【第46話】涙が出そうになった夜
ゾナの“裏側”に触れた日
ゾナ内部の探検から308号室に戻ると、部屋の空気がどこか変わっていた。
誰も口には出さないが、私が“レワンと何を話したのか”を、皆が知りたがっているのが分かった。
そして私は、黙って部屋の中央に腰を下ろした。
中央では、ソウソウとマムカが「ナルディ」で遊んでいた。
ナルディとは、見た目はバックギャモンと同じだが、ルールが違う。旧ソ連で人気のすごろくに似たゲームだ。
マムカは60歳くらいのマフィア幹部で、この部屋では唯一、ソウソウと同等に話している人物だった。
ソウソウが308号室の頭だということは分かっていたが、彼の本当の恐ろしさは、まだ分かっていなかった。
負けた方がスクワット30回。
負けっぱなしのマムカは黙々とスクワットを頑張っている。
ゲーム中、みんなは真剣そのもの。
まるで子供のような表情で遊んでいた。
静寂。騒音。煙草の匂い。
誰かが泣く声。誰かが怒る声。
廊下に落ちている残飯、猫の尿の臭い。
まるで魑魅魍魎のように、何かを求めて彷徨う受刑者たち。
――ゾナ内部の光景は、まさに地獄絵図そのものだった。
「シャムプニ モメツィ~(誰かシャンプーくれ)」
そんなことを言いながら、他の部屋から一人の男が現れた。
名前はザズ。他の部屋の頭だった。
この男も60歳近いジョージアンマフィア。
白い肌とたっぷりの脂肪、まるでローマ時代の金持ちのような雰囲気をまとっていた。
だが、彼は初日から私に目をつけ、シャンプーを何度も要求してきた。
(※ちなみに、刑務所の中ではシャンプーは高級品)
その場にいた受刑者たちは、皆このやりとりを注目していた。
シャンプーを渡すか、渡さないか――
どちらにしても、“評価”される局面だった。
ソウソウやマムカも、このやりとりを観察していた。
(助けないが、見ていた。)
ザズはニヤニヤしながら、一歩ずつ近づいてくる。
その瞬間――
「コンコンッ!!」
駒の音が放たれた瞬間、空気が止まった。
ソウソウは視線すら合わせていない。
ただナルディの駒を指で弾いたままだった。
ザズは一瞬、反論しようとしたが、口を閉じた。
「またな」と笑いながら、背中を向けて去っていった。
それは、“言葉を持たない命令”だった。
その夜、私は布団に横になりながら考えていた。
「この場所では、空気の読み合いがすべてだ」
「ソウソウに近づくか、関わらないか――それが今後の命運を左右する気がする」
慣れない場所、慣れない15人との相部屋。
無意識にも緊張が続いていた。
うまく眠れなかった。だが、その中で本当に嬉しかったことが一つある。
それは――
「ベッドバグがいなかったこと。」
この時の私にとって、
「虫に吸血されることなく眠れる環境」は、実に9ヶ月ぶりのことだった。
ベットバグを気にせず、ベッドの上に横たわれる状況……
泣けるほど嬉しかった。
そして、泣きたくなるほど辛かった。
本当は、家に帰りたくて仕方がなかった。
日本語で、自分の気持ちを理解してくれる仲間が欲しかった。
だが、そんな風に思ってもどうにもならない。
楽しかった思い出や、幸せだった瞬間を思い出すほど苦しくなる。
だからひたすら、前を向き続けるしかなかった。
続く。
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