愛は敗れても親切は勝つ

一ヶ月ほど外国にいた。
いろいろ思ったことはあるけど、様々な方向性での断片だけがあって、では何か書きたいことがあるのかといえば特にない。
頭に浮かんだことをそのままに書き出していけば
「みんな幸せになってね」という感じだけど、みんなの幸せはみんながそれぞれに向かったり感じたりするものなので、私が個人的に何か言うのはおこがましい気がする。
他人の人生に対して、私ができることは少ない。
それこそ、ここに書いた言葉が何かの役に立てばいいなあくらいのことしかできない。
家族なら経済的援助ができる。
自分の家族を持つというのは経済的な責任を持つことだから。
友人ならどうだろう。たぶんそこまでの余裕はない。
そもそも友人とは何だろうか。
用事がなくても会いたいと思う人と思っていたけど、人間って機械と違って出力が安定しないから、余裕があるときには会いたい人も、余裕がないときには会いたくない人になる。
面白い人も、おちこんでいれば無口な人になるし、ひもじくなれば不機嫌な人になる。
年をとったり病気や怪我をしたりで性格が変わってしまうこともある。
そうしたら、その人は友人ではなくなってしまうのだろうか。
しかし、能力や態度や言動ではなく、もっと何か根本的なところで、その人のその人らしさみたいなものがあるのかといえば、よくわからない。
人間の反応というのは、何らかの入力があって、その後に出力されるものなので、そういう意味では機械と同じように思う。
慎重な人は何事に対しても慎重な反応をするし、積極性のある人は何事にも積極的な反応をするというと、人間の性格はたしかにあるもののような気がするけれども、たぶんそれが壊れてしまうこともあるし、経験や学習や成長によって変わることもある。
だからあの人はもう友人じゃなくなったとか、変わってしまった、とかっていう話もSNSにはたくさんあふれているけれども、そういう話を見るたびに、なんとなく「配偶者が太ったから離婚しました」みたいな残酷さを感じないでもない。
もちろん人にはそれぞれ理由があるから「離婚」をいちがいに批判するわけでもないし「新興宗教にはまる」とか「不倫している」とか、いろいろ耐えられない理由はあるのだろうけど、人との縁を切るというのは残酷なものだなと思う。
ではそういう自分が博愛主義なのかといえば、たぶんそうでもなくて、冒頭に書いたように「みんな幸せになってね」とは思っているけれども、その「幸せ」はそれぞれが自分の力で手に入れるものと思っているので、自分から積極的に人とかかわることはあまりしない、というかできない。
でも、自分自身の「幸せ」が他人からもたらされることはしばしばあるので、きっと「こういうことをすると人は喜ぶ」みたいなのはあると思うのだけど、今までの経験からいうと、多くの人はそれを得たときにさらに求めるようになって、それが得られないと不幸と感じてしまうことがあるようなので、ごめんなさいと思うことがある。

作家カート・ヴォネガット・ジュニアはかつてこう書いた。
「愛は敗れても親切は勝つ」
親切に生きていきたい。

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