店に来てくれた人ががっかりしないように努めねばなあって気を引き締めたよ」
「ここの選書は本当に素晴らしいです」
「自分ではそうは思えない」
「同じ文脈で話すのはおこがましいけど、私も一緒です。現実に本屋チェーンで働いている自分は『ハードボイルド書店員』から見て5段階ほど下にいる。でもあの小説を書き続ける過程で、少しでも近づけるようにというモチベーションが」
「記憶力のことじゃないよね?」
「全部ひっくるめてです」
「そこは無理しなくていいんじゃないかな。人は忘れる方が自然な生き物だよ」
笑い合った。
また買いに来ます。そう告げて店を出た。まだ蒸し暑い。一方でだいぶ日が短くなった。クリスマスに年末年始。怒涛の繁忙期がすぐそこまで迫っている。憂鬱な気分がないわけではない。だがすべてを乗り越えたら、また少し「ハードボイルド書店員」へ近づいているはずだ。
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