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信頼とは何か|「信じていたのに」は責任転嫁になっていないか

はじめに

「信じる」という言葉は、日常でも職場でもよく使われます。信頼関係を築くうえで大切な言葉とされる一方で、責任転嫁や他責思考をやわらかく隠す言葉として使われる場面も少なくないのではないでしょうか。きれいで前向きに聞こえるぶん、あまり疑われないまま通り過ぎていくこともあります。

人間関係の悩みや職場のトラブルを振り返ると、「信じていたのに裏切られた」「信頼して任せたのに失敗した」という言葉を耳にすることがあります。そうした受け止め方の中には、本当に相手だけの問題ではないものも含まれているのではないでしょうか。

本当に「信じる」とは何だろうか

「信じる」は、人間関係を前に進める言葉として受け取られることが多いものです。やさしく聞こえるし、関係性を前に進める力もある。だからこそ、使う側も受け取る側も、その中身を深く問い直さないまま流してしまいがちです。

ただ、本当に相手を信じている、という状態は、もっと重いものなのではないでしょうか。相手の事情も、迷いも、失敗の可能性も含めて受け止め、何か起きたときには一緒に頭を下げる。そうした「信じる」なら、たしかに筋が通っています。

けれど現実には、別の使われ方のほうが多いのではないか、と感じる人も多いはずです。「信じているから任せた」「信じていたのに裏切られた」。

本来は責任を伴うはずの言葉なのに、都合のいい場面だけで使われているように見えることもあります。

信じるとは何か|信頼と責任転嫁の境界線

「信じる」という言葉が使われるたびに、少し引っかかることがあります。

相手に何かを任せるとき、本当は自分も判断に参加していたはずなのに、結果が悪くなると急に「信じていたのに」と言い出す。そうなると、話の中心は信頼ではなく、自己防衛に移ってしまいます。

「信じていた」という言葉の便利さは、失敗したあとに出せることです。先に言っておけば、人は少し安心する。その安心の裏で、確認も設計も見直しも甘くなっていたりする。信じることと、確認しないことは本来別のはずなのに、いつの間にか同じものとして扱われる。ここに、危ういズレがあります。

本当に信じるという行為が成立しているなら、たぶん「丸投げ」にはならないはずです。信じるというのは、相手を放置することではなく、失敗したときの責任の線まで含めて引き受けることに近い。

ところが、口だけの「信じる」は、その線をきれいに消してしまいます。

上司の「信じているから任せた」は信頼か丸投げか

企業の上司が使う「信じている」は、かなり典型的です。「信じているから、その資料は先方に出していい」。この言い方自体は、部下に裁量を与えているようにも見えますし、少し任されている感じもあります。けれど、問題はその後です。

もし失敗したら、その上司は本当に部下を守るのでしょうか。「信じて任せたのだから、責任は自分にもある」と言える人は、実際にはそれほど多くないのではないでしょうか。

むしろ、最初は自由を与えたような顔をしていて、問題が起きた瞬間に「なぜ確認しなかったのか」と詰める。そうなると、「信じる」という言葉は、部下の背中を押したのではなく、結果として誰が引き受けるのかを曖昧にしていたようにも見えてきます。

逆に、本当に信じている上司は、失敗したときに一緒に前へ出るはずです。部下のミスを個人の落ち度として切り捨てるのではなく、自分の管理や指示の甘さも含めて見直す。

そこまでして初めて、「信じる」は言葉ではなく行動になります。信じると言いながら、失敗時には冷たく切るだけなら、それは信頼ではなく、都合のいい放任です。

マネジメントの世界では権限移譲が重要だと言われます。しかし、権限を渡すことと責任を手放すことは本来別の話のはずです。

「信じていたのに裏切られた」は他責思考になっていないか

「信じていたのに、裏切られた」と言う人を見ると、少し冷めた目になる人もいるのではないでしょうか。もちろん、本当に傷ついたケースもあるでしょう。人間関係はきれいごとだけでは済まない。それでも、そうした受け止め方の中には、自分自身の判断や選択を振り返る視点が抜け落ちている場合もあります。

人は、失敗したときに自分を守りたくなるものです。だから、あの人が悪かった、あの会社がひどかった、あの上司が無責任だった、と言いたくなる。その気持ち自体は理解できます。「信じていたのに」は、ときどき自分の判断を検証する作業を止める言葉にもなります。そこが厄介です。

本当に問うべきなのは、相手が何をしたかだけではなく、自分は何を見落としていたか、ではないでしょうか。信じるという感情の中には、都合よく見たいものだけを見る作用もあります。見えていたはずの不安を無視して、最後は「信じていた」で片づける。そうすると、次も同じことを繰り返しやすい。信じたことが問題なのではなく、信じることで思考を止めたことが問題なのだと思えてきます。

信頼関係とは何か|失敗した後に試されるもの

「信じる」という言葉そのものが悪いわけではありません。ただ、その言葉を使うなら、重いはずです。相手を信じるなら、自分の判断も引き受ける。信じると言った以上、結果が悪かったときに相手だけを責めない。そこまで含めて初めて、「信じる」は誠実な言葉になるのではないでしょうか。

そうでなければ、「信じる」は簡単です。信じていた、任せた、裏切られた。言葉は整っているのに、責任はどこにも残らない。都合が悪くなった瞬間だけ相手に重みを移すなら、それは信頼ではなく、感情を使った責任逃れに近いです。

たぶん、「信じる」という言葉は、きれいであるほど危ないのかもしれません。何も考えずに口にできるとき、その中身は薄いことがあります。信じるとは何か。

相手を見捨てないことなのか、自分の判断を引き受けることなのか、それとも単に面倒な責任を遠くへ押しやることなのか。そうした境目を、見落とさないまま使いたい言葉です。

最後に残るのは、信じたかどうかではなく、何が起きたときに誰が一緒に前へ出たか、なのかもしれません。


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