【第57話】ゾナ最深部
ゾナ4日目、避難するために教会へ。
ロウソクの揺れる光が、ボロボロの壁に淡く反射していた。
そこは、刑務所の片隅にぽつんと存在する“教会”だった。
外から見ればただの空き部屋。
だが中に入ると、空気が確かに違った。かすかな線香の香りと、湿った静寂。
薄暗い室内には、歪んだ木製の十字架と、色あせたイコンが壁に並んでいた。
私は足元を引きずるようにして、椅子に腰を下ろした。
背中に染み込む冷たさ。でも、それが心地よかった。
ここは、不思議な場所だ。
誰もが信仰を持っているわけではない。
むしろ、多くの受刑者は十字架を嘲笑しながら生きている。
だが、誰もがこの空間を「汚さない」。
想像をはるかに絶する悪人がゴロゴロいるゾナだったが、
ここにいるすべての者は、「ここだけは別」と感じていたのだろう。
それは神への信仰とは呼べないかもしれない。
だが、決して否定することのできない“何か自分よりも偉大な存在”への敬意だったのかもしれない。
「ほら、水飲め」
隣に座ったベカが、小さなプラスチックボトルを差し出してきた。
私は黙って受け取った。
喉を潤すと、痛みが少しだけ引いていくのを感じた。
そのとき、ベカがぼそっと言った。
「ゾナではな、優しさと甘さは“刃物”や。
何かを渡す相手を間違えたら、自分の首を切ることになる。」
私はその言葉の意味を咀嚼しながら、十字架を見つめた。
その横に貼られた、黄ばんだ紙に印刷された聖句が目に入った。
「賢い者は危険を見て避難する。だが無知な者は進み続け、苦しみを受ける」
──箴言22章3節
私は思った。
これ以上、自分を苦しめるわけにはいかない。
笑いながら滅びるわけにはいかない。
私はこの場所で、生き延びなければならなかったのだ。
風邪の症状と戦いながら、私は自分の心と向き合っていた。
「私は一体なんのために生きているのだろう」
「この世界ってなんのためにあるんだろう」
「真理ってなんだろう。わかってるようでわかってない。神様って本当はどんな存在なんだろう」
思考は、言語化可能な領域から、
言語化不可能な領域へと、どんどん飛んでいった。
ドカッ!!!!!
突然、教会の扉が強く開いた。
「チナ、ミディ、ツラパッド!(おい、チナ、早く来い)」
看守の一人が、私を呼びに来た。
はっ!と気がついて周囲を見渡すと、
ロウソクはすべて消えていた。
どうやら、教会で居眠りをしてしまっていたらしい。
風邪の状態は最悪。喉と鼻が、完全に壊れてしまっていた。
だが、呼ばれた以上はついていくしかなかった。
どこに向かっているかなんて、分からない。
聞いても、教えてくれない。
――ただ静かに、休みたかった。
だが、その静寂はすぐに破られた。
「ナヘ!コロナ!アクァリ!(おい見ろ!コロナがいるぞ!)」
「マルタァリア!ミディミディ!(マジかよ!おい、見ろ見ろ!)」
看守に連れられながら咳をする私を見て、
マフィアたちの一部が騒ぎ出した。
「コロナ!コロナ!チナアクァリ!マギデダシェビッツ!ツァディ!!」
(中国のコロナ野郎はここにいるぞ!ぶっ殺してやる!出ていきやがれ!)
最悪の状況だった。
睨みつけながら唾を吐いてくる者、ゴミを投げる者。
もはや、私は人間ではなかった。
ちょうどこの頃、世界中でコロナ感染が拡大し、
ジョージアでも多くの人が死んでいた。
「原因は中国」という報道が連日流れていた。
そして、ゾナにたった一人の東アジア人。
私が狙われるのは、もはや必然だった。
どこから来たかも、何をしたかも関係ない。
私はただの“標的”だった。
そのとき、目の前にソウソウが現れた。
「チェンタンモディ(俺についてこい)」
その瞬間、私を連れていた看守は黙って身を引いた。
私は悟った。
「ここから先は、法律もくそもない。どうなってもいいように覚悟しておけ」
そして――
ソウソウが私を連れて向かった先。
それは、以前レワンに忠告されたあの場所だった。
「ここから先には、一人で行くな」
ひっそりと奥へ続く狭い通路。
その先には、まるで別世界のような薄暗い闇が広がっていた。
私はソウソウに連れられて、
ゾナ内部のさらに深い闇へと進んでいった。
(続く)
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