【第55話】話せば終わる、黙れば生き延びる
その場がいったん落ち着いたように見えても、私の心臓はまだ緊張をひきずっていた。
静かに呼吸を整えていると、ソウソウの声が聞こえた。
「おい、ちょっと来い」
彼はテーブルの奥にある角のスペースを指差していた。
そこには、簡易テーブルとボロボロの椅子、そして何枚かの紙とペン。
“ゾナの書記机”とでも言うべき一角だった。
「ここが俺たちのメモ台や」
ソウソウがそう言うと、誰かがペンをコツンと机に置いた。
「お前の名前、読み方、誕生日。全部、ここに書け」
――尋問じゃない。だが、記録されるということは、把握されるということ。
私は言われるがまま、ペンを手に取った。
すると、斜め後ろから別の男が覗き込みながら聞いてきた。
「おい、日本からなんでジョージアなんかに来た?なんで捕まった?何年くらった?」
この空気で、その質問か――。
刑務所の中で一番よく聞かれる質問がこれだ。
そして、一番聞かれたくない質問でもあった。
少しでも答えを誤れば、どんなラベルが貼られるかわからない。
「……大麻。大麻育てて吸っただけ」
そう言うと、何人かが小さく笑った。
「吸っただけ、ねぇ。で、いくら儲けたんや?」
「ここじゃ、“吸った”よりも“売った”方が信用されるんやで」
また誰かが言った。
「いや、このチナ、貸しを断ったらしいぞ。ベカのやつに」
「へぇ……なるほどな。おもろいやつやん」
冗談混じりの会話のはずなのに、
まるで目に見えないハンコが次々に押されていくような感覚だった。
「何かを要求されても簡単には渡さない」
「ベカの貸し(薬の提供)を断った」
「武器を見ても怯えなかった」
「宗教はぼかした」
その一つひとつが、“評価材料”として、静かに回覧されていく。
言葉はなくても、すでにゲームは始まっていた。
ちなみに、「ここじゃ、“吸った”よりも“売った”方が信用されるんやで」という言葉も、大嘘である。
逆に、外国人でジョージア人に何かを“売った”奴は最低の扱いを受ける。
その扱いは、控えめに言ってもゴミ以下だった。
それを知らずに喋った奴らは……もう、地獄という言葉では優しい。
だから、そんな状況を避けるためにも、本当に慎重に言葉を選んで話をしなければならなかった。
自分のことについても、話すべき事と、話してはいけないことを見極める必要がある。
たとえば――
日本人とジョージア人のセックスに対する価値観はまるで違う。日本人のような感覚で体験を語り合ったりはしない。
女性に対する考え方も違う。
同じジョージア人でも、旧ソ連的な教育とヨーロッパ的教育ではまるで人が違う。
そして大半は、我々が呼ぶ「教育」なんてものとは無縁の人々である。
そんな人たちの前で、たとえ誰かに聞かれても、性的な話は避けるべきだった。
マフィアの前でセックス体験を語っていたチリ人は、別室に連れていかれて――二度と帰ってこなかった。
そんな沈黙の読み合いが続く中で、
私は、自分の喉に異変を感じ始めていた。
声を出してないのに、喉が焼けるように痛む。
飲み込むだけで、ナイフで切られるような感覚。
「これアカンやつや……風邪が悪化してきてる……」
緊張と、ストレスと、冷たい空気と、湿気と――
このゾナの空気は、精神だけじゃなく、身体すら蝕んでくる。
喉の痛みは、次第に全身に広がるような予感がした。
まるで、「もう何も喋るな」と、誰かに身体ごと押さえつけられているような感覚だった。
だが、体調を崩している事を誰にもバラしたくなかった。
人の弱みに飢えている連中ばかりのこの場所で、生き抜くにはそうせねばならなかった。
私は黙ったまま、喉を押さえて、静かに席を立った。
誰にも気づかれないように、ベッドの上に横になった。
続く
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