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人口ニュースは、家の鍵の担い手として読むー「不可住化」する地方で、団塊ジュニアは何を受け取ってしまったのか

人口ニュースを見るたびに、僕は最近、少し違う感覚を持つようになった。以前なら、出生数が減った、人口が減った、高齢化が進んだ、というニュースを、どこか社会全体の大きな数字として受け止めていた。もちろん大事な問題だとは思う。でも、それはまだ「日本の問題」であり、「地方の問題」であり、「行政の問題」だった。一方で、岩手に住み、両親が施設に入り、妻子を東京に送り、自分一人で山間部の家を管理している今、その数字はもう抽象的なニュースではなくなった。

人口ニュースは、「家の鍵の担い手」として降ってくる。

2025年の人口動態統計速報では、出生数は70万5,809人で10年連続の減少、死亡数は160万5,654人、自然増減数はマイナス89万9,845人とされている。速報値なので外国人等を含む数字だが、それでもこの国の人口減少が一段と進んでいることは間違いない。また、国立社会保障・人口問題研究所の地域別将来推計人口は、2020年国勢調査を基に2050年までの市区町村別人口を推計している。岩手県については、2050年に総人口が約78万人まで減る見通しとも報じられている。

もちろん、数字だけを見れば「深刻だ」で終わる。

けれど、地方に住んでいる人間にとって、この数字は単なる統計ではない。それは、十年後に誰が草を刈るのか、という問いである。誰が家の中に風を通すのか、という問いである。誰が墓を守るのか、という問いである。冬季に誰が雪を片づけるのか、という問いである。誰が自治会の役を引き受けるのか、という問いである。そして、誰が「この家をどうするのか」と問われるのか、という問いである。

僕の両親は、いま施設に入っている。あるとき、両親から「あの家はどうするつもりだ?」と問われた。僕は苦笑して、「まぁ未定かな」と答えた。本当は、未定というほど無邪気ではない。現状維持が永遠に続くとは思っていない。このまま家を守り続けることが、自分にとっても、妻子にとっても、子ども世代にとっても、どれほど非現実的なのかは、僕にはもう十分に見えている。けれど、それを施設にいる親に正面から言ったところで、何が生まれるのだろうか。

「あの家は、いずれ畳むことになると思う」
「墓も、将来的には考えなければならない」
「田畑も、管理しきれない」「子どもたちに継がせるつもりはない」

そんな言葉を、昭和十年代生まれの両親に向けて投げることはできない。それは、家の処分についての合理的な説明ではなく、両親が生きてきた世界の前提をへし折りにいく言葉になってしまうからだ。両親世代にとって、家は単なる建物ではない。土地は単なる資産ではない。墓は単なる石ではない。地域は単なる居住地ではない。そこには、自分たちが生きてきた時間がある。働いて、建てて、守って、つきあって、耐えて、続けてきた生活がある。先祖から受け取り、子どもへ渡していくはずだった連続性がある。

だから「あの家はどうするつもりだ?」という問いは、表面上は不動産管理の話に見えて、本当はもっと深い問いなのだ。私たちの生きてきた場所は、まだ続くのか。自分たちの人生の跡は、無意味にならないのか。子どもに引き継がれるはずだった世界は、なぜ引き継がれないのか。その問いに、僕は「未定かな」と答える。

それは逃げかもしれない。けれど、同時に、喪失の告知を先延ばしにするための、ささやかなやさしさでもある。ここで僕が感じているのは、単なる「実家どうする問題」ではない。もっと大きな物語が終わろうとしている
家は家督によって継がれるはずだ。先祖代々の墓は守られるはずだ。食物を得るために、田畑は荒らしてはいけない。そしてその地域共同体は続くはずだ。この感覚は、昭和的というより、もっと古くから日本社会、あるいは東アジア的な生活感覚の奥にあったものだと思う。人は死ぬが家は残る。家が残れば、祖先も残る。土地が残れば、家の記憶も残る。墓が残れば、死者との回路も残る。地域が残れば、生者も死者も孤立しない。そういう世界観が、長い時間をかけて、人々の生活の底に埋め込まれてきた。もちろん、家制度も墓制も地域共同体も、時代ごとに変化してきた。昔からずっと同じ形だったわけではない。けれど、それでも「家は続くものだ」という感覚は、かなり強く残ってきた。

その神話が、いよいよ現実条件を失い始めている。
問題は、日本人が家嫌いになったことではない。土地への愛着がなくなったことでもない。墓を粗末にしたいわけでもない。地域を見捨てたいわけでもない。むしろ、愛着はあるだろう。田園風景は美しい。山の稜線も、夕方の光も、春の匂いも、雪のきりりとした静けさも、子どもの頃から身体に染み込んでいる。家には記憶がある。庭にも、玄関にも、仏間にも、親の声にも、祖父母の気配にも、説明しきれない重みがある。けれど、その美しさを維持するには、労働がいる

雑草を刈る人がいる。雪を寄せる人がいる。屋根を塗り直す人がいる。農業用水路を管理する人がいる。道路に伸びた枝を伐採する人がいる。仏壇を守る人がいる。墓を掃除する人がいる。近所づきあいをする人がいる。自治会を回す人がいる。空き家にならないよう、風を通す人がいる。農村風景とは、ただ眺めて美しい景色ではない。膨大な無償労働の集積であることを知る都会人は少ない。そして、その無償労働を引き受ける人間が、もう足りなくなっている

僕は最近、この状態を「不可住化」と呼びたいと思っている。
法律上、住めなくなるわけではない。家はある。土地もある。住所も置ける。道路もある。電気も水道も、しばらくはあるだろう。しかし、医療、買い物、交通、除雪、草刈り、墓守、大自然との境界線の管理、家屋管理、自治会、親族の支援網が少しずつ細っていくことで、生活としてはだんだん成立しなくなる。

制度上は住める。しかし、生活としては住めない。
このように、住めるはずだった場所が、静かに住めない場所へ変質していく過程を、僕は「不可住化」と呼ぶ。過疎化という言葉は、人口が減ることを指す。無居住化という言葉は、人がいなくなる結果を指す。けれど、不可住化は、その手前にある現象だ。

まだ人はいる。まだ家もある。まだ墓もある。まだ地域行事も、かろうじて残っている。けれど、そこで暮らすための条件が、少しずつ、しかし確実に失われていく。なぜなら、不可住化は、ある日突然起きるわけではないからだ。昨日まで住めた場所が、今日から住めなくなるわけではない。少しずつ交通機関が不便になる。少しずつ店にシャッターが降りる。少しずつ病院が遠くなる。少しずつ空き家が増える。少しずつ自治会の役職の回りが早くなる。少しずつ草刈りに出られる人が減る。少しずつ親族が戻ってこなくなる。少しずつ、家が「帰る場所」から「管理しに行く場所」になる

そして、ある日気づく。

これはもう、「生活の場」ではなく「管理の場」なのではないか、と。僕たち団塊ジュニア世代は、この変化をかなり過酷な位置で見ている。上の世代の土地・墓・家・しがらみを受け取る“最後の世代”であり、下の世代にそれをそのまま渡すと、もはや重荷になりかねないことを知っている“最初の世代”

親世代の世界を、僕たちは完全には否定できない。その家で育ち、その土地に守られ、その地域の中で大人になったからだ。しかし、子ども世代に向かって、「お前たちもこの家を守れ」「この墓を守れ」「この土地を荒らすな」「この地域共同体を継げ」とは、もう簡単には言えない。それは愛着の継承ではなく、負債の相続になってしまうかもしれないからだ。ここに、僕たち世代の苦しさがある。

親には言えない。
子には渡せない。
でも、自分は背負っている。

この中間地点に、団塊ジュニア世代は立たされている。だから人口ニュースは、僕にとってもう遠いニュースではない。出生数が減ったというニュースは、やがて草を刈る人が減るというニュースである。人口が減るというニュースは、やがて墓を守る人が減るというニュースである。地方の将来人口が減るというニュースは、やがて「あの家はどうするつもりだ?」という親の問いになって、自分のところへ返ってくるニュースである。そして僕は、たぶんこれからも、しばらくは「未定かな」と答えるのだと思う。

それは、決断を先延ばしにしているだけかもしれない。でも同時に、親の世界を急に壊さないための、最後の緩衝材でもある。ただ、自分の中ではもう、問いは始まっている。家は、継承すべきなのか。だとしたらどのような形態があり得るのか。墓は、どのような形で弔えばよいのか。自然との境界線を誰も守らなくなれば、集落は自然に還るのか。地域共同体を続けるとは、誰の時間と労働によって可能なのか。そして、地方に住むとは、これから何を引き受けることなのか。

人口減少の本当の怖さは、数字が小さくなることではない。それまで当たり前だと思っていた生活の前提が綻びていくことだ。その前提が崩れたとき、僕たちは初めて、自分が何を受け取ってしまったのかに気づく。そして同時に、もはや何を次世代に渡せないのかにも気づく。

この連載では、そのことを考えてみたい。

人口ニュースを、遠い統計としてではなく、家の鍵として、墓の前の沈黙として、草刈りの重さとして、親への苦笑いとして、そして地方の居住可能性の問題として受け止め直してみたい。たぶんこれは、僕個人の家の話でありながら、これから多くの地方で起きる話でもある。

気楽に住めるはずだった場所が、少しずつ、しかし確実に住みにくくなっていく。その地方の過疎地域不可住化の時代に、僕たちは何を残し、何を畳み、何を弔い、何を子どもたちに渡さないと決めるのか。

それを考えるために、まずはこの言葉から始めたい。

人口ニュースは、「家の鍵の担い手」として降ってくる。
 


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