【第51話】風呂のあとに始まった、地獄の序章
■ 2021年3月31日、ゾナ三日目の朝。
私は、目覚めた瞬間から、いつもと違う“重さ”を感じていた。
身体が鉛のようにだるく、頭がぼんやりしている。喉の奥がヒリつき、全身に薄く寒気が走っていた。
皮膚の内側で何かが燻っているような、異様な感覚だった。
「だっる……これは……風邪か?」
風邪っぽいけど、少し違う。初めての感覚に戸惑いながら、私は立ち上がろうとした。
関節がギシギシと軋み、足取りもふらつく。
部屋の空気が、やけに乾いている。
誰かの咳、たばこの臭い、遠くから聞こえる怒鳴り声――
すべてが少しずつズレて感じられた。
「おい、大丈夫か?」
ギオが声をかけてきた。私は軽くうなずいたが、その動作さえしんどかった。
「顔色、やばいぞ。大丈夫か?」
「……なんやろ。たぶん、疲れが溜まってるだけや」
そう答えながらも、自分でもわかっていた。これはただの“疲れ”ではない。
逮捕からここに来るまでのストレス。
食事の偏り。シャワー後の急激な体温変化。
そして――感染。
心の奥で、気になっていたことがあった。
「アイツや……絶対あいつしかおらんやろ」
あの部屋に来た初日、薬草茶の儀式で回し飲みしていた男。
咳をして、鼻水をすすりながらカップを回していた、青白い顔のあいつ。
茶の香りよりも、やつの体臭のほうが強烈だった。
私はずっと健康だった。
逮捕されてからの9ヶ月間、一度も体調を崩したことがなかった。
グルダニは、どれだけ劣悪でもある意味“固定された安全圏”だった。
だがゾナは、人も空気も流動的だ。
油断した瞬間に、取り返しのつかないことになる。
誰かとタオルを共有したか?
手すりに触れたか?
あの湯気の中に、何かいたのか?
――あの風呂場から、“何か”をもらってきたのかもしれない。
そのときだった。
私は、背中にある“違和感”に気づいた。
じわじわと熱く、そして痒い。
鏡もない。誰にも見せたくない。だが、これはおかしい。
「なあ、ギオ。ちょっと背中、見てくれへん?」
ギオが驚いた顔でうなずき、私の背中をじっと見た。
「……なんやこれ。赤い斑点が広がっとる。でもベッドバグじゃない。アレルギー持ってるんか?」
これまでの人生で、アレルギーなんてなったことがなかった。
違う。
いくら考えても、原因はわからない。
でも――薬もない。手段もない。
私はようやく理解した。
「ゾナは、生き残ることが“戦い”なんだ」
それは他人との闘いだけではない。
自分の身体との戦いだった。
次に薬をもらえるチャンスは、2日後。
正直、それまで持つかどうかも分からない。
「悪化せんように……祈るしかない」
祈る?どうやって?
その時だった。
「イアポヌリ、サダリス?」(日本人、どこや?)
――別室から、一人の男が現れた。
茶色の短髪、薄い口髭、白い肌、ナヨっとした体つきのジョージア人。
「メ、ベカヴァル。モディ、チェミカメラ(俺はベカ。ついてこい、俺の部屋だ)」
私は反射的に立ち上がったが、すぐに気づく。
「レワンも、ギオもいない」
万が一のことがあっても、助けてくれる者はいない。
このまま何かあったら、自分でどうにかするしかない。
私は、自分の心臓が鼓動する音を、喉の奥で聞いていた。
ベカの部屋は、308号室から50メートル程進んだ廊下の真ん中に位置していた。
そこには、8台のベッドと6人の男たち。
だが、ここから――
予想もしなかった展開が待っていた。
続く。
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