【第47話】看守に名前を奪われても、私はまだ“私”だった。
2021年3月30日
昨夜はよく眠れなかった。
昔のことを思い出してしまい、思考が止まらず、眠りに入るのが難しかった。
朝の8時になると、看守が検査にやって来た。
全員、部屋の前に出され、一人ずつ名前を確認される。
――だが、私の場合は名前ではなく、「チナ」と呼ばれた。
彼らにとっては、中国も韓国も日本も、すべて同じ。
“アジア系=チナ”なのだ。
個人の区別なんて、どうでもいいということだ。
確認が終わると部屋の扉が開放され、ゾナの一日が始まった。
すると、グルダニから一緒だったギオがやってきた。
彼とは、ゾナに来たばかりの頃に、一緒に“待機室”で過ごした仲だ。
半地下のようなコンクリ部屋。
湿った空気と、不安が渦巻く閉鎖空間。
その中で、ギオは常に、冗談を言って笑っていた。
黒いTシャツに黒いジャージ。
どこか猿っぽい顔立ち。
だが、不思議と人懐っこい目をしていた。
「よう、行くか」
そしてレワンも合流し、朝一番から3人で“ジム”に向かった。
ジムといっても、私たちが想像するような設備はない。
手作りのマシン。 削ぎ落とされたベンチ。くり抜かれた木製テーブルの残骸。
誰かが溶接して組んだ、鉄パイプだけのフレームがあった。
それを肩に担ぎ、スクワットの真似事をする。
壊れかけた椅子を逆さにして、腕に負荷をかける。
懸垂バーの代わりに使うのは、金網フェンスの上から垂れ下がる一本のロープ。
消防士が登るようなロープを、汗で滑る手で必死に掴み、よじ登る。
焼けたロープの熱。皮膚のヒリつき。
だが、関係なかった。
理由なんていらなかった。
ただ、運動がしたかった。
とにかく、身体を――自分を――取り戻したかった。
「グルダニじゃ、こんなんできなかったよな」
ギオが笑った。
私もつられて笑った。
グルダニ刑務所では、運動なんて許される空気じゃなかった。
狭い部屋に押し込められ、毎日が“心の戦争”だった。
体力も、筋肉も、気力すらも、じわじわと腐っていく。
それに比べて、このゾナは異様だけど、まだ“余白”がある。
やれることがある。呼吸ができる。
そして、誰かと一緒にいられる。
30分ほど汗を流して、黙って空を見上げた。
高く、青く、どこか遠い空。
鳥が飛んでいるのが見えた。
これまでの人生の中で、これほど鳥がうらやましく感じたことはなかった。
金網越しに見える空。
それは、まるで“自由”そのものだった。
――それでも、私たちは笑っていた。
こんな場所でも、笑えた。
その瞬間だけは、囚人じゃなく、
一人の“人間”になれていた。
「っしゃ、そろそろ行くか」
レワンとギオが声をかけてくる。
本当はもう少し運動を続けたかったが、仕方がない。
「ドゥゲス、アバノアリス、ミディピジョ、モディ!」
(今日は風呂に入れる日だぜ、早く行こう!)
この時の私は、すでに10日以上、風呂に入れていなかった。
風呂なんて、当たり前じゃない。
――それは、夢のような贅沢だった。
早く行かないと混むらしい。3人は駆け足で向かった。
続く。
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