【第52話】“貸し”と“神”──ゾナで交わる取引
ベカの部屋で
その部屋の扉をくぐった瞬間、私は一気に空気の変化を感じ取った。
308号室とは、明らかに“匂い”が違う。
鼻をつくような汗の臭い、こもった湿気、生乾きのタオルと古い煙草の残り香。
それが、何層にも重なっていた。
ここでは、時間が腐っている気がした。
ベカは無言のまま中に入っていった。
私は、彼の後ろについて慎重に部屋を見渡した。
8台のベッド。6人の男。
その全員が、こちらをチラリと見た。だが、誰も言葉を発さない。
テレビを見ている男、本を読んでる男、寝ころびながらこちらを睨んでいる男……
それが逆に不気味だった。
室内には、散らかったボロ布、空の水容器、食べかけのパン、こぼれた塩。
ひとつのベッドの下には、歯ブラシを削ったような尖った棒が無造作に転がっていた。
――ここ、やばいかもしれない。
私は直感的にそう感じた。
「ここ。ここに座れ」
ベカはそう言って、壁際の空いているベッドを指差した。
私は一歩だけ入って、壁を背に腰を下ろした。
視線は、決して誰とも目を合わせないように。
だが、全体は把握するようにしていた。
ベカはどこか落ち着きなく、袋をガサガサと漁っている。
その中から取り出したのは――薬だった。
細長いシートに入った白い錠剤が2つ。
それを手に持つと、私の方に差し出して言った。
「これ、お前にやる。飲め。お前、熱あるやろ?」
私は驚いた。
この状況で、薬? タダで?
「……え、なんで?」
「俺も前、同じような症状出たからな。あの薬草茶や。咳してたやつのせいやろ?」
ベカは笑った。
「でもな、これ一応“タダ”で渡すけど、忘れるなよ。これは“貸し”ってやつやから。」
――そう来たか。
私は迷った。
飲むか、断るか。
しかし目の前には、今すぐこの症状を和らげてくれそうな“救い”が差し出されている。
だがその裏には、どんな事が待ち受けているかわからない。
それに、この薬が本物かどうかも信じられない。
私は、迷っていた。
そのとき、部屋の奥で誰かが言った。
「日本人か?そういえば、前にいた日本人、ここで一番最初に倒れたよな」
一瞬、空気が凍った。
彼らの話によると、私が逮捕された約4年前、1人の日本人がこのゾナに収監されていたようだった。
罪は脱税関係と聞いたが、韓国人、中国人の共犯者も一緒だったらしい。
2年ほどここで過ごし、最終的には無事に出所できたという。
過去に日本人がこの場所にいたこと。
そして、既に出所したという話。
それを聞いて、正直私は勇気づけられた。
そして、ベカの見せてくれた薬も、丁寧に断った。
すると彼は言った。
「まぁ、ほんまに要らないなら無理にはすすめんよ」
そして突然、こんな質問を投げかけてきた。
「ところで、お前はどの宗教を信じてるんや?」
ベカはカジュアルな口調だったが、私は緊張した。
ここはゾナである。ベカはカタギではない。
外国人と会話をすると、宗教の話題が出てくることは珍しくない。
私自身、宗教や哲学が好きなタイプなので構わない。
だが、この場では違う。慎重に答える必要があった。
私はあえてはっきりしない、
有神論者にも無神論者にも取れるような曖昧な言い方で返答した。
するとベカは、こう言った。
「このゾナには教会があるんだよ。行ってみるか?」
このゾナの中に、教会?
その言葉に驚いた私は、興味津々で彼の提案に承諾した。
「こっちだ、ついてきな」
ベカはそう言って、私を連れて歩き出した。
続く。
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